パンデミックで世界が混乱する中、インドネシア人コミュニティーがひっそりと起こした奇跡。その証拠は、目の前にある6冊の貯金通帳だ。1ページに12回の振り込みが記載された、18ページの通帳。それが、6冊。ざっと見積もって1300回ほどの振りこみがあったということだ。
通帳の記録に無言で潜む、ムスリムたちの想い。私とフィカルさんは、この原稿を書くにあたり、それを見返すことで記憶を取り戻そうとしていた。
その噂を聞いた数週間後、私は香川県のx市にいた。グループのリーダー、フィカルさんに会い家にあがったその日から、当初の想定よりもだいぶ重く、深く、そして親密に、計画の渦中に身を置くことになった。
この連載では、フィカルさんと仲間たちがさまざまな問題にぶち当たり、それでもめげず、時に迷走しながらも、モスクのために突き進む姿を追う。資金集め、物件探し、そのどれもが外国人の彼らには大難題だ。浮き彫りになる差別や偏見。仲間との不和。
地方都市で外国人が生きることはどういうことか? 信仰とは? なぜそこまでしてモスクを建てようとしているのか?
これは、香川県にゼロからモスクをつくろうと計画するインドネシア人ムスリムたちの、いざこざとどんでん返しと、そして愛と驚きに満ちた日々を追う現在も進行中のルポルタージュだ。
フィカルさんと出会って、1年が経った。その間に、私たちはお互いの悩みを相談し合う友人になった。だからジャーナリズムというよりも、友人とその仲間たちが夢を追う様子を記録したものという表現が近いかもしれない。
まずは数回にわたり、私とフィカルさん、そしてインドネシア人のムスリムたちとの出会いから今日までの約16ヶ月の道のりを、そしてその日々に私が目にし耳にし、立ち会ってきた彼らのさまざまをレポートしてゆく。
第1話「出会いと、初めて足を踏み入れた日」はこちらから。
Photo by Shintaro Miyawaki
「思いついたよ!」土地を購入して寄付をする、謎の方法
2020年の7月に時計を戻す。あの夜のバーベキューのあと、“快進撃”の予兆などは私は少しも感じ取れていなかった。あと数年はかかるだろうと、いやもしかしたら、自然消滅するかもしれないとさえ思っていた。しかし、「良い方法、思ついたよ!」。ご機嫌な声が電話口から聞こえてきたのが、7月中旬。
電話の数日前、3,100万円の物件の購入のために9か月で2,600万円を集めるという無謀な挑戦は、消滅していた。しかし、仲間の反旗を含め困難に対峙したことでグループの結束力が高まっているいま勝負をつけなければ、モスク建立計画自体が自然消滅しかねない。香川県でも過去にモスクを建立するための計画は立ち上がり、多国籍のムスリムで構成されたグループも存在していたが、途中で挫折していた。
その“良い方法”は、すぐにはピンとこないものであった。
「あの建物の土地、1平方メートルを購入して寄付してもらうんです」
1平方メートル29,000円。これがあの雑多な建造物と、無機質なアスファルトの値段だという。一人で29,000円を寄付できない場合は、連名でも可能であり、余裕がある人は数平方メートル購入もできるというシステムだ。
「それって土地を買ってもらうってこと? それとも寄付? どっちなの?」
「イスラムの喜捨でワクフてのがあるね。サダカはお金をあげる喜捨。ワクフは必要なものを買ってから、相手にあげる喜捨です」
この場合、土地1平方メートルを購入した所有者がその権利を放棄し、KMIKへ喜捨する。古来、イスラム世界の都市は、ワクフでインフラなども整備された。それらは特定の「市民」だけが利用したのではなく、誰でもが自由に利用できた。モスクやマドラサ(学校)、病院などの施設をはじめ、公衆便所や水飲み場などをワクフで運営するシステムは、いまも機能している。「神様からするとその土地は購入した人のもので、徳を積めるんです」ということらしい。
また、購入してくれた希望者には、KMIKから購入した土地の面積が書かれた書類が送られる。確かに、モスク建立の功労者として名前が残ることを考えると、寄付への意欲が高まる。寺や神社に寄付をすると、石碑や提灯に名前が刻まれることと、少し似ている。通常の募金よりも、信仰を抱く者にとっては価値があるものとなるはずだ。全国の、あるいは世界中のムスリムたちがモスクの土地を、まるでパズルゲームのように埋めていく感じだろう。一人ひとりの信仰への思いが、あの場所に集結するのか。
