第9話「私たちは家族」コロナ禍の寄付、新たなリーダーたち、パキスタン人との協働|香川県モスク計画、ムスリムと祈りのルポ

香川県にゼロからモスクをつくろうと計画するインドネシア人ムスリムたちの、いざこざとどんでん返しと、そして愛と驚きに満ちた日々を追う。
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技能実習生の寮に行き、14人の若きイスラム教徒と一人のキリスト教徒、そしてフィカルさんと私の17人で大円団になって歌った夜のあと、また数日フィカルさんからの連絡が途絶えていた。1週間後くらい経った頃だろうか。ふいにきた電話の内容は、信じがたいものだった。

「あれから、1週間で100万円くらい寄付が集まりました!」

「香川県にモスクをつくろうとしているインドネシア人がいる」

その噂を聞いた数週間後、私は香川県のx市にいた。グループのリーダーと会い、家にあがったその日から、当初の想定よりもだいぶ重く、深く、そして親密に、計画の渦中に身を置くことになった。これは、香川県にゼロからモスクをつくろうと計画するインドネシア人ムスリムたちの、いざこざとどんでん返しと、そして愛と驚きに満ちた日々を追う現在も進行中のルポルタージュだ。

前回の第8話は、予兆なしの快進撃と、コロナ禍での地道な活動について。こちらから。

ついに発動。インドネシア人コミュニティーの底力

 電話口のフィカルさんは、興奮気味だった。何かの間違いじゃないのか? と何度も聞きなおしたが、どうも事実らしい。それも50人くらいから振り込みがあったという。
 私には信じられないことだった。フィカルさんや、KMIKのメンバーもさすがに驚いている。

 フィカルさんがビデオの中で語ったセリフ。「私たちは誤解されている。だからモスクを日本人との懸け橋にしたい。仲良く暮らせるように。そしてインドネシア人は裕福ではない人が多いので、助け合って生きていく必要がある。そのためにもモスクが必要です」。そこに共感してくれたのだろうか。あるいは、もしかしたらコロナ禍だからこそ、徳を積みたいとの思いがあるのかもしれない。7月にSNSや口コミを通じて情報がいきわたり、給料日を待ってから寄付をしてくれたのだろう。

 東京、群馬、徳島、北海道、愛知、全国から寄付やメッセージが届いているようだ。ワッツアップ、ライン、フェイスブックで、入金の確認や振込書を添付したメール。その一つひとつにお礼の返事をした。また、協力してくれそうな団体を紹介してくれる見ず知らずの人からの電話も多くなっていった。

 通帳には、次々と寄付が振り込まれていく。27,000円。30,000円。150,000円。7,000円。1,000円。3,000円。80,000円。ついに8月だけで約500万円の寄付が集まった。振込名はインドネシアの名前ばかりだが、時々、日本人の名前もある。
 7月の通帳には知っている名前が多く並んでいたが、8月は知らない人ばかりだ。1週間に一度、3,000円を繰り返し振り込む人もいた。きっと少ない給料の中でやりくりをして、余ったら寄付してくれているのだろう。中には偽名の人もいる。「Hamba Allah」。これは、“アッラーに忠実なもの”という意味だ。インドネシアの女性の名前で156,000円もの大金の入金があった。おそらく、周りの友人に声をかけ、集めてくれたのだろう。通帳はしっかり者のアルムが管理し、所々にインドネシア語で記載した。どんな人が寄付をしてくれたか、わかるものには注釈をいれている。ちゃんとお礼を言うために、履歴と証拠を残しているのだ。

「私も驚いたよ。はじめる前は反対していた人たちも驚いていた。だから私、心の中で、俺たちの力を見たかと思ったね。いろんな人に、無理やって言われてたから」
 
 一方で、寄付が集まれば集まるほど、プレッシャーも降り積もってゆく。彼らはいまどれほどの、神への思いを背負っているのだろう。

「たまる自信がある。でも次の日はすごく心配になる。夜、寝れんかったり、目が覚めることもある。その繰り返しね」

オンラインより対面。モスク巡り、新たなリーダーたちに出会う

 ことさらフィカルさんがこだわったのは、直接人と会うことだった。オンラインでの話し合いではなかなか本気になれないし、熱量も伝わらない。オンラインでの会議が増えたからわかる、対面することの意義。息遣いや仕草、体温から伝わる心の機微。相手への信頼感。彼は時代に抗うように人と会い続けた。もちろん、コロナ対策は万全に、相変わらず似合わないマスクをつけて。

「前、日本人特有のちょっとした気遣いをしてるから感染者が少ないって言ってたやん。その言葉から学んで、いろいろ気を使っているよ。みんなでお祈りするときはマットも、交換できるものにしたしな」

