#006「西では“ゴミ”を楽器にしたバンドが誕生。東の隠れゲイディスコではぼくの“密輸テープ”が流れた」ーベルリンの壁をすり抜けた“音楽密輸人”

【連載】鋼鉄の東にブツ(パンク)を運んだ男、マーク・リーダーの回想録、6章目。
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「東ベルリンは、世界一入場規制が厳しい“ナイトクラブ”のようだった」

回顧する男は、マーク・リーダー(Mark Reeder)。
イギリス人音楽プロデューサー、ミュージシャン。そして“音楽運び屋”。
冷戦時代、ベルリンの壁と秘密警察の手をくぐり抜け、
抑圧の東ベルリンへ禁じられたパンクロックを“密輸”した男である。

「壁の西側には色鮮やかなグラフィティが施され、東側では兵隊が銃を構え整列する」
人権、文化、金銭の価値、国民の一生、そして人間の尊厳を決定した
高さ3メートルの「ベルリンの壁」。
それを境に、西は「経済」「自由」「文化」のすべてが豊かに栄え、東はすべてに飢えていく。
それは「音楽文化」も同じだった。

命懸けの東から西への逃亡。厳重な検問を乗り越えねばならない西から東への越境。
しかし、マークは幾度となく壁をすり抜けた。

西から東へ極秘の“ブツ”、パンクを密輸、禁じられた音楽を東に紹介するため。
これは、かつて“音楽密輸人”だった張本人の回想録だ。

***

前回のエピソードでは、▶︎東ベルリンの“禁じられたパンク”を史上初、英音楽番組に出演させた実録を明かした。今回のエピソードでは、西ベルリンで生まれたゴミ楽器バンド(彼らはのちに音楽史に残る伝説のバンドになる…)に、英テクノダンスバンド、ニュー・オーダーをも感化させた眠れぬ街のディスコシーン、そして東ベルリンにも密かに存在したゲイディスコにぼくの密輸テープが流れたことなどを語ろう。

▶︎1話目から読む

#006「西では“ゴミ”を楽器にしたバンドが誕生。東の隠れゲイディスコではぼくの“密輸テープ”が流れた」

西で誕生、“ゴミ”を楽器にした実験バンド

 

 時計の針が深夜12時を過ぎないと、なにもはじまらない街。しかしいったん過ぎると朝9時まで“夜”が続く街。それが西ベルリンだった。夜行性動物たちの溜まり場クラブ「Risiko(リスク)」に、上の毛(頭の毛)だけでなく“下の毛”も整えることができる“ぶっ飛びサロン”。夜はアートショーや実験音楽のライブパフォーマンスなんかをやっていた。トイレはなく、シンクが洗髪と“排泄”兼用だった[1]。

Mark&MurielGrey300dpi
英音楽番組『Tube』のインタビュアー、ミュリエル・グレイと。

 ぼくの西での生活に余裕などない。9時5時とは真逆のサウンドエンジニアの仕事、常に担当バンドのため次のギグチャンスに目を光らせるマネージャーの仕事。レコードを買うお金や東へ行き来する費用も確保したい。だから、シェーネベルクのクラブのバウンサーだってバーテンダーだってやった。それはクラブやバーで出会った人間も同じで、ぼくのように昼の光を見たことのない夜行性動物ばかりだった。いつも閉店ギリギリ5分前に滑りこんでヒーターの炭や1リットルの牛乳を手に入れられたらラッキー、という人たちだ。

 その代表格が、ブリクサ・バーゲルトという男だった。マラリア!*のメンバーが経営していた服屋(ベルリンミュージシャンたちの溜まり場)の下宿人で、オーソドックスの真逆を突っ走るような男。変人の多いベルリンを物差しにしてもかなり度が過ぎていた。彼は「アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン」という名の新しいバンドをやっていて、楽器や器材を買う金がないからと、通りで拾ってきた一般的に“ゴミ”と呼ばれるモノ(鉄柱や金属くず、工事現場用具、洗濯機のドラムなど)を拾ってきては曲を奏でた。財布に余裕がない者はときに創造的になれる。ブリクサには学歴も職もアパートすらなかったが、工場地帯の荒地を探索し、アウトバーン(ドイツの高速道路)の橋に隙間を見つけバンドの練習場所にした。高さ1.5メートルほどしかない狭い空間は“驚くほどにアコースティックに響く上質な環境”で、頭上に重量トラックが走ると揺れがひどかった。ギターを弾くにも猫背だ。ブリクサにとって西ベルリンは“ゼロ地点”。すべて自分の手からつくりはじめる場所だった[2]。

