#004「性に音楽、西ベルリン狂乱時代。その頃、東でも世紀の“違法パンクライブ”がはじまろうとしていた」ーベルリンの壁をすり抜けた“音楽密輸人”

【連載】鋼鉄の東にブツ(パンク)を運んだ男、マーク・リーダーの回想録、4章目。
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「東ベルリンは、世界一入場規制が厳しい“ナイトクラブ”のようだった」

回顧する男は、マーク・リーダー(Mark Reeder)。
イギリス人音楽プロデューサー、ミュージシャン。そして“音楽運び屋”。
冷戦時代、ベルリンの壁と秘密警察の手をくぐり抜け、
抑圧の東ベルリンへ禁じられたパンクロックを“密輸”した男である。

「壁の西側には色鮮やかなグラフィティが施され、東側では兵隊が銃を構え整列する」
人権、文化、金銭の価値、国民の一生、そして人間の尊厳を決定した
高さ3メートルの「ベルリンの壁」。
それを境に、西は「経済」「自由」「文化」のすべてが豊かに栄え、東はすべてに飢えていく。
それは「音楽文化」も同じだった。

命懸けの東から西への逃亡。厳重な検問を乗り越えねばならない西から東への越境。
しかし、マークは幾度となく壁をすり抜けた。

西から東へ極秘の“ブツ”、パンクを密輸、禁じられた音楽を東に紹介するため。
これは、かつて“音楽密輸人”だった張本人の回想録だ。

***

はじめての訪問から東ベルリンに取り憑かれ、禁じられた音楽を詰め込んだカセットテープの密輸を成功させたぼく。今回は“自由”という言葉がこの上なく似合っていた西ベルリンでの生活と、東ベルリンでのあの「教会違法パンクライブ」が無事完遂できたのかについて話す。

▶︎1話目から読む

#004「性に音楽、西ベルリン狂乱時代。その頃、東でも世紀の“違法パンクライブ”がはじまろうとしていた」

 東ベルリンに恋に落ちたぼくにとって、規制でがんじ絡めの東と対極にある西ベルリンの生活も魅力的なものだった。バカ安い家賃にビール。ローラースケートで踊るディスコにローラースケートでトランスジェンダーがバーガーを運んできてくれるレストラン。女の子はアンダーヘアを剃っていなくて、男の子たちはキツくかけたパーマに大きな口髭、化粧をしている者さえいた。みんながレコードプレーヤーやカセットレコーダー、それかウォークマンを持っていて、テレフォンボックスの前には長蛇の列。ポラロイドのインスタントカメラかスーパー8mmフィルム(個人用ムービーフィルム)も小脇に携えて[1]。 

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ぼくのクローゼットの服はほとんど“ジャンクショップ”から来た。服から日用品までなんでも揃うがらくた屋で買った中折れ帽にレザーコート。
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通りがかったお年寄りが顔をしかめる、ぼくの“ゲシュタポ(ドイツの秘密警察)”ルック。ジャンクショップのほかにも若者に人気だったのはブルームーンという名の流行りの服屋で、
そこではドクターマーチンのブーツやジョー・ストラマーが着ているようなレザージャケットが手に入った。

 西ベルリンに着いたばかりの頃、ぼくはデヴィッド・ボウイに会うことを試みた。一番現実味のあるルートは、ボウイと同居していたこともあるエドガー・フローゼ(ドイツのロック/シンセサイザー音楽グループ・Tangerine Dreamのメンバー)に近づくことで、彼を訪ねにアパートまで足を運んだ。しかし呼び鈴で中から出てきたのは赤子を抱えた彼の妻で、エドガーはツアーで不在だった!結局、彼に会うことができたのは20年後になってしまった。

 ちょっとヤケになって、ボウイやイギー・ポップが入り浸っていたゲイカフェやキャバレー風のナイトクラブに行ってみたりもした[2]。そうやって毎晩地元のクラブやバーに通っていると、やがて同じ顔に出会うようになる。ヒッピーやパンクス、不法居住者、ゲイやレズビアンがひしめく街。お世辞にも綺麗とは言えなかったが、すごくセクシーな街だった[3]。

 ベルリンのミュージシャンたちも自由で、互いのバンドメンバーを交換しあったり一回限りのコラボレーションをしてみたりと、個人ばかりが抜きんでることに必死だったマンチェスターのミュージシャンに比べ、どこか肩の力が抜けていた。

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マークが結成したバンド、Die Unbekannten

自身のバンドにガールズバンドのマネージャー。ベルリンでも「音楽」で世過ぎする

 その風潮に押され、ぼく自身もバンドを組むことになってしまった。そんなつもりはさらさらなかったのに。1980年の大みそか、あるクラブの閉店ライブイベントで出演バンドに欠員が出たからちょっと演ってくれないかとプロモーターから電話が掛かってきたので、慌ててアパートにギターを取りに行き、ドラムやシンセサイザーが弾ける友人も巻き込んでステージに立った。酔いが醒めぬままジェームズ・ボンドのテーマなんか数曲プレイしたのだが、正直酷い出来。しかしプロモーターはそうは思っていなかったみたいで、半年後にまた出演を頼まれた。ドラッグでハイになっていたのか酔っ払っていたのか気が狂っていたのか「やります」とまた承諾してしまったぼくは、その頃親しくしていたイギリス人の男、アリステア・グレイをボーカルに指名しベースの弾き方を教えた。ライブ当日、ステージでは酔い(昼から呑んでいた)と緊張が一気に襲ってきて、違う曲のドラムパターンをかけてしまったり、アリステアは歌詞カードが読めずきちんと歌えず散々な始末だった。でもこのライブが不覚にもアルバムとしてリリースされてしまい、西ドイツのロック雑誌が「頑なまでのミニマリストだ」とか地元ジャーナリストが「“知られざる(The Unknown)のふたりのイングリッシュメン”」と絶賛レビューを書いた。そうしてぼくたちのバンド名は「Die Unbekannten(The Unknown)」になった。