 この辺りから、私とフィカルさんは学びあう関係になった。つまり、対等な関係ということだ。ジャーナリズムの基本である中立性を維持しながらも、明らかに取材対象との適切とされる距離よりも、近づきすぎている。私はそこに葛藤を覚えていた時期もあったが、学びあい、時には文化的な摩擦を起こすことの意義を掘り下げていくことにした(そのあたりはまた別の回で書こうと思う)。
 フィカルさんは次々に策を実行していく。今度は日本にすでにあるモスクを廻り、寄付をお願いするという。東広島にあるモスクにインドネシア人のグループがあるというので、その寄合に参加させてもらい、寄付のお願いをすることにした。

 2020年9月某日。瀬戸大橋を越え、東広島へ向かった。到着したモスクは、圧倒されるほど立派なものだった。30年ほど前にシリア人のムスリムによって建てられた5階建てのビルだ。頂に輝く三日月型のゴールドの存在感がすさまじい。
 広島県には多国籍のムスリムが増え続け、やがてマレーシア、バングラデシュ、パキスタンなど人種ごとに、日にちをわけて使うようになった。スケジュールは話し合いで決めているらしく、その日はインドネシア人の日とのことだ。礼拝所は4階だと聞いていたので、階段で登ろうとすると、エレベーターがあった。3人の女性がドアの前にいたが、長ズボンにカットソーを着ていて、ヒジャブをつけた都会のOLのようないでたち。

 中に入ると、かなり広い。玄関から右手に進むとお祈りのスペースがあった。70人くらいはゆうにお祈りができそうだ。ちょうどある男が、壁に自らが制作した資料を投影し、なにやらプレゼンをしていた。手にはパワーポイントのページを移動するスイッチ。どうやらこのモスクのインドネシア人グループのリーダーらしい。まだ若いが学者らしく、30分以上も雄弁に話し続ける。このコミュニティーの中心メンバーは、大学への留学生や研究生だという。
 フィカルさんはというと、表情が硬い。張り付いたような薄ら笑いを浮かべている。 彼はエリートを前にすると緊張する節があった。プレゼンが途切れ、リーダーがフィカルさんの名前を呼ぶ。フィカルさんは彼に促されるまま、聴衆の前へ向かった。正座し、スピーチをはじめる。雄弁に語るかと思いきや、両手で大切そうにマイクを持ち、落ち着きなくくねくねしながらしゃべっている。声も少しうわずっていて、眉毛も垂れ下がり、小動物のようでもある。話は5分ほどで終わり、まばらな拍手が起こった。



この日。2枚目、話しているフィカルさん。

 のそのそとこちらに戻ってくる。「緊張した!」と私の横に戻ってきて、無理に平静をよそおう作り笑顔をした。まだ緊張が解けないらしく膝上で指を合わせ、くるくる回している。
 司会者が、ダンボールで制作したカンパ箱を回していく。 1人目、2人目、3人目はお金を入れず、4人目でやっと1,000円。10人目でやっとまた1,000円。私はいたたまれなくなって、目を伏せた。

 12時10分になり、前方にある時計のアラームが鳴った。 お祈りの時間だ。皆ゆっくりとお祈りの準備をはじめる。するとインド人やアフリカ系の人たちが20人ほど、子どもを連れて部屋に入ってきた。 お祈りにはどの国籍の人たちも参加できるらしい。お祈りが終わり、皆バラバラと下の階へ向かう。 「ご飯を食べませんか?」と、先程プレゼンをしていたリーダーが私に言う。彼は深々と頭を下げた。「来てくれてありがとう」。

 階下に足を運んだ。1階の広いスペースにゴザが敷かれてあり、白米とチキンの肉料理が乗ったプレートが人数分用意されていた。「私みたいなんがいきなり行って相手にしてくれるんかなあ? って心配やったけど。でもみんなウェルカムね。また色々情報を教えてくれるって。 インドネシアにモスク建設をサポートする団体もあるんやって」。話すフィカルさんの横には、褐色の肌で、切れ長の細い目を持つ50代の男が座っていた。ほかのインドネシア人たちと若干雰囲気が違う。
 侘しさををはらむ目。彼はいまは広島に住むが、フィカルさんと同じ溶接工で、以前同じ職場で働いていたことがある。この男が東広島モスクとの仲介役になってくれた。彼は日系のインドネシア人で、20年以上前に日本に来た移民。広島県内で1軒家を改造したモスクを持っている。その地域は技能実習生よりも、日系インドネシア人の労働者が多い。週末になれば、そこで仲の良い人たちが集まり寝泊りもしているようだ。
 日系インドネシア人コミュニティは、日本人の移民や軍人を祖先に持つ人が主体だ。配偶者や子どもと共に長期の定住が可能で、30年以上働いている人が多い。

 フィカルさん、プレゼンをしていたリーダー、そしてこの彼。私は3人のインドネシアコミュニティーのリーダーと会ったわけだが、みなそれぞれキャラクターが違い、話を聞く限りモスクに集まる人々の質も違いそうだ。モスク巡りをするとおもしろいかもしれない。モスクの代表者同士のグループチャットもあるという。リーダー同士が、コミュニケーションを深めていけば力になってくれそうだ。