*西ベルリンで結成された、ガールズ・エクスペリメンタルバンド。

 それに西ベルリンは、他国の者にとってもキテレツで独創的な“孤島”だった。安い家賃に安価なドラッグ、可愛い女の子たち最低の有り金だけで住める街には、自分の故郷では味わえない刺激を求め国外からやって来る。そのひとりにオーストラリアのマルチアーティスト、ニック・ケイヴ*がいた。彼に「ベルリンのことを知りたいなら住んでみるがいいさ。まずはぼくのアパートに泊れよ」と言うと、ある昼下がり、ふたつのスーツケースを引きずってヤツはほんとうにぼくの玄関先までやって来た。ニックだけでなく、磁石のように西ベルリンに引きつけられてきたミュージシャンたちはいて、ぼくは彼らの案内役を買ってでた。休暇で訪れたヒューマンリーグ**のエイドリアン・ライトをライブに誘ったり、シュバイネハクセ(ドイツ料理、ローストした豚脚)を楽しみにしていたマンチェスターの同胞、ニュー・オーダーのバーナード・サムナーをハイエナジー***系のゲイディスコへ連れて行ったり。バーナードは、イアン・カーティス亡き後(▶︎詳しくは後記の余談を)しばらくぼくと一緒にいた。新生ニュー・オーダーのインスピレーションにと、彼のシンセサイザー好きを見越してディスコに連れ出したのだ。ここからバンドはもっとエレクトロ路線になり、あの不朽の一曲『Blue Monday(ブルー・マンデー)』が生まれることとなる[3]。

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ニュー・オーダーのバーナード・サムナー(左)と。

 イアンが逝った後、故郷マンチェスターに戻る気がしなかったが、自分の未来はベルリンにあるかどうかは不明だった。しかし答えを代弁してくれたのが「Ich steh auf Berlin(ベルリン、愛す)」という曲を出したニューウェーブバンド、アイディアルだ。ほかにも新しいバンドは生まれ、たとえばパンクバンド、ディ・エルツテは自らをワーキングクラス色の強い“ザ・アンダートーンズやバズコックスのようなバンド”と喩えたり、忘れてはならないのが東ドイツから西に亡命し国際的にも成功した“パンクのゴッドマザー”、ニナ・ハーゲン。ドイツ語で歌うグローバルスター誕生は、マレーネ・ディートリヒ以来の偉業だった[4]。

*オーストラリア出身のロック歌手・詩人。バンド「The Birthday Party(ザ・バースデイ・パーティー)」、「Nick Cave and the Bad Seeds(ニック・ケイヴ・アンド・ザ・バッド・シーズ)」を結成。ダークでゴシック、耽美な世界観を纏う。
**80年代に席巻したイギリスのエレクトロポップ、テクノポップを代表するバンド。
***80年代初頭にロンドンのゲイディスコ・シーンで生まれたエレクトロニック・ダンスミュージック。Dead Or Alive(デッド・オア・アライブ)やBobby O(ボビー・オー)などが代表。イタリア発祥のイタロディスコにも影響。

東唯一のゲイディスコで流れた「ぼくの密輸テープ」

 話を東にしよう。驚くかもしれないが、東でもディスコは“合法”だった。東のDJたちは西のラジオから曲を録音しラジオDJの語りを削除してカセットテープに落としていた(DJたちもミュージシャンと同様、公共の場でのプレイ許可が必要だったが)。「DJセットの3割は東の音楽をかけなければならない」という決まりがあったのだが、DJたちもずる賢く、大抵その3割をバーのスタッフが開店準備をしているときに流し終えてしまう。パーティーがはじまれば70年代後期のディスコミュージックを延々と。念のために言うが、“パンク”は絶対禁止だった

 エイズ問題が蔓延して認めざるをえなくなる89年まで、東ベルリンの辞書に“ホモセクシュアリティ”は存在しなかった。しかし、ゲイバーやゲイカフェは確かに存在し、ゲイたちの出会いの場はあることにはあった。その中でも有名だったのが唯一のゲイディスコ「ザ・ブシェアリー」、縮めて「ザ・ブシェ」だ。中はUVライトがはりめぐらされ白シャツや歯を妖しく照らし、ゲイたちは目配せひとつでダンスフロアへ連れ立っていく。このダンスフロアこそ、ぼくの密輸テープが流れた場所だった! ぼくの友だちが、ゲイダンスミュージックの金字塔ペット・ショップ・ボーイズ(PSB)*のニール・テナントの旧友で、彼からPSBのリリース前のニューアルバム・プロモテープを手に入れた。これは是非とも東唯一のゲイディスコでワールドデビューをさせたいと、ぼくはテープを密輸しDJに渡すことに成功したのだった。しかしかかったところで、みんな知らない曲だからと、ダンスフロアはがらんどうになってしまった…。

*ロンドン出身のエレクトロデュオ。世界的大ヒットの代表曲は「West End Girls」「Go West」で、現在まで全世界でのアルバムセールスは5,000万枚以上。ニールはゲイを公言している。

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マークの隣にそびえるのは、東ベルリンのアレクサンダー広場(アレクサンダープラッツ)にあった街のランドマーク「ベルリンテレビ塔」

