パンデミックに見舞われた今年の夏休みは、例年以上にいろいろな意味で特別なものだっただろう。春の休校が続いたためにいつもより短い夏休み、遠出を控えたステイホームの夏休み…。世界の夏休みの様子が例年と異なるなか、ドイツのある都市の夏休みでは、4000人以上の子どもたちが1つの“都市”を作っていた。子どもたちのそばでその都市づくりを観察していたスタッフの目を通して、その夏休みの記録を振り返る。
労働、市民権、税金。子どもによる子どもの街
2年に1度、ドイツの古都ミュンヘンには仮設都市ができる。「ミニ・ミュンヘン」と呼ばれるこの都市は7月から8月の夏休み期間にあたる3週間だけ存在。7歳から15歳の参加する子どもたちが実際に都市を運営するロールプレイゲームだ。
その歴史は意外にも古く、ドイツのNPO団体「Kultur & Spielraum e.V.(文化と遊び空間)」によって、1979年にスタートした。以来、市のバックアップのもと40年にわたって開催を続け、ドイツのみならず日本をはじめとした各国にインスピレーションをあたえている(日本では、千葉県佐倉市の商店街で開催される「ミニさくら」や、横浜市でおこなわれている「ミニヨコハマシティ」など)。
1979年のミニ・ミュンヘンの様子。
子どものごっこ遊びと侮ってはいけない。ミニ・ミュンヘンの市民になるためには、まずは一定時間の労働と学習をこなし、試験を受けて、市民権を得る必要がある。その後、さまざまな職業を体験し、対価としてお金(「ミミュ」という独自の通貨)を受け取り、税金もきちんと納める(時給は5ミミュで、税金として1ミミュを納める)。
お金を貯めて銀行に預けることもできるし、起業することも可能だ。また市民権があれば、市議会や選挙など、都市の政治にも参加できる。どうやって職業を選べるのかというと、毎朝会場に到着した順に好きな職業を選択できる仕組み。そのために早く起きる子どもたちも多い。途中でその職を辞めて転職してもオーケー。必ずしも働かなければいけない、というわけではなく、消費者や観光客、学生、親、ましてや犯罪者にもなることあるのだ。そして結婚もできる(ということは離婚も可能?)。
これまでミニ・ミュンヘンの都市は、市内の大きな倉庫やイベント施設内を1つの会場に作られてきたのだが、今年は違った。コロナウイルスの感染拡大によりクラスターを避けるため、実際のミュンヘン市全体が会場となったのだ。市内全体を4つのゾーンにわけ、40箇所に運営拠点を作り、マスク着用・ソーシャルディスタンスを守りながら、本物の街で自分たちの街を作った。
「ミニ・ミュンヘンが街全体に作られたのは、初めてのことでした。家から出たらすぐそこに“ミニ・ミュンヘン”があったため、いままで参加してこなかった市内の地区の子どもたちも参加することができました」
そう振り返るのは開催団体のスタッフ、ジョシャ・シール。21日間、子どもたちによる都市が作られ、変化し、成長するのを見届けた。パンデミックという予期せぬ有事があった年、子どもの街にはどんなことが起き、子どもたちはどう反応し、行動を起こしたのか。ジョシャの目から、〈ミニ・ミュンヘン21日間の夏休み日記〉をつけてみよう。
第1週(7月27日〜8月2日)
ミニ・ミュンヘン初日をスタートする前に、まず、このパンデミックの最中にどうやって開催までこぎつけたのかを確認する。「4月に入って、いつものように一つの会場での開催は不可能とわかりました。でも、今年はミニ・ミュンヘン40周年・開催20回目の記念すべき年だったので、諦めたくはなかった。時間もあまりないなか、街の各地区に協力してもらうよう時間をかけて交渉しに行って、衛生上のルールを守る準備をして、手続きをすべて踏んで…。同僚は、自分の行きつけの美容室に、子どもたちに美容師の職業体験をする機会を設けてくれないか頼んでいました。大変でしたけど、市はとても協力的でしたよ」。ミニ・ミュンヘンに協力したのは、ユースセンターに学校施設、図書館、市庁舎、ミュージアム、ガーデニング店、公園。「それに、空き家になっていたお店も会場になりました」