とはいえ、2019年の統計では、全国に66,860人の在日インドネシア人がいるとされているが、そのうちの何人が寄付してくれるのか。コロナ禍で技能実習生の職への不安は、どんどん高まっていた頃だ。フィカルさんたちとは関わりを持たないインドネシア人たちにも会う機会があったので、モスク計画について話し、意見を聞いてみた。彼らはいわゆるいまどきの若者で、女の子たちはヒジャブをしていなく、茶髪で日本人の垢ぬけた若い女性と見分けがほとんどつかない。
「応援はしたいけど、わたしはどっちでもいいかな。あればうれしいけど」との返答だった。ほかの数人の若者にも、同じ質問をしたが興味がないようだった。自らをムスリムと自覚しているが、お祈りはたまにしかしないし、お酒も普通に飲む。ラマダンの断食も毎日するわけではない。そうなのだ。インドネシア人にはイスラム教徒は多いが、特に若い世代は信仰に篤い人ばかりではない。信仰へのゆるさを許容する多様性のあるイスラム社会なのであり、その社会的な余白こそが、フィカルさんやKMIKメンバーらのゆるさと真面目さの魅力につながっていると思うのだが、一枚岩では決してないのだ。
日本全国のインドネシア人へ。覚悟を伝える、必死の動画制作
早速、その土地の切り売り式寄付の詳細を、まとめ役の女性アルムと若手の中でも常に協力的なプトラ君が協力し、一枚の紙にまとめた。それをPDF化し、SNSで拡散していく。彼らはこの時、初めて全国に散らばるインドネシア人へ、自分たちの活動をインターネットを通じて宣言することになった。出来上がったものはデザインもしっかりしていて、理解しやすい。
7月の中旬にそのPDFを使い本格的に募金活動がはじまった。毎週、KMIKの中心メンバーはオンラインで会議を行い、そのたびに作戦を考えながら、各自でできることを探した。SNSでのシェア、友人への電話、協力してくれそうな団体の検索と電話。地道な活動を続けた。プトラ君たちは、インドネシア人の介護士のコミュニティに連絡をとって、寄付のお願いをした。インドネシアとマレーシアのクラウドファンディングの会社にも、協力を依頼。そして、まずはKMIKの中心メンバーの本気を示すために、フィカルさんが30万円を自ら先陣を切って寄付。すると、ほかのメンバーたちも、20万円や10万円ずつ寄付をした。
「中心メンバーは、給料1か月分くらいじゃないと無理やで。香川の人が先に頑張らないと、全国のほかのインドネシア人たちは協力してくれないね。香川だけで300万円はまず貯めないと」
この決意を感じ取った中心メンバー以外の県内のインドネシア人たちも、より協力的になった。寄付をしてくれる人、県外に住む友人やインドネシアの家族に声をかけてくれる人、さらにはメンバーの一人が家で育てているレモングラスを友人にわけて謝礼をもらい、それも寄付してくれた。こうして、1か月もしないうちに300万円がたまった。しかし県外からのムスリムからの入金は、この時点ではなかった。PDFを拡散するだけでは足りないのだろうか。そこで、次に登場したのが、フィカルさんの想いを伝えるインタビュー動画を作る案だった。
物件探しの頃から参加してくれるようになったカメラマンのI氏に相談すると「やりましょう!」とやる気に満ちている。私は、2分くらいの簡単なものを想定していたが、男気にあふれ何事も過剰な節のあるI氏が練り上げた構成と台本は5分を超えるもの。ドローンを飛ばし、物件を探しさまようフィカルさんを、格好よく撮影する映画のようなものだった。これでは、映画俳優のようでまるで悲壮感がない。某政治家のように自転車をこいでいるところとか、苦労してる感じを出したほうがいいんじゃないかと提案するが、フィカルさんは「この台本をもとに、こちらのメンバーと相談して練り上げます」と言い、その1週間後、インドネシア語に翻訳した台本がメールで届いた。ものすごい文章量だ。明らかに15分は超えるだろう。セリフの撮影はフィカル家で行った。「こんなに長いの覚えられないわ」と言うので、A3の画用紙に全文を描き、私がADのようにカンペを見せ、なんとか15分を超える寄付を呼び掛ける動画が完成し、それもSNSで拡散されることになった。
ネットだけに頼らない、コロナ禍での寄付行脚
