ニューヨーク各所で音楽を中心に5月〜9月にかけて行われる夏のイベント、サマーステージ。毎年暑いなか人ごみに揉まれながら果敢に参加する僕は、2016年の今年もセントラルパークのイベントへ。
今年のサマーステージはカマシ・ワシントンのライブが素晴らしく、間違いなく僕の今年のベストライブになる予定だった。彼らの音も今年出会った奇跡の一つだ。しかし、 Mbongwana Star(ンボングワナ・スター)はそれを超えていた。衝撃的だった。
何が衝撃的か、と聞かれたら、まず登場から視線をわし掴むビジュアル。ステージには、車椅子で二人のボーカルが現れた。
一人は、憂を帯びた預言者の様な感じで、もう一人は何かやらかしそうなアスリートのような感じ。好対照な二人だった。
ンボングワナ・スターは、元スタッフ・ベンダ・ビリリの二人のボーカル、ココ(Yakala ‘Coco’ Ngambali)とテオ (Nsituvuidi ‘Theo’ Nzonza)の新しいバンド、コンゴのキンシャサ発のアフロストリートミュージックだ。スタッフ・ベンダ・ビリリと比べると、アフロサウンドとポストロック的な音が交錯していて面白い。
僕は、ライブの前に、この音を聞いていた。
この音自体も、相当に衝撃的な音だ。 耳触りは未来的でありながら同時に原始的。それに幻視的な音楽。PVにもあるように、宇宙飛行士が混沌とした夜のキンシャサをさまようような…。
それから、レコーディングされた音は、現在フランスを拠点に活躍するエレクトロニカのプロデューサーであるドクターLの影響が強いのだろう。ある種のアフロミュージックには、天然のアシッド感があるのだが、ンボングワナ・スターにもそれがあり、ポストロック以降のエレクトロが持つ人工的なアシッド感と、ンボングワナ・スターの天然のアシッド感を融合させたのは、彼の功績によるものなのだろう。
そんな音を期待してライブに行ったのだが、その期待は良い意味で裏切られた。PVのものともレコーディングのものとも、ライブの音は違った。陳腐さを恐れずに言えば、もっとディープなものがあったのだ。
その正体は何か。世界や社会や個人の中にある深い 悲劇や絶望的な状況から発せられる物だろうと僕は思う。戦乱が続いたコンゴ(ザイール)の状態、テオのストリート暮らしの体験、ポリオが原因で車椅子の生活を強いられていること、そういったことのすべてが音の中に確かにあった。
ふとした瞬間に見せるココの表情の中にも、なんとも言えない深い憂愁を感じた。
しかし、彼らの音楽のすごいところはここからだ。彼らの音楽には、その悲劇的な状況を物ともせずに乗り越えていく創造力や生命力がある。それを可能にさせているのは無論、彼らのアフロビートや楽曲そのものの力であることは間違いない。
最も絶望的な状況の中にあって、その表現の方向がどこに向かうかは、非常に重要なことだ。彼らの音の方向は、怨嗟的なものや自己憐憫にはまったく向かはず 、ルサンチマンからはほど遠い、歓喜の方向を向いている。粘っこくハネのあるビート、語りの様な呪文の様な、初めて聞くのにどこか懐かしいボーカル、ミニマルでスペーシーなギター、それらが渾然一体となって迫ってくる。こんな体験はごくごく稀なことだが「音そのものが喜んでいる」という様な奇跡の状態….。
アスリートの様なテオも自ら発する音の喜びに促されて、車椅子の上で踊っていた。
彼らの音は、絶望的な状況を出発点にしているのに、楽しい、いや、楽しすぎる…。涙が出るほど…。
それは、いわゆるエンターテイメント的な楽しさではなく、生そのものの楽しさや喜びに満ちている。最も絶望的な状態の中で、最もポジティブな物を表現している彼ら。これは、凄いことだな…。
かくして僕の今年のサマーステージナンバーワンはひっくり返った。
昨年、ジャイルスのDJのときもそうだったが、そこでは、あらゆる人たちが踊っていた。誰もがその表現の振幅と強さに歓喜していた。
彼らは今年、グランストンベリーにも出演していたので、もうすぐ、日本でも会えるかもしれない。彼らの音、是非、体験したほうがいですよ!
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Photos&Text by Masato Kuroda