参加者であり主体となる子どもたちは、このパンデミックによる“街の変化”をどう受け止めたのだろう。「今年のミニ・ミュンヘンが街全体でおこなわれる状況に、すぐに馴染んでいる様子でした。『今年の市庁舎の会場は、本物の“市庁舎”です』と聞いたときの、子どもたちの驚きようをいまでも覚えています。通年のように会場まで親に送ってもらわずとも、自分の近所でミニ・ミュンヘンが体験できることを嬉しがっていました。参加者のある少年は『どこに行ってもミニ・ミュンヘンだね!』と興奮気味で」
パンデミックが起こってから、誰もの日常に変化があった。それは「コミュニケーションの仕方」だ。遠隔での通信、通話が多くなったが、それはミニ・ミュンヘンでも同じ。
「初日前のミーティングは、ロックダウン中だったので、25人の子どもたちとズームでおこないました」。街中に散らばった拠点と拠点のコミュニケーションは? 「電話を考えていたのですが、子どもたちが『コールセンター』という案を出してきたんです」。その結果、コールセンターが設置され、4人の子どもたちがヘッドセットを装備し、電話を繋いだ。
また今年は「ロジスティック」でも変更があった。「フードデリバリーですね。『ファット・ボア』という、子どもたちが運営する人気のレストランがあったのですが、今年は衛生面の心配から、店で調理してサーブすることができなかった。でも、ランチボックスのケータリングはやりたかった。そこで『ランニング・ボア』というケータリングサービスをはじめ、2台の車で街中にランチボックスをデリバリーしました」
システムもオンライン化。「初日、参加者はこのシステムに登録しました。このシステムを通して、仕事探しや給料振込が可能になりました。ミニ・ミュンヘンのテレビやラジオをたのしむこともできたんですよ」。このシステムは、ミニ・ミュンヘン卒業生のティーンエイジャーたちによって構築されたという。
1週目には、すでにいろいろなことが起こった。「男の子二人組が、カジノをオープンしたいと相談してきました。市の法律では、プライベートのギャンブル業は禁じているのですが、市営のカジノはオーケーなんです。二人は、市庁舎に行って事業登録をして、市議会にて承認をもらいました。無事、投資をもらうことに成功したんです」。行動力が大人以上だ。
そして1週目の終わりに、今年のミニ・ミュンヘン最大の“蜂起”が起きる。蜂起とは少し大げさだが、ミニ・ミュンヘン内のある複数の地区が「分裂したい」と声をあげたのだ。
「突然、独立したいと言ってきたんです。理由はあまりわからなかったのですが」。理由の一つには、街の中心から離れた西部地区の市民たちが中心にある市庁舎へ諸手続きのために出掛けるのが億劫になった、とも。この分裂は、ブレグジット(Brexist、英国のEU離脱)を文字ってウェグジット(Wexit、西部の離脱)と子どもたちに呼ばれた。
また北部でも変革があった。北部には、オリンピア公園と、モーヴィラとザイドルヴィラという二つの市の文化センターがある。1週目の金曜日、ザイドルヴィラでは紙幣が足りなくなるという状態になった。中央銀行からの配達が遅れ、やきもきする子どもたち。こんなことから「独立運動」がはじまったという。そうして、ザイドルヴィラ共和国が宣言された。会合が開かれ、共和国宣言の宣伝にポスターやカード製作を印刷所に手配し、テレビ、新聞などのメディアに告知した。
一方で、他の地区の子どもたちは、これら一連のドタバタに困惑し、分裂に賛成しない声も多くあったという。オリンピックパークという公園では、ミニ・ミュンヘンの統合を求めるデモも開催された。「その翌週の月曜朝には、この決議(ザイドルヴィラ共和国としての独立)は覆されてしまいました」