コロナ禍でも増え続ける、刻まれる名前と入金

 その後も、香川県から近隣のモスク巡りは続いた。徳島にイスラム教徒の礼拝所「マスジド」があり、そこにフィカルさんが行き、同じような方法で寄付を募った。募金箱を設置してくれるだけでは、正直、そこまで貯まらない。しかし、出会ったムスリムがSNSでまた拡散し、遠方のムスリムにも届く。情報がありえないスピードで広がっていった。
 それと比例するように、寄付が集まるスピードも加速していく。9月には300万円が1週間で貯まることもあった。通帳に刻まれるインドネシア人の名前と、金額。連名で集めて送ってくれる人。職業別にわかれたコミュニティー。各地のモスク。などなど、その背後に、お金をだしてくれている人が一体何人いるのかはわからない。しかしそのほとんどが技能実習生だろう。コロナ禍でいつ仕事が減るかわからない時期に、なぜこのスピード感で寄付が集まっていくのだろうか。私には到底理解ができないのだが、理解できないものを目のあたりにする快感に私は身を浸していた。

 もしかしたら多くの人がコロナで身動きが取れない中、ひたむきに頑張る男の動画を見て、希望を託したのかもしれない。しかも、エリートの集団ではなく、リーダーが溶接工であり、メンバーも技能実習生が多い。毎週、いくら貯まったかをフェイスブックで公開し活動の写真をアップしていたからか、その躍進は葛藤を抱え生きる技能実習生たちにとって、痛快だったのかもしれない。全国のインドネシア人ムスリムが、その顛末を見守っているように感じた。

「私たちは家族。困っていたら誰かが助けてくれます」

 この言葉が、また頭をよぎった。
 そして、10月が終わる頃だろうか。1,400万円が集まった。


モスク巡りでの集合写真。

パキスタン人コミュニティーとの協働開始

 2020年、11月になった。寄付のスピードが少し減速した頃、パキスタン人の友人が協力してくれることになった。

 フィカルさんはできるだけインドネシア人の力でモスクをつくることを目指し、社団法人に他国籍のムリムの名前を入れたくはなかった。もちろんモスクが完成したら、どの国籍のムスリムも、いやムスリムじゃなくてもウェルカムにするつもりだが、運営に様々な人種が入り乱れると、文化や価値観の違いから問題が起こることがあるそうだ。フィカルさんが存命の間は、誰がこのモスクをつくったかがはっきりするので発言権はインドネシア人が強くなるだろうが、フィカルさんが亡くなった後、次世代以降にもめ事が起こらないとも限らない。

「モスクができるならば、社団法人に名前をいれなくても大丈夫だ」と協力を決めてくれたのは、30年ほど前に来日し、車の輸入会社を営む社長だ。目つきが鋭く、ただものではないオーラがある。

 社長はこう言う。

「私が香川県に来てから35年。モスクがなかった。一度高松に小さな礼拝所ができたけど、運営ができなくなった。だから、神戸まで行ったり、出張のときにそこのモスクに行ったりするしかなかった。でも、もうすぐできそうになっている。私は、彼を応援したい」

 社長と、彼が信頼する2人のパキスタン人は知り合いをつてに、お金を集めはじめた。香川、徳島、神戸、岡山、パキスタン人のコミュニティーやモスクを巡り、寄付を募ってくれたようだ。
 パキスタン人は、振込ではなく手渡しでの寄付をすることが多かった。まとまったお金が集まるたびに、インド料理屋などで会い、渡してくれる。そのたびにフィカルさんは、お金を受け取っているところを写真に撮り、私に送ってくれた。インド料理屋で、現ナマを笑顔で受け取る様子はかなり怪しかったが、受け取った証拠をお互いに残しておく必要がある。

 この時期、KMIKの中心メンバーたちはまた精力的に動きはじめた。友人たちへの電話や、協力してくれそうなコミュニティーを探し、コンタクトをとる。すると、11月には止まっていた寄付がまた、動きはじめた。

 10,000円、80,000円、2,000円、5,000円。通帳に数字が並ぶ。フィカルさんはその間も、大野原、高瀬、善通寺、インドネシア人の技能実習生の寮に何度も通い、また1か月に一度は公民館で会合を開き、寄付をお願いした。一日で14万円もの寄付が集まることもあった。

 11月の下旬頃には、2,000万円に到達。だが、明らかにフィカルさんたちは、ガス欠を起こしていた。もう疲れ果てている。そこで、フィカルさんはある計画を立てた。

「みんなで広島に行こうと思います。行きませんか?」

「みんなって誰?」

「わからないけど、70人くらいね。バスを2台借りました。まだ、席があるから」

「なんのためにいくの? モスクに関係すること?」

「みんなで楽しむためです」

 こうして私は、70人のインドネシア人と、宮島と、原爆資料館に行くことになったのだが、言うまでもなく、はちゃめちゃな旅となったのである。この話を次回、しよう。

Photos by Shinsuke Inoue
Text by Daizo Okauchi
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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