2020年の8月を迎えた。パンデミックの世相に混乱する社会で、口コミや動画はいったいどれほどの効果があるのだろうか。フィカルさんも、疑心暗鬼で進んでいるようだった。私のフェイスブックのタイムラインには流れてこないし、周囲の友人たちもそういう計画が香川で進んでいることを誰も知らなかった。同じ香川在住なのであれば、一度くらい誰かのシェアがまわってきたり、話題になっていいと思うのだが。SNSの中でさえインドネシア人コミュニティと日本人コミュニティーの領域が重なることはないのだろう。
コロナの感染拡大は、フィカルさんの本業にも影響を及ぼすようになる。造船会社の本社の作業員が給与をカットされたようだ。大企業にもコロナの闇が侵食してきている。会社の中は、徐々に殺伐としはじめ、ペルー人や中国人など、彼の同僚は職場を離れるものも出てきた。しかし彼はこう言う。「でも私、心配してないね。いいことしたらゼッータイかえってくるよ。これ、絶対よ! 絶対!」
そして8月の中旬、吉報が届く。
「昨日、寄付してくれる人から連絡があったんですよ! 県外の人、会ったこともないし、名前も知らない人。52,000円です。うれしいです!」と声が弾んでいる。
私も驚いた。まさか、何の縁もない人が、振り込んでくれるとは。
フィカルさんは以前やっていた、技能実習生の寮や友人たちをめぐり、寄付をお願いする活動も再開した。今回は、契約書と領収書なるものをつくることにしたという。会ったときに口約束で寄付の約束をしてくれた人には領収書を渡し、それでも入金がない場合は、領収書をもらう口実で再度会いに行く。そこまですれば、さすがに寄付をしてくれるだろうと考えた。
「この方法、どう思いますか?」とフィカルさんが、不安げに言った。
「俺だったら、うっとうしく思うな」
「私もそう思う。嫌われるかもしれないけど、やるしかないね」
フィカルさんが技能実習生の寮に寄付のお願いに行くというので、ついていくことにした。田んぼに面した一軒家の前で、フィカルさんがプトラ君と、その子どもと一緒に立っている。家の中に入ると、玄関隣にある5坪ほどのフローリングの部屋に通された。インドネシア人の若い男が現れ、フィカルさんと私たちに握手を求め、2人、3人と増えていく。中には髪のサイドを刈り上げ、ひとつ結びをしたしゃれた若者もいた。次々と人が現れ、最終的に14人になった。部屋数は多くないが、各部屋に2段ベッドが2つ置かれているようだ。奥からは誰かがゲームをしている音がする。
彼らは菓子メーカーの工場で働いている。廊下には洗濯物が干されていて、昔タイの路上でよく売っていたカラフルなブーメランパンツもあり、懐かしさを覚えた。壁に30人ほどのインドネシア人のセルフィー写真がコラージュされた写真が飾られてあり、真ん中に「家族」「絆」とでかく書かれてある。どうやら長渕的世界観は、インドネシア人の共通感覚らしい。
フィカルさんが集金の方法を説明し、領収書とパンフレットを皆に渡す。15人もいたら反応は多様だ。フィカルさんの目を見て聞く人、あくびをしている人、無表情な人。全員が協力的ではないのだなあ。しかし途中で笑いが起こったりするので、フィカルさんが事前に心配していた「嫌われるかも」ということはなさそうだ。
話し合いが終わった頃、茶髪のサラサラヘアーのなよっとした若い青年が部屋に入ってきた。彼は一人だけ、さっきの話し合いに参加していなかった。
「あ、あの子はキリスト教徒やからね」とフィカルさん。
14人のイスラム教徒と、一人のキリスト教徒がここで暮らしているらしい。彼はおもむろに部屋の隅にあった電子ピアノの前に座り、電源を入れ、ケーブルをアンプに挿した。何がはじまるのかと思いきや、別の男がスピーカー付きのマイクを持ち、ディレイをかけて何事か言って、クスクス笑っている。一式ハードオフで購入したのだというそれらは接触が悪く、アバンギャルドなノイズが鳴り響き、彼は少し焦ったようにはにかみ、接触を調整しはじめた。
フィカルさんが言う。
「私たちのために、歌ってくれるらしいですよ。仕事のあととかにも、たまにみんなで歌ってるんやって。何歌ってくれるんかなあ。私は演歌が聞きたいね」。そういってスマホを取り出し音楽をかけた。聞き覚えのある鼻から抜けるような、哀愁ある声。おお、松山千春の『恋』だ。フィカルさんは目を瞑り、陶酔しているように聴き入っている。若いインドネシア人たちは、ぽかんとしている。私は笑いをこらえた。松山千春の歌が終わったころ、ピアノの彼がゆっくりとメロディーを弾きはじめた。内股で座るその男は、音の鳴りに満足そうな表情を見せる。どんな歌を歌ってくれるのか? インドネシアの歌? それとも、キリスト教の歌だろうか。
