#007「教会極秘パンクライブ第二弾。そこには恐るべき“ヤツら”が待ち構えていた…」ーベルリンの壁をすり抜けた“音楽密輸人”

【連載】鋼鉄の東にブツ(パンク)を運んだ男、マーク・リーダーの回想録、7章目。
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「東ベルリンは、世界一入場規制が厳しい“ナイトクラブ”のようだった」

回顧する男は、マーク・リーダー(Mark Reeder)。
イギリス人音楽プロデューサー、ミュージシャン。そして“音楽運び屋”。
冷戦時代、ベルリンの壁と秘密警察の手をくぐり抜け、
抑圧の東ベルリンへ禁じられたパンクロックを“密輸”した男である。

「壁の西側には色鮮やかなグラフィティが施され、東側では兵隊が銃を構え整列する」
人権、文化、金銭の価値、国民の一生、そして人間の尊厳を決定した
高さ3メートルの「ベルリンの壁」。
それを境に、西は「経済」「自由」「文化」のすべてが豊かに栄え、東はすべてに飢えていく。
それは「音楽文化」も同じだった。

命懸けの東から西への逃亡。厳重な検問を乗り越えねばならない西から東への越境。
しかし、マークは幾度となく壁をすり抜けた。

西から東へ極秘の“ブツ”、パンクを密輸、禁じられた音楽を東に紹介するため。
これは、かつて“音楽密輸人”だった張本人の回想録だ。

***

前回のエピソードでは、西ベルリンで生まれた伝説ゴミ楽器バンドや東にも密かに存在したゲイディスコでぼくの密輸テープが流れたことについて話した。今回のエピソードでは西に影響受けた東のバンドや東の音楽狂たち、ついに秘密警察に見つかってしまった(?)教会違法パンクライブ第二弾について明かしていこうと思う。

▶︎1話目から読む

#007「教会極秘パンクライブ第二弾。そこには恐るべき“ヤツら”が待ち構えていた…」

歌詞に“隠れメッセージ”、ハガキに“暗号”

 西の人間は東でなにが起こっているのかなんて気にも留めなかったが、実際東には西の音楽に影響を受けた“なりきりバンド”が次々誕生していた。ザ・ポリスを真似たジェシカ、ノイバウテンのようなAGゲイガー、“ジェネシス+ディープ・パープル+ユーライア・ヒープ”なカラット。しかしやはり音楽活動は容易いものでは到底なく、楽器ひとつ手に入れるのが骨折り、やっと手に入れた楽器にはケーブルを張りアンプに繋ぐ。いや、その前にアンプを見つけるという大仕事があったか。それに、東では「バンド結成=党の方針に従う」。物議を醸すような話題や政治的内容の歌は断固禁止、それでも歌おうとした者は高い代償を払わされる。みな歌詞はドイツ語でなければならなかったので、外国語を“利用”して意味深なメッセージを隠すことも不可能だった。それでもうまくやってのける者はいるもので、プログレッシヴロックグループ「スターン・コンボ・マイセン」のメンバー、ICファルケンバーグは自身のヒット曲『ワンダーランド』で、“牧歌的なおとぎの国”を夢見た。このおとぎの国はどこかって? 東ドイツでないことだけは間違いないだろう。東のバンドには素人丸出しで正直ひどい腕のバンドもあったが、ぼくは少しでもファッショナブルでニューウェーブな音を鳴らそうと頑張る若者の姿には感謝の念すら持った。

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ベルリンのメディア・アーティスト、ファビアン・グローブ。

 東の音楽マニアたちはどうやって音楽を消費していたのだろう。大半は、西ベルリンのラジオ番組やBBC(英国放送協会)、AFN(米軍放送)、RIAS(西ベルリン米軍占領地区放送局)、SFB(自由ベルリン放送)などから流れてくる西の音楽をテープに落とした(「お願いだから、ラジオDJよ、延々に語らないでくれ」と願って)。RFTというカセットレコーダーはとても高価で、オルヴォ社のカセットテープは一ヶ月の家賃分だったので、録音したテープは回し聴きかコピー。イギリスのような海賊放送(放送免許なしのラジオ放送)は存在しなかった。なんせ秘密のラジオ局をつくろうとしても、必要な機材を手に入れることさえ難しかったし、ラジオやテレビは共産党の“拡声器”となっていたからだ