 ぼくはブシェに行くときはたいてい隠れホモセクシャルの友人と一緒に行き、エーバースヴァルデ通りのゲイカフェでも友人とよく会っていた(ここは幾分か秘密警察の目が離れていた)。アレクサンダー広場駅の地下には、こじんまりしたゲイバーもあった(そして未だに存在している)。シェーンハウザー通りの50年代初期からあったカフェ地下の薄汚いディスコ(ここの選曲はよかった)、小汚いローラーディスコになるカフェ、東ベルリン記者団のオフィスビル内にも週末になるとディスコに化けるカフェが入っていたのだ。
 しかもあろうことか国会議事堂(共和国宮殿)の地下にもディスコがあったのだ! ダンスフロアはスタートレックのような目がチカチカするサイケ模様で、軽食(缶のパイナップルと砂糖漬けのサクランボがてっぺんに乗ったハワイアントーストとか)も提供していたから、いつもクラブ内は食べ物のいい匂いで充満していた。悪名高かったのは、アレクストレフ。スーダンやアフリカの社会主義国家からの黒人やシリアからのアラブ人留学生が出入りしていて、けばけばしい東の女の子たちが、あわよくば巨根の黒人たち(失敬)にお持ち帰りされないかとたむろしていた。そこではゴミみたいなポップソングがかかっていたが、音楽目的の人なんていなかった

 次回は、西の音楽を真似するように登場する東のバンドや、東ベルリンの音楽狂たちが秘密警察の目を盗んでどうやって音楽を消費していたのか、そして懲りずにやらかしてしまった教会違法パンクライブ第二弾について。今回は恐ろしいことに秘密警察に見つかってしまったのだが、ぼくらはどう乗り切ったのか(あるいは、乗り切れなかったのか?)

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記事中人名・バンド名の英語/ドイツ語表記
ブリクサ・バーゲルト(Blixa Bargeld)
アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン(Einstürzende Neubauten)
ニック・ケイヴ(Nick Cave)
アイディアル(Ideal)
ディ・エルツテ(Die Ärzte)
ニナ・ハーゲン(Nina Hagen)

#007「教会極秘パンクライブ第二弾。そこには恐るべき“ヤツら”が待ち構えていた…」
まさかの秘密警察に見つかってしまった!? パンクバンドの身は無事だったか…。

***

マーク・リーダー/Mark Reeder

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1958年、英・マンチェスター生まれ。78年から独・ベルリン在住。ミュージシャン、プロデューサー、サウンドエンジニア、レコードレーベルの創設者として英独、世界のミュージシャンを育てあげる。
過去にはニュー・オーダーやデペッシュ・モード、電気グルーヴなど世界的バンドのリミックスも手がけてきたほか、近年では、当時の西ベルリンを記録したドキュメンタリー映画『B Movie: Lust& Sound in Berlin (1979-1989)』(2015年)でナレーションを担当。現在は、自身のニューアルバム『mauerstadt』の制作やイギリスや中国などの若手バンドのプロデュースやリミックス、執筆・講演活動なども精力的に行っている。markreedermusic(ウェブサイト)

〜ジョイ・ディヴィジョンの余談〜

イアン・カーティスが亡くなる4ヶ月前の1980年1月、ぼくはジョイ・ディヴィジョンをベルリンに連れてくることに成功していた。イギー・ポップやザ・ダムド、ウルトラボックスなどが演奏したこともある西ベルリンの伝説のベニューKant Kino (カント・キノ)でライブをすることが決まる。僕は彼らの最新アルバム『Transmission(トランスミッション)』も地元ラジオ局に送っていた(残念なことに一回しかラジオで放送しなかったのだが)。伝説ベニューでのライブなのにポスターは6歳児の落書きのようだったし、観客も150人も足らず。サウンドシステムもクソで、もっとボリュームを大きくしろ! とドイツ語で怒鳴る観客に「英語で言えよ、このクソドイツ人が!」などと頭に血がのぼったギターのバーナード・サムナーが怒鳴り返していたり、散々だった。でも東ベルリン側からブランデンブルグ門を見たいというイアンとバーナードを観光に連れて行くと、彼らは門にあいた弾丸の穴に指を突っ込んだりしていた。その4ヵ月後にイアンは首をつって23歳の若さでこの世を去ってしまった。信じられなかった。目の前で世界が真っ逆さまに落ちたようだった。彼の死後にバンド人気の波が押し寄せ、どのクラブもバーも最後のジョイ・ディヴィジョンのシングル曲『Love Will Tear Us Apart』を流していた。ジョイ・ディヴィジョンがニュー・オーダーとして生まれ変わったのち、西ベルリン・クロイツベルクの人気パンククラブSO36でのライブにこぎつけた。今度はポスターは自分がデザインすることにしたのだが、印刷屋のミスで “New Order were Joy Division”の“i”が抜けて、“New Order were Joy Divsion”になっていたのだ! この間違いポスター、いまでは高値になっているらしい。

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Writer: Mark Reeder
Reference: [1][2][3][4] Reeder, Mark.(2015). “B BOOK: LUST&SOUND IN WEST-BERLIN 1979-1989”. Edel Germany GmbH
All images via Mark Reeder
Translated by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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