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Die UnbekanntenとミュージシャンのThomas Wydler(トーマス・ワイドラー)。

 さらにぼくが西ベルリンに移住したことはマンチェスターですぐに噂になって、昔からのDJ仲間ロブ・グレットン(ジョイ・ディヴィジョンのマネージャー)が、できたばかりのインディーレーベル「ファクトリーレコード(*)」のベルリン特派員にぼくを推薦してくれた。特派員としてジョイ・ディヴィジョンやオーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダークといったファクトリーのバンドを、ベルリンのラジオ局や音楽雑誌に売り込んだりしていた[4]。

*78年にマンチェスターで創立されたインディーズレコードレーベル。 ジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー、ハッピー・マンデーズなどのバンドを輩出、ポストパンク、マッドチェスター、レイブシーンの形成に大きく貢献した。

 とまあベルリンでもぼくは音楽で飯を食っていたというワケだ。地元のクラブに出入りしていると、ほどなくしてガドラン・ガットという名の女と知り合いになる。彼女は女だけのエクスペリメンタルバンド「Malaria! (マラリア!)」を率いていて、このバンドときたらいままでの音楽とは実にかけ離れた新しいサウンド、どのボーイズバンドよりも激しい音楽に強烈なライブ。メンバーたちも中性的でミステリアス、そして本当に変わり者たちだった。ぼくはすぐに気に入り、ローディーやサポートアクト、サウンドエンジニアなどをやるようになったのだが、彼女たちはみんなに「マーク・リーダーは私たちのマネージャー」と言いふらすようになってしまった。[5]

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Malaria! (マラリア!)

教会違法ライブの顛末〜マイクが壊れ、ボーカルはやけくそに地声で叫んだ

 マラリア!のほかにぼくがサウンドエンジニアを担当していたバンドが「Die Toten Hosen(ディー・トーテン・ホーゼン)」。そう、あの東ベルリンの教会での“違法ライブ”を遂行することになった西ベルリンのパンクバンドだ。話が宙ぶらりんになっているので、その顛末を話そう。

 東の音楽狂にパンクバンドを生で見せてあげようと誓ったぼくが司祭を説きふせ、教会で違法ライブをすることになってた、というところまで話していたと思う。当日は、東の友人にギターとみすぼらしいドラム、アンプ一台、壊れかけのマイクを工面してもらっている間、ぼくの方ではメンバーの西から東への越境を遂行していた。「東は世界一入場規制が厳しい“ナイトクラブだから、所作も格好もいたって普通に」と釘を刺すパンキッシュな服に髪型は絶対NGだ検問所の前でメンバーを小さいグループにわけ、互いのことを知らないふりをさせるなどの入念な申し合わせで、越境に成功した

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 その晩ぼくたちは教会のコミュニティーホールに集まり、この日最初で最後の記念撮影をした。そして30人ほどの内輪の友だちを前に、照明もステージもないライブがはじまったのだ。警察がぼくたちに逮捕しに突入してくるかもしれない? もう遅かった。肝心のライブは、終始電流が走ったかのような衝撃だった。2、3曲演ったあとマイクは壊れ、ボーカルはやけくそに地声で叫んだり。すべての楽器の音が一つのアンプに集まり、悲歌のように聴こえてしまうこともあったけど、重要だったのは音そのものではなくて、西のバンドが東でパンクを演ったということだった。

 小一時間のライブ中、一分一分刻まれるごとに警察はいつ来るかとそわそわしたが、結局現れなかった。「やったぜ!うまくいった」「冷酷なスターリン崇拝の東ドイツを負かしてやった!」。違法ライブの成功はぼくたちみんなで起こした“政変”であった。のちにわかったことだが、西のバンドが東ベルリンで違法演奏したのは、歴史上これがはじめてだった

 次回は、東のアングラバンドをイギリスのテレビ音楽番組に出演させてしまおうというぼくの無謀な“東のバンド逆輸入”話をしたいと思う。

マーク・リーダー/Mark Reeder

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1958年、英・マンチェスター生まれ。78年から独・ベルリン在住。ミュージシャン、プロデューサー、サウンドエンジニア、レコードレーベルの創設者として英独、世界のミュージシャンを育てあげる。
過去にはニュー・オーダーやデペッシュ・モード、電気グルーヴなど世界的バンドのリミックスも手がけてきたほか、近年では、当時の西ベルリンを記録したドキュメンタリー映画『B Movie: Lust& Sound in Berlin (1979-1989)』(2015年)でナレーションを担当。現在は、自身のニューアルバム『mauerstadt』の制作やイギリスや中国などの若手バンドのプロデュースやリミックス、執筆・講演活動なども精力的に行っている。markreedermusic(ウェブサイト)

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Writer: Mark Reeder
Reference: [1][2][3][4][5] Reeder, Mark.(2015). “B BOOK: LUST&SOUND IN WEST-BERLIN 1979-1989”. Edel Germany GmbH
All images via Mark Reeder
Translated by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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