 西のアーティストのLPは法外な価格で、たとえばディープ・パープルやピンク・フロイド、ジミ・ヘンドリクスのようなクラシックロックのオリジナル盤といったら100DM(現在のレートで50ユーロ=約6,600円)もするため、ブートレグが出まわる(質はこの上なくよかったが)。街には国営のレコードショップしかなく、闇ショップはなし、人づてか蚤の市しかルートはなかった

 だから、東の音楽狂はぼくの密輸カセットに大変世話になった。もしこんな違法がバレたらぼくの身になにが起こるか承知の上だったが。カセットにはクラシックロックからパンク、ディスコに映画のサウンドトラックをつめこんで。エレクトロなデペッシュ・モードやニュー・オーダー、ペット・ショップ・ボーイズ、ゴスロックのシスターズ・オブ・マーシー、英ニューウェーブデュオ・ソフトセルのマーク・アーモンドなんかだ。西ベルリンからはゴミ楽器バンド・ノイバウテンにマラリア!、教会違法ライブを成功させたパンクバンド、ディー・トーテン・ホーゼンの新曲も。
 手に入れたばかりのハイエナジーの12インチレコードでディスコミックステープもつくった。一つのカセットでジャンルをごちゃ混ぜにすることも。たとえばエンニオ・モリコーネ*のような映画音楽ではじまり、エレクトロかヒップホップ、そいでもって次にダークでシンセっぽいものときてディスコでシメる。とにかく普段ラジオで流れない種の音を、東の音楽狂たちにできるだけ聴かせてあげたかったんだ

*イタリアの作曲家。『ニュー・シネマ・パラダイス』『マレーナ』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』などを手がけたことで有名。

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 東の者はこんな感じで音楽を“盗み聴いて”いたが、秘密警察(STASI)に見つかるリスクは常にあった。もちろんぼくも細心の注意を払わなければならない。特に東西ベルリン間の連絡はいつでも非常に難しい。西から東への電話は容易だが、東から西へは一筋縄ではいかない。まずは電話を予約。会話内容すべては監視対象だ。他の連絡手段といったら「郵便」だったが、電話同様、東を行き来する郵便物はもちろん監視対象。秘密警察はかなりのプロで、形跡を残さずに郵便物を開けてしまう。なので、ぼくが活用したのは「ハガキ」だった。文面にちょっとした“暗号”を組みこむのだ。たとえばこう書いたとする。「昨日の晩、2週間前に発売されたシスターズ・オブ・マーシーのニューアルバムを聴いたんだけど、たった2分30秒しかない曲があったんだぜ」。この暗号を解いてみると、こうなる。「2週間後の水曜日、午後2時30分に地下鉄のあの駅で落ちあおう

教会極秘ライブ第二弾。まずい、秘密警察に見つかった!?

 1983年に、ぼくは歴史上初・東での西バンド違法演奏を“教会”で成功させていた。バンドは、西ベルリンのパンクバンド、ディー・トーテン・ホーゼン(以下、ホーゼン)。そして懲りずにまた、ぼくは反体制の仲間と豪ニューウェーブバンド「ザ・チャーチ」のメンバー、友人のトレバー・ウィルソン(ベルリンのアングラ雑誌編集者)と一緒にホーゼンの教会極秘ライブ第二弾を企てていた。今回の名目は、ルーマニア孤児飢餓のためのチャリティコンサート。サポートアクトは、東のインディーグループ、ディー・ヴィジョンだ(のちに彼らのアルバムをプロデュースすることになるのだが)。この頃までには、ぼくは車持ちの米兵とも仲良くなっていた。彼は連合軍側の人間なので、東西の国境においては監視対象にならない。彼の手助けで、車用のカセットラジオにカセットテープ、レコード盤、食品、ギターにベース、VHSカメラにフィルムまで持ちこむことができたというわけだ。

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バンド、ディー・ヴィジョン。

 88年の凍える寒い土曜の朝“トップシークレットライブ”の招待客は選ばれし30人の知り合いだったが、到着すると教会の広場で待っていたのは何百人もの群衆だった。しかし異変はこれだけではなかった。ディー・ヴィジョンが前座を演っている間、制服に身を包んだドイツ人民警察がぶらついていたのだ。教会前には人民警察の車が乗りつけられている。政府関係者がこの極秘ライブについて聞き知っていることは明らかだった。そして極めつけはあの恐るべき秘密警察が、ホーゼンの演奏を阻止しようと現場に踏み込んでいたのだ。もはや今回の極秘ライブは、ぼくらが願うほど“極秘”といえなくなっていた。

