2011年3月11日に起きた、大地震と原発事故は言うまでもなく日本に大きな変動をもたらした。特に東日本に住む大半の人々の人生に、大小の差はあれど、変化をあたえた。
その中には、放射能汚染を恐れ、異国で暮らすことを決めた人たちもいる。彼らはどんな暮らしを送り、何を思っているのか?(前編はこちらから)
「親には縁を切られました」
まだ幼い息子とご主人の3人でニュージーランドに移住して来たAさんに出会ったのはそれから数ヶ月後。クイーンズタウンという町だった。日本に住んでいたころ、ご主人は会社員でAさんは専業主婦、安定したいわゆる普通の幸せな家庭だったと当時をふりかえる。
取材時、ご主人は語学学校、息子さんは幼稚園で勉強中で家にはいなかった。移住するまで外国への旅行も数えるほどしかしたことがなかった彼女の顔には、異国での生活の疲れがしみついていた。
20年以上住んでいた神奈川県を離れたのは、子どもへの被爆の不安が原因だ。「みるみる体調が悪くなっていった」という、息子の未来を考えて原発のないニュージーランドへの移住を決意した。なぜ海外かというと「がれきの拡散による列島汚染が怖かった。わたしたちだけだったらいいけど、子どもは守りたかった」。
現在は学生ビザで暮らせているが、生活費も稼がなければならない。そのためには就労し、ワークビザを取得しなければならないのだが、その壁は高い。可能性として考えられるのは英語のテストで要求されるスコアを取得して、ポリテクニック(専門学校)にすすむことだろう。卒業すると、パーミッションビザを取得できる。1年間仕事を探す為に猶予があたえられたり、斡旋してくれる。この順序でニュージーランドでの就職の活路を開く人が多いが、アイエルツという英語のテストは実践的で難しいテストだ。英語が得意ではなかった人には、難関だと言えるだろう。「いまは主人だけが語学学校に通っていますが、年齢が40に近いということもありなかなか英語が上手くなりません。毎日、疲れきって学校から帰ってきます」。
おまけに、良心なき移住斡旋のエージェント会社に捕まってしまい、金銭面で被害を受けた。あの事故以来、子を心配する親の気持ちを上手く利用し、移住後のケア料にありえない値段を請求する業者も増えたようで、他にも数組の移住者から同じような話を聞いた。決まり文句は「ここであきらめたら子どもたちは被爆しますよ」だという。
Aさん一家は貯金を切り崩し生活していた。金銭面の問題で帰国を考えたが、子どもを守りたいという覚悟がある。エージェントに頼ることをやめ、自分たちの力でビザのこと、生活に必要な情報を得ることにしたが、不安は大きい。
Aさんは、すこしやつれた表情を見せながら「わたしたちは、これからどうなるのかな」と呟いた。「両親と意見の違いでケンカして、勘当されてるんですよ。多分わたしたちがニュージーランドにいることも知らないと思います。実家は栃木の田舎なのですが、娘が放射能を恐れて移住したとなったら近所の人に気違いのレッテルを貼られるようです」
Image by Travelling Pooh
夫婦別居と離婚という分断
驚いたことに、意見の相違で両親と音信不通になってしまった人は、他にも数人いた。一方、ふるさとから離れる自責の念に苦しんでいるとこぼす人もいた。
離婚も多い。母親は子どもを守る為に移住したい、しかし父親はそこまで危険だと考えない。夫婦別居を余儀なくされるケースも、またある。その後、その町で会った女性のBさんは子ども二人をつれて、ガーディアンビザでの移住だった。13歳未満、場合によっては17歳以下の外国人がニュージーランドの学校に通う際、親の居住が許されていて、ガーディアンビザを取得できる。しかし、この場合は片親しか滞在できない。母と子だけが異国で住み、つまり夫婦は別居を余儀なくされ、日本に残り働く父からの送金をたよりに生活する。家族での海外移住の場合、このケースが多い。
切り詰めながらギリギリでやっています、というBさん。それでも海外で暮らすのは、子どもたちの健康のため。彼らが自立する18歳を迎えるまであと5年は、ここに住む決意があるのだという。「その間、主人にも送金を頑張ってもらわないといけません。こっちにきてしばらくは、本当につらくて、子どもたちもなじむのに苦労していました。でも、いまは楽しそうにしてくれているのが救いです」。それまであった生活、仕事、愛情、友情の中にあった関係性は簡単に変化することがある。放射能は、不安と健康被害だけではなく、断裂という変化も生んだ。
自業自得で片付けられない現実
海外移住の現実は厳しく、上手くいっていない人の方が多いというのが率直な印象だ。それは、彼らの選択が生んだもので自業自得、といってしまえばそうかもしれないし、賛否があるだろう。だけど、彼らが達した正義と信念を背負い、多様な感情とよりそったり戦ったりしながら、必死で生きている彼らの決断を、正解や不正解と決めることができるのだろうか。
ただ一ついえるのは、あの事故はまだ終わっていないということで、想像を絶する苦しみや葛藤を抱いている人は、彼らのような境遇以外にもたくさんいるということだ。
2年海外に住んで戻って来た日本という国は、相も変わらず大忙しで、放射能の話題はメディアにあまりとりあげられなくなっていた。その移り気の速さだけは、何も変化がなかったようだ。しかし、あの事故が残したものは、盲目にならない限り、時には形を変えながらぼくらの国に否が応でもついてまわるだろう。きっとぼくらの子どもや孫の時代にも。
———-
Text by Daizo Okauchi