アジアのスケーターたちの横繋がり、それぞれのシーンと“変わらない楽しさ”。中国発スケートボード雑誌『Wandering』

各国各地の横繋がりで、アジアの未開拓スポットを巡ったり。
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今月閉会したオリンピック、新競技となったスケートボードでは日本人スケーターがメダルを合計5つを獲得。ツイッターのトレンド1位に「スケボー」がランクインした。
スケートボード熱が高まるいま、取りあげたい一冊が『Wandering Magazine(ワンダリング・マガジン)』。中国で唯一、紙で出版し続けるスケートボードの紙雑誌だ。2018年に上海で創刊し、アジアのストリートスケートボードシーンを発信している。

入手できるのは、アジア13ヶ国のスケートショップでのみ(日本では14箇所のスケートショップでゲットできる)。英語、中国語、日本語、韓国語のマルチリンガル表記で、アジア在住のさまざまなスケーターやスケートシーンに興味を持つ人が手に取ることを想定した作りだ。

アジアの未開拓スポットを巡るコンテンツは泥臭く、クルーの道中から記録していく(1人は発熱でリタイア、もう1人は助骨を2本骨折したことも)。いまから10年以上前の東南アジアのスケートビジネスについてなど、とにかく取材が活きたコンテンツが多い。取り上げる人物たちとの距離感の近さ。どの記事からも横の繋がり感を強く感じるし、それゆえ内容が濃い。

創刊者で編集長、上海拠点のエリック・ライ(40)に、海と時差と絶不調(涙)のwifi環境を越えズームでコンタクト(4回途切れた)。画面越しに、広大なアジアのスケートシーンに存在するスケーターたちの横の繋がり、そこから見えてくるリアルなスケートシーンを聞く。

ちなみにエリックはスケート歴21年、物心ついた頃からスケートに関わる仕事だけをし、いまでは息子もスケボーに夢中だという生粋のスケーターだ。


編集長のエリック、ロシアの海にて。「4月だったのにまだ凍ってた」。

HEAPS(以下、H):昨日、堀米雄斗が金メダルを獲得しました。初代チャンピオン。シビれました。

Eric Lai(以下、E):おめでとう!中国のソーシャルメディアでも、たくさんのスケートショップがお祝いの言葉をポストしてたよ。

H:得意の「ノーリー」、ばっちりメイクしてましたもんね。えー、オリンピックの話題はこれくらいにして。今日はよろしくです。いま、上海で雑誌作りをしているけど、生まれも育ちも中国?

E:うん。1歳から25歳まで深セン市に住んでて、2008年に上海に越して来た。18歳までランナーやバスケットボールに没頭してたんだよ。

H:スケートボードに興味を持ったのはいつ? 18歳っていうとまだ90年代後半か。その頃、スケートボードは身近ではなかった?

E:テレビで見たことはあったけど、地元にスケートショップもなかったし無縁な感じだった。ある時、バスケのサマーキャンプに参加する道中で間違ったバス停で下車した日があって。橋の下にスケートパークが見えたから、練習をすっぽかして2、3時間ずっと眺めてたんだ。

H:それが出会いかあ。

E:眺めてたら1人のスケーターに「スケートボードに興味ある?」って聞かれて。ビビったのを覚えてるよ。

H:ビビった?

E:90年代当時のスケーターといえば、だぶだぶのズボンにオーバーサイズのTシャツ、でかいピアスにタトゥー姿で、当時の中国ではかなり珍しい格好だったから。でも話してみるとすごくいい人で、外見とのギャップに驚いた。それがスケートボードをはじめたきっかけ。19歳と、遅めのスタートだった。

H:その頃の深セン市のスケートシーンって、どんな感じだったんでしょう。

E:まずね、地元でスケートをしていたのは、僕を含め3人だけ。ほかのうまいスケーターに会うため、毎日1時間バスに揺られダウンタウンに行っては、彼らと滑っていろいろ学んだよ。深セン市には、全国大会で優勝したフー・リン・チャオというスケーターがいてさ。

H:当時、影響を受けた人やビデオ、映画ってある?

E:あり過ぎなくらい、ある。最初に見たビデオは『ザ・エンド(1998)』と『ズー・ヨーク・ミックステープ(1998)』。その衝撃ったら! ニューヨーク発の『ズー・ヨーク・ミックステープ』は、ヒップホップを知るきっかけにもなった。こうしたアングラとされるストリートカルチャーは、すべてコネクトしていたからね。当時はBMXライダーやローラーブレイダー、バンドマンともたむろしてた。誰もがお互いを知っているくらい、小さなシーンだったから。

H:こうしてスケートにハマっていき。2018年には『Wandering Magazine』を創刊。現在は第7号まで発刊してます。なんで雑誌を作ろうと?

E:最近のデジタルの世界ってペースがとんでもなく速いでしょう。次々と動画が流れてきては見る、を繰り返す。でもね、たった2秒間のトリックにも、メイクするまでに実はたくさんストーリーがあるんだ。警備員にこっぴどく怒られた、とか。1つのトリックだけで数ページは書けてしまう。だからもう少しスローダウンして、じっくり見て欲しいと思った。それにスケートボードの写真って、空中でスケーターをフリーズさせたような、素晴らしいアートだとも思う。ちなみに『Wandering Magazine』という名前はね、ぶらぶらと滑っているときに思いついたんだ。

H:Wanderingって、ぶらぶらとあてもなく歩き回るという意味ですよね。

E:スケーターって、ストリートをあてもなく滑りながら「ここ、イケるかな」ってスポットを探すからね。

H:へぇ、いい由来。創刊当時の18年、中国でもスケートは一般的に浸透してきていた?

E:ちょうど創刊した2018年からスケートシーンは急速に成長しはじめたんだよ。若い子はスケートをヒップなものとして捉えていたし、中国のセレブもスケートに夢中。オリンピックでスケートボード競技が正式種目に選ばれたことも大きいね、政府はスケートパーク建設に多額の資金を注ぎ込みはじめていた。子どもにスケートを学ばせるためスケートショップに行く人も増えた。そしてスケートショップは子ども向けトレーニングプログラムを独自開発。オンラインにシフトしていたスケートショップは活気を取り戻したよ。

スケートボードはバスケットボールやサッカーに次いで、若者に人気の3大スポーツになると思ってる。いつでもどこでも、スケートデッキと平らな地面さえあればできるから。デッキも比較的手頃だし、コーチも必要ないし。

H:自分1人でできるのも良いですよね。雑誌のコンテンツは、上海だけでなくアジア中のスケートシーンを網羅してます。それもあって紙面は英語、中国語、日本語、韓国語のマルチリンガル表記。日本語訳が随分と自然だけど、編集部に日本人がいるんです?

E:大阪にダイスケという編集者がいる。昔、深セン市の僕の近所に住んでてさ。彼の中国語は完璧で、なんなら僕よりうまい(笑)。編集部は基本的に僕1人だけど、コンテンツ制作を手伝ってくれる編集者が2人、レイアウト担当のデザイナーが1人いる。そしてコンテンツごとに複数のフォトグラファーとも仕事をしているよ。

H:雑誌は中国、香港、台湾、インドネシア、マレーシア、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム、日本、韓国のさまざまなショップで取り扱い中。文字通りアジア中で展開しているわけだけど、創刊から3年でどうやってここまで拡大したんでしょう。

E:まず、雑誌は無料だから各国の販売代理店に送って、それから各ショップへ配送するという手筈を取ってる。個人でアジア中の複数のショップに送るのは難しいから、こうしてショップとのコネクションを作ってるんだ。スケートショップが2つしかないベトナムには、直接ショップに送ってる。米国の一部のショップでも取り扱ってるけど、基本的にアジア13ヵ国のスケートショップでしか入手できない。

H:スケートショップでしかゲットできないスケート雑誌。いいですね。

E:最近では、ほとんどのスケートショップにはもう雑誌がないんだよ。いまも紙で発刊し続けているスケートボード雑誌といえば、米国の『スラッシャー・マガジン』くらいじゃないかな。『トランスワールド・スケートボーディング』も『スラップ』も廃刊になった。スケートショップに行ってスケート雑誌がないって、めちゃくちゃ悲しい。最近はスマホで写真や動画を見るのが主流だけど、僕はやっぱり手に取れる雑誌として提供したい。だって本棚に雑誌があれば、10年後もふと手に取って見返せるじゃない?

H:そんな本棚に並べたくなるスケート雑誌、早速めくっていきましょう。

◼️「Chasing the Malacca(チェーシング・ザ・マラッカ)」:
ヴァンズスケータークルーが、マレーシアの都市マラッカの未開拓スポットを巡る道中と、現地シーンを記録した特集。

◼️「Simon Pellaux interview(サイモン・ペロックスへの取材)」:
2003年からバンコクでスケートビジネスをするタイ在住のスケーターSimon Pellaux(サイモン・ペロックス)への取材記事。タイの今昔スケートシーンや東南アジアでのスケボードビジネスのことなど。サイモンと旧友のエリック本人が取材した。

◼️「10 years of Visual Travering(10年間のビジュアルトラベル)」:
2007年〜2017年の10年間、さまざまなスケートチームと世界各地のスポットを巡ったスケーターPatric Wallener(パトリック・ウォールナー)への取材記事。

◼️「CONS KUN TOUR(コンズ・クン・ツアー)」:
2010年から中国南部の都市、昆明を定期的に訪れるスケートクルーCONS(コンズ)への密着取材記事。

「チェーシング・ザ・マラッカ」の道中は豪雨、1人は発熱でリタイアし、もう1人は助骨を2本折ったらしいですね…。

E:これは執筆を担当したトミーの持ち込み企画だったんだよなあ。 彼はヴァンズのアジア太平洋地域スケートチームのマネージャー。スケーターが自分を売り込む方法って、ビデオを撮ることと雑誌に掲載されること。 新しい土地で未開拓スポットを見つけ、できる限り難しいトリックをキメて、人々に感動をあたえる。それがスケートボーディング。

H:それで未開拓のマラッカを選んだんだ。現地に知り合いスケーターはいた?

E:いたよ。こうした取材撮影の裏側では、関係者が繋がっていることが多いから。

H:知らない土地での未開拓スポット探し、繋がっていないと難しそう。どうやって現地スケートと仲良くなるんだろう。

E:どこかの国で未開拓スポットを探るには、まずは現地のスケートショップに行ってローカルのスケーターと繋がるのが一番。たとえば香港に行くならスケートショップHKITに、韓国に行くならスケートショップTimberに行くといい。そして「◯◯の友だちなんだ」と言えばすぐに繋がる。これがローカルのスケーターと知り合って仲良くする方法。こうして築いてきたコネクションがあるから、各国でスムーズに取材ができるんだ。

H:地道に横つながりを広げている。心掛けていることってある?

E:まずはスケーターとして自分をプレゼンすることが必須。ビデオを撮って、SNSにポストして、誰もが見れるようにしておくこと。これ、スケーターにとって履歴書みたいなものだから。現地スケーターがひとり、周りのスケーターに「彼のビデオいけてるからチェックしてみ」と、君のことを話す。そしてイベントやコンテスト、パーティーに行って、人と出会う。これが僕らが仲良くなる方法。

H:言語が違う場合も多いと思うけれど、どうしていますか?

E: それはもう、地道に勉強すること。僕は昔、スケートに行く前に1人で英語を勉強してた。コーヒーショップで1、2時間英語を書いたり、アメリカのテレビ番組をたくさん見たりね。

H:いままでで一番ヤバかった未開拓スポット、知りたい。

E:親友と一緒に行った、北朝鮮の首都ピョンヤンにある巨大スケートパーク。観光ツアーに参加したんだけど、グループから全然抜けられなくて。4日間しかなかったから、ツアーガイドに交渉して強引にパークに連れていってもらった。そこには1人のスケーターがいたんだけど、彼のスケートデッキの状態が悪くて。作りも雑。見てほしいと頼まれて見てみたら、誤って壊しちゃった…。だから自分のデッキを渡した帰ってきたよ。

H:いろんな意味で焦るスポットでしたね。『Wandering Magazine』は、各国のスケーターたちとの横の繋がりがあっての記事をつくっています。内容も繋がっているからこその聞き出しがある。アジア各国にはどれくらい知り合いがいる?

E:各国に、20〜100人くらいの友だちがいるかな。

H:その、一番最初の繋がりって、どんな感じではじまったんでしょう。

E:まだ僕が深セン市にいたとき、深セン市が『トランスワールド・スケートボーディング』で、スケートボードに適した世界の都市トップ10にランクインしたんだ。当時たまたま深セン市にいて、たまたまスケートしていて、たまたま英語を話せた僕は、ビデオを撮るためにやって来るスケーターたちのツアーガイドをするようになった。これを機に、世界中のスケーターやブランド、フォトグラファーやビデオグラファーとリンクして、そこで自然とコネクションができたんだ。

H:雑誌の毎号の企画も、アジア各地に存在するスケーターたちと常と情報交換している感じ?

E:各地のスケーターとよく「最近どんなことしてんの?」って話して情報を交換してるよ。さっき話したマラッカの記事のようにライターやフォトグラファーが提案してくれることもある。

H:タイでいち早くスケートビジネスをはじめていたサイモン・ペロックスの記事は、エリック自らが取材。記事からは仲の良さが伺えるけど、長年の知り合い?

E:もうすぐ20年近くの仲で、ほぼ毎週会話してる。当時サイモンは中国でスケートボードを作るのに工場探しをしていて、僕も手伝ってたんだ。その後も、深セン市にスケートチームを引き連れて遊びに来てくれてさ。

H:へえー。逆にさ、面識のないスケーターに取材することもある?

E:ちょうどいま、ある日本人スケーターの取材記事に取り組んでいるんだけど、比較的若いスケーターだから、僕、実は彼のことあまりよく知らなくて。だから日本のスケートボードメディア『ヴィー・エイチ・エス・マグ』の編集部に協力してもらおうかと考え中。彼らならきっとよく知っているはずだし、その方がディープな話が聞き出せるから。『Wandering Magazine』は、僕がひたすら話すのではなく、より多くの人の声を取り入れたい。この雑誌はみんなのプラットフォームだからね。

H:そういえば「昔のタイスケーターは、ボロ板に破れた靴でデコボコ地面を滑っていた」という記事もあったけど、中国でも中国ならではの昔のスケーター事情とかあった?

E:90年代後半から2005年にかけての頃、中国はまだ欧米からの公式スケート会社が入ってきていなかったんだよ。だからスケートシューズを買いたいときは、グレーマーケットに行くしかなかった。これが合法的にスケートシューズを買う唯一の方法だった。店頭で正規販売される前にサンプルが売ってるんだよ、どんなブランドも揃ってたなあ。その後、公式スケート会社中国に入ってきたときには「このシューズ、まだ販売前のはずなのに」なんてことが頻繁に起こってたよ。
当時はスケートデッキとシューズを買うのに十分なお金を稼ぐのは大変だったけど、いまは当時より一般的に収入もよくなったし、スケーターにも中産階級の人が多くなったよ。

※販売方法は合法的だが、メーカーが意図していない商品の取引のこと。正規価格より安値で取引される。

H:その後10年で中国のスケートシーンは急成長してきたんですね。『Wandering Magazine』の前に、『WHATSUP』という中国初のスケートボード雑誌が出ていますよね。紙雑誌は数年前に廃刊して、現在はデジタルのみ。いま中国で、ほかに紙で出版しているスケートボード雑誌はある?

E:『Wandering Magazine』が中国で唯一、紙で発刊し続けるスケートボード雑誌だよ。そして多言語。これが僕らのユニークポイントだね。
僕ら以外に紙で発刊し続けるスケートボード雑誌がないって、さみしい。「雑誌の時代は終わった」なんてよく聞くけど、それは作る側が諦めたから。僕は、まだ雑誌を存続させる方法はあるってことを証明し続けたい。

H:中国ではスケーターもパークもショップも増加中。シーンがどんどん拡大するいま、どういったスケートシーンを発信していきたい?

E:オリンピックの影響もあって、特に中国ではスケートボードは「競技スポーツ」になりつつあるように思う。大会に出場して有名になってとか、優勝して賞金をゲットしてとか、すごいプレッシャーじゃん? これ、僕たちのスケートボードとはちょっと違う。僕たちはストリートスケートボーダー。ストリートのユニークなスポットで自分を表現する。それが僕たち独自の文化。スケートボードは、僕たちにとっては競技ではなくクリエイトするもの。この変わらない楽しさを、アジア各国のいろんなクルーのそれぞれのスケートシーンを通して、雑誌で伝えていきたい。

Interview with Eric Lai of Wandering Magazine

All images via Wandering Magazine
Text by Yu Takamichi
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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