 いよいよホーゼンの出番、となったとき教会の司祭が残念なお知らせを観衆に告げた。「ホーゼン演奏禁止」。落胆が観客を駆け巡る。午後の楽しみを奪われてしまったと怒るパンクスたちが、ぞろぞろと広場を後にした。

 ぼくたち主催者はどうにかしてホーゼンのライブを実行しようと脳みそを絞った。この崖っぷちの状況を切り抜けることは無謀に思えたが、ここにきてある策を閃いた。秘密警察はきっとホーゼンがどんな連中か知らない。では「ホーゼンはドレスデン(東ドイツの街)出身の他のバンド」ということにし、司祭にも口裏を合わせてもらおう。言いなりの司祭がドレスデンのバンドが演奏すると不機嫌な観客に告げている間、ぼくは会場を後にするキッズたちを追い、戻ってくるように呼びかけた。“ドレスデンから来た他のバンド”は君たちの目当てホーゼンなんだよ、と目配せをして。なにをほざいているのだと言わんばかりのぼんやり目線、疑い深い視線を投げかける者もいたが、大喜びで広場に駆けもどる者もいた。“ドレスデンのバンド”ホーゼンは、欺瞞(ぎまん)がバレ中断させられるまでの45分間、ライブをやり遂げた。

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 ライブも無事(?)終了後、夕暮れどきにバンドたちと東のパンクス集団を連れてカール・マルクス通りの“東にしては高級な”(それでも小汚い)ハンガリー料理屋を訪れた。ぼくと米兵の友だちの後を充血目で酔っ払ったパンクブラザーたちがゾロゾロと行進する(中にはビールをラッパ飲みしているヤツもいた)。こんな高級店に入るのははじめての者もいた。ぼくら20人の薄汚いパンクスたちは、ちょっとだらしなく腰掛け、酒にタバコを嗜みデカダンな雰囲気を味わっていた

 時計の針が深夜12時を刻々と目指すなか、西から来たぼくたちは大急ぎで国境に向かった。米兵の友だちは一方通行の道を逆走したり信号無視したりと、可能な限り交通ルールを破り尽くした。ベルリン=フリードリヒ通り駅の国境で、ホーゼンと落ちあう。リードボーカルのカンピーノは第一関門の看守に早速呼び止められ、被っていたニット帽を脱ぐように言われていた。カンピーノが素直に応じると、イチゴのように真っ赤なツンツンヘアがお出ましした。この“感嘆すべき”光景に絶句した看守が冷淡に「どこの馬鹿がお前を東に入れたんだ?」と吐き捨てると、カンピーノは抜け目なくこう切り返した「お前の仲間の馬鹿野郎さ!」。この後どうなったかは想像にお任せするとしよう(もっとも彼は生きて越境できたが)。

 次回は、ベルリンの壁崩壊前夜の小話たち。しぼんでいく西の音楽シーンを尻目に、ティーンから絶大人気を誇った東初インディーバンドのレコードプロデュース裏話(これが“拷問”のように大変だった…。しかもこれ、共産主義支配下の東ドイツ最後のアルバムとなった)や、東の者が殺到したデヴィッド・ボウイの“壁ギリギリ”コンサート(実際ぼくは現場にいなかったが)、壁崩壊の数ヶ月前に催された“愛と平和のデモ”・ラブパレードなど。音楽界に一筋の光が差しこんだ東の転換期を語っていく

***

マーク・リーダー/Mark Reeder

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1958年、英・マンチェスター生まれ。78年から独・ベルリン在住。ミュージシャン、プロデューサー、サウンドエンジニア、レコードレーベルの創設者として英独、世界のミュージシャンを育てあげる。
過去にはニュー・オーダーやデペッシュ・モード、電気グルーヴなど世界的バンドのリミックスも手がけてきたほか、近年では、当時の西ベルリンを記録したドキュメンタリー映画『B Movie: Lust& Sound in Berlin (1979-1989)』(2015年)でナレーションを担当。現在は、自身のニューアルバム『mauerstadt』の制作やイギリスや中国などの若手バンドのプロデュースやリミックス、執筆・講演活動なども精力的に行っている。markreedermusic(ウェブサイト)

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Writer: Mark Reeder
All images via Mark Reeder
Translated by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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