そして、涙の演奏会へ
住人たちは、部屋の壁に沿って弧を描き、ピアノの彼を囲んでいる。「はじめます」とニコッと笑い、イントロを弾く。発声のために大きく口を開いた。その瞬間、重層的な歌声が鳴り響き、大合唱がはじまった。日本語のエモーショナルなポップソング。森山直太朗の『桜』だった。若い彼らは、インドネシアにいる頃から日本のポップソングが傍らにあった。「おしん」くらいしか日本の情報がなかったフィカル世代とは、大きく違う。
彼らは最初は照れながら、しかし時が経つにつれ、歌詞とメロディーに没入し、歌に酔いしれていく。かつてバックパッカー時代に見た、経済発展前夜のベトナムの路上でも、若者が大声で合唱していた。彼らの目には未来への希望が映っていた。その目がいまの彼らと重なる。やがて、みんなが肩を組みウェーブへ。フィカルさんも感無量のようで、見たことがないくらいニコニコしている。
「最近また疲れてたけど、歌ってたら忘れるね。楽しいね」
気づけば私も、隣にいた若者と肩を組み、一度も歌ったことのないポップソングを口ずさんでいた。一体感に酔いしれている自分に驚く。私は子どものときからひねくれた性格で、皆で同じことをやるのが大嫌いだった。それは大人になっても変わらず、ファンのバンドのライブにいってもコールアンドレスポンスを要求されると「一時の自由を味わいに来ているのに、なぜ指示をされなきゃいけないんだ」としらけてしまう。そんな自分がこの瞬間だけは、一体感を受けいれている。彼らの共同体の深淵と接するうちに、自意識に小さな破壊と変化を起こしたのだろう。彼らのコミュニテイーの中に身を委ねることはある種の洗礼であり、浄化なのだ。
続いて、インドネシアの歌をリクエストした。すると「先日、インドネシアの独立の日だったんです。日本の敗戦の日の2日後。私たちは日本から独立したんです。その歌にしましょうか」と言う。ある国が引き裂かれるような絶望と悲しみに打ちひしがれた2日後、ある国では独立を宣言する歓喜の瞬間が訪れた歴史に思いをはせる。その歌は威勢の良いメロディーで、彼らの琴線にふれる。目に涙を浮かべる者もいた。
何を思い出しているのだろうか? 家族の顔、ぬくもり、友人の声。土地の匂い。置いてきた子どもや妻。手を振り、胸を叩く。拳を上に突き上げる。彼らもパンデミックを海外で経験するとは、心にも思っていなかっただろう。不安を唄で覆い隠しているのだ。職を失う恐怖、日々の労働や異国での葛藤。
合唱は、大団円を迎えた。拍手と歓声が沸き起こった。コロナで人間の距離感が揺らぎはじめている時期だったが、彼らにそんなことは関係がないようだ。私は刹那的な現実逃避に浸り、コロナなど存在しないタイムラインに迷い込んだ感覚になった。殺伐とする日本社会からの小旅行は、私に安堵をあたえてくれた。この時、様々な文化が共存する多様性の意義の深淵に肌が触れた気がした。
それにしても、キリスト教徒とイスラム教徒が、一緒に歌うとは感慨深い。しかし「そんなの普通のことね」と言うフィカルさんの言葉に、また自分に潜むステレオタイプをあぶり出された気がした。
ピアノの席に座っている青年に、あえて質問してみた。
「イスラム教徒と暮らしていて大変じゃないの?」
彼はその質問の意図がよくわからないようだった。
「子どもの頃から一緒に生活しているので、まったく問題ないですよ」
「彼らはいま、モスクをつくろうとしているけど、どう思う?」
「応援していますよ。友だちが幸せになってほしいと願うのは、普通でしょう。キリスト教だからって嫌なことをされたことはない。みんな優しく仲良く暮らしています」
「国によっては、キリスト教徒とイスラム教徒に軋轢がある場合もあるよね。それをどう思う?」
彼はこう言う。
「人は人です。信仰ではなく、個人の問題です」
ふと壁を見ると外国人技能実習生機構という並びに、KMIKという名もあり、フィカルさんの携帯の番号が書かれてあった。誰が電話をしてきても、受け入れ、助けるという意志の証に見えた。
Photos by Shinsuke Inoue
Text by Daizo Okauchi
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine