揺れる国で「言論の自由、意思表明の強力なツールだった」。詩文化の国モンゴルのヒップホップシーンが言葉にするもの

「Rap is like a weapon. We can’t sell our weapon to the fake people.(ラップは武器みたいなもん。偽の奴らに俺らの武器は売れねぇ)」
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想いを言葉に紡ぐ詩文化、伝統民謡にある語り口調、自分たちの暮らしや国についてを歌で伝える。その伝統が根づくモンゴルでは、ヒップホップのカルチャーが強く息づく。

社会主義が終わりを告げた90年代半ばから盛り上がるヒップホップシーンで、いま、彼らはどんな言葉を紡ぎ、その言葉になにを託しているのだろう。

社会主義の後で。なぜヒップホップだったのか。

 中国とロシアに隣接する国、モンゴル。有名なのは、雄大な大草原、チンギス・ハン、強豪力士…だけではない。いま、ヒップホップもだ。
 首都ウランバートルでは、ほとんどのタクシーでヒップホップが流れるほど国民に定着しているという。その人気は「政治家が絶大な影響力にあやかろうとラッパーの買収を企むほど。結局失敗に終わったらしいけど」。

 2018年には、以前ヒープスで取り上げた映画館「アップリンク渋谷」(今年5/20をもって閉館)にて、モンゴルのヒップホップシーンに迫るドキュメンタリー『モンゴリアン・ブリン』が上映された。これを機にモンゴリアン・ヒップホップの存在を知った日本のヘッズも多いだろう。

 モンゴルにヒップホップがやって来たのは、1990年中盤以降。社会主義が崩壊し、社会が大きくうねり、混乱がはじまった頃。西洋文化が流入し、モンゴリアンヘッズはMTVやミックステープで2パック、スヌープ・ドッグ、ウータン・クランなどに熱心に耳を傾けた。ロックでもレゲエでもなく、なぜヒップホップだったのか。

「攻撃的でDIY、それでいて叙情的なスタイルのヒップホップは、民主主義が実現したばかりのモンゴルで、言論の自由のための強力なツールだった。国民は、自分の意見を表明したい、と思っていたのじゃないでしょうか」

 そう話すのはアレックス・デ・モラ。モンゴルのヒップホップシーンを記録するプロジェクト「ストレイト・アウタ・ウランバートル」のロンドンの写真家だ(ストレイト・アウタ〜は、伝説のヒップホップグループN.W.Aの伝記映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』をもじって)。今回、モンゴルのヒップホップシーンについて見たもの、聞いたものを話してもらう。

 モンゴルにはヒップホップが流入する随分と前から、ラップに通ずる文化が存在する。想いを言葉に紡ぐ「詩文化」だ。ヒップホップの本場・米国では、生活にまつわる政治的・社会的メッセージをリリックに落とし込みビートに乗せていたように、モンゴル伝統音楽もまた、自分たちの暮らしや国についてを綴っては歌で伝えていた。さらにモンゴルの伝統民謡には語り口調があることから、フリースタイルでラップするヒップホップのルーツは「モンゴル発祥」と考える人までいるという。

「音」に関する伝統との共通点も。モンゴリアン・ヒップホップの第一人者とされるモンゴル初のテクノラップバンド、ブラック・ローズは、曲中に伝統歌唱法「喉歌(ホーミー)」や歌詞の一語を長く歌う「オルティンドー」を織り込むことで注目を集めた。「一人で同時に低い声と高い声を同時に出す喉歌は、フリースタイルの要素を持ち合わせていますね」

玄人ギャングスタ・ラッパーから、若手トラップ・ラッパーまで

「米国ヒップホップとの類似点と相違点が気になりました。ビート、ファッション、アティチュードは似ているけど、言語、政治、文化はまるで違う」

 本業ではウータン・クランやプシャ・Tなど、本場のラッパーたちを撮影する写真家は、2019年に自費でウランバートルを訪れ、プロジェクトをスタートした。
 滞在中、アレックスは老若男女のラッパー、Bボーイ、レコード屋の店主、地元のおじいちゃん、おばあちゃんや子どもたち、大自然、街の景観を被写体に、2週間、毎日撮影した。モンゴリアン・ヒップホップをさらに探求するため、写真撮影のみならず取材も同時進行し、ショートフィルムも作成。「モンゴル語は話せない。でも出会ったラッパークルーのなかには、必ず誰か英語を話せる人がいたからラッキーでした」

 モンゴルで最も有名なラッパーとされ「アーティストは社会を治す医者」だと、腐敗した政治に反骨精神を剝きだすビッグ・ジー。ラッパーとして長年の経験とスキルを持ち、ポジティブなリリックを高速フロウに刻むジーニー。スポンサー企業と契約を交わし、メインストリームにのし上がったクイザ(彼が企業のスポンサーを受けたことを、ビック・ジーは公で批判した)。

 暴力や犯罪を題材に韻を踏む玄人ギャングスタ・ラッパーから、高速スネアと派手な電子音に乗せライムする若手トラップ・ラッパーまで、本場同様、モンゴルにもそれぞれのスタイルのラッパーがいた。「みんなある程度の顔見知り。コミュニティ意識が強く、協力的な印象だった」

「モンゴルはパドルのないボートみたいなもんだ」

 写真家アレックスがインスタグラムで繋がり、現地で多くの時間を共にしたのがビッグ・ジーだ。愛車ハマーの助手席に座り、一緒に街を探索した。

「彼はウランバートルのゲル地区で育った。伝統的なパオ(遊牧民が住む円形型移動テント)と家が入り混じる、街の人口の約60〜70パーセントが住む広大な地区。水道がなく不便な地域です。冬なんて、マイナス40度まで下がることも」。ビッグ・ジーが国民から大きな支持を得ているのは「モンゴルが抱える社会問題やウランバートルに住む人々が直面する苦境をラップするからです。 若いラッパーは、みな彼を尊敬しているし、彼はどこへ行っても顔が利く」。


ビッグ・ジー


ゲル地区

 ビッグ・ジーは、自身の曲『ケア・アバウト(Care About)』で、政治家への怒りをラップした。

「てめぇの利益のためだけにモンゴルの未来を売りやがって。
このグローバル化した海で、モンゴルはパドルのないボートみたいなもんだ。
もっと気にかけろよ…俺たちやモンゴルのことを、もっと気にかけろよ」

 最も物議を醸す曲といわれた『フッジャー(Hujaa)』では、モンゴルと中国の関係についてをアグレッシブに歌い、ベテランラッパーのバヤラーをフィーチャーした『Minii Nutgiig Nadad Uldee』では、環境の悪化について語り、政府に土地の保護を呼びかけた。ビッグ・ジーは、ラップの常套である金、女、車の自慢話には花を咲かさず、鉱業会社による土地の破壊、国を代表する問題であるアルコール依存症、政治の腐敗をラップする。

 昨年、デビュー25周年を迎えたシーンのパイオニアの一人、ラッパーのアイストップは2000年代に自身の曲『76(当時のモンゴルの国会議員数)』で「無知で馬鹿な野郎どもが州のトップにいやがる」と一喝。政治家は利己的で貪欲だと非難した。

 モンゴリアン・ラッパーたちが、全員が全員、政治的なことをラップにしているわけではない。最近の若いラッパークルーは、曲を作る理由として「感情を表現して考えを整理するため」「たんに音楽が好きだから」「ヒップホップに自由を感じるから」と話す。「若手のラッパーは上の世代に比べて明らかに政治に関心がない。モンゴルの社会問題を認識してはいるようだけど、政治活動としてではなく、これら問題から逃避するためにラップしているように見えた。彼らは、生きるうえでたのしむためにヒップホップをやってるんだと思います」

“伝える”の伝統。モンゴリアン・ヒップホップ

  先に書いた通り、モンゴルにはラップに通ずる“伝統”がある。人生の意味やこの世のことわりを歌った数々の民謡もさることながら、口承文芸が果たした役割は大きい。その昔、文字をもたなかったモンゴル民族は、伝説や言い伝え、俗諺(世間で言われていることわざ)などを口で伝えていた。間違って伝えることを避けるため、またわかりやすく伝えるためにさまざまな工夫を施しており、韻を踏んだりすることもあったという。

 口承文芸は、文字を持ち得なかった民衆の「権力への抵抗の武器」の文学だとする見方もある。1921年の人民革命の際に、モンゴル語の識字率が1パーセントだったモンゴルでは、多くが歌を通して思想を訴えた。ちなみにビッグ・ジーの祖父も詩人で、ビッグ・ジーは祖父に憧れ9歳から自身が感じることを詩に綴ってきたそうだ。

 撮影期間中にビッグ・ジーはこうも言い、それはアレックスの記憶に強く残っている。「Rap is like a weapon. We can’t sell our weapon to the fake people.(ラップは武器みたいなもん。偽の奴らに俺らの武器は売れねぇ)」。社会的、政治的に揺れていた国で「言葉を用いた主張」をヒップホップで取り戻していく。意識的なのか、あるいは無意識的なのか。その答えはモンゴルの大草原のなかだ。

Interview with Alex De Mora

Photos by Alex De Mora
Text by Yu Takamichi and HEAPS
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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