第2週(8月3日〜8月9日)
1週目から波乱のミニ・ミュンヘンは2週目に突入。この週の大きな出来事としては、市民から選挙プロセスについての不満があがった。「議員は地区のみで選ばれるべきか、それとも市全体で選ばれるべきかという議論があり、選挙のプロセスにも不正がありました。そのため、高等裁判所が選挙を無効だと判決した。政治家たちには、どうしたらより良い選挙をおこなうことができるかという課題が浮上しました」。偶然だが、今年の米国大統領選挙の混乱のようなことが起こっていた。
と、同時に「1週目に比べて、子どもたちもミニ・ミュンヘンの生活に慣れてきたように見えました。街が市民にきちんと寄り添う存在になってきたといいますか」。
2週目の最後には、オリンピア公園の湖に浮かぶ小さな木製の「島」ができた。「最初のアイデアは、湖を行き来するボートを設置することでしたが、結局、島になりました」。島内には、ミニ・ミュンヘンのガーデンセンターから提供されたたくさんの植物が茂っていたという(その一方で、島を隔てた湖の向こう側のエリアでは、主権をめぐる問題が勃発。新しい通貨の発行や、税制上の優遇措置をおこなうなど、さまざまな試みがおこなわれた)。
「オリンピア公園では、政治の才能がある少女がいました。わずか11歳で北部の町長に選出されたのです。彼女の選挙公約の一つにあったのが、『公園に図書館を作ること』。市長に当選してから彼女はミュンヘンにある書店に電話をし、何冊か本を提供してくれないかお願いをしたんです。書店は彼女を招き、好きな本を2袋分贈呈しました。彼女はこれらを公園にまで運び、木の下にブランケットを敷いて、図書館を作ったんです」
第3週(8月10日〜8月16日)
早いものでもう3週目。ミニ・ミュンヘン最後の週だ。この頃になると、分裂していた一部の地区の再統合が見受けられたという。「1週目には参加していなかった新しい参加者たちが、分裂にあまり利点を感じなかったらしく、一つの統合した街にしたかったみたいです」
また、市街地の公共交通機関を管轄する都市計画課が、ザイドルヴィラとオリンピア公園のあいだを繋ぐ交通手段のニーズに目をつけた。地下鉄を作ろうと本気で考えていたが、1週間で完成するのは無理だということがわかったので、代わりにバス運行サービスを構築することに。
「都市計画課は、オリンピア公園の『おもしろ・すごい乗り物建設部』にコンタクトをとりました。同建設部は二台の自転車から作ったUFOのような乗り物『Flufo』を用意。これをバス代わりにして、残り最後の2日でサービスをはじめました。たくさんの停留所を作りましてね」。ミニ・ミュンヘン、期間目一杯まで、街に新しいサービスを作って試すとは子どもならではの大胆さ。
そして、最終日。市庁舎の外で閉会式がおこなわれた。「ミニ・ミュンヘンのさまざまな地区から250人の子どもたちが集まりました。みんなプラカードや旗を掲げたり、自分たちの職業にまつわるものを身につけたりして、広場が満杯でした」
異例のコロナ禍で生まれて消えたミニ・ミュンヘン。コロナという状況のなかで子どもたちの街づくりや、彼らの“市民”としての行動はどうだったのか。
「おもしろいことに、パンデミックはミニ・ミュンヘンに多大な影響をあたえたかというと、そうではなかったように思えます。もちろん、パンデミックという状況に伴って規則を変えなければいけない部分はありましたが。全体的に見て、子どもたちはとても責任感をもって行動していたと思います。決してパンデミックに自分たちの想像力を奪われないようにしながら」
Interview with Joscha Thiele
All Photos by Kultur & Spielraum e.V.
Text by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine