火の鳥、鉄腕アトム、攻殻機動隊の翻訳家。戦闘シーンにオノマトペ、ニュアンスを〈MANGAに仕上げる〉仕事

『火の鳥』、『鉄腕アトム』全シリーズ、『攻殻機動隊』を次々に翻訳。「漫画」を「Manga」に置き換えた第一人者といえば、この男。
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日本独自の文化「ジャパニーズ・カルチャー」として、寿司やアニメに負けず劣らず幅を効かせる「漫画」。その浸透具合は、「MANGA(マンガ)」といえば通ずるあたりが何よりもの証拠だが、そんな海外における今日の“MANGA普及”もこの男なくしてはあり得なかった。直談判で『火の鳥』翻訳に漕ぎ着け、さらに『鉄腕アトム』全シリーズ、その後も『攻殻機動隊』など誰もが知る漫画を次々に翻訳。「漫画」を「Manga」に置き換えた第一人者だ。

80年代、マンガの「マ」もない米国に「漫画」を持ち込む

 早速登場してもらおう。この男こそ、翻訳家フレデリック・L・ショット(68)。60年代に両親に引っ張られての初来日後、アメコミしか知らなかった少年が、ひょんなことから漫画に出会い、その後「漫画の神様」手塚治虫の作品により漫画独自の魅力に骨抜きに。好きが過ぎるあまり、手塚プロダクションに直談判の末『火の鳥』の英語翻訳に漕ぎ着けた。

「MANGA」の“Ma”の字も存在しない80年代前半の米国に「ジャパニーズ・カルチャー」として漫画文化を紹介する著書『Manga! Manga!(マンガ!・マンガ!)』を発表し、その後は『鉄腕アトム』全シリーズと手塚作品をはじめ、『攻殻機動隊』なども翻訳してきた。

 彼が居を構えるサンフランシスコとニューヨークを繋ぐ画面越しに聞こえてきた、滑らかな「初めまして」ではじまった2時間の取材。「漫画の神様」との思い出から、表現力豊かな言語といわれる日本語の翻訳、漫画特有のオノマトペの翻訳にいたるまで、漫画翻訳の第一人者が流暢な日本語でその翻訳術を語ってくれた。

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手前が手塚治虫先生、奥がフレデリック・L・ショット氏

***

HEAPS(以下、H):両親のお仕事の都合で15歳のとき、日本に。初めての日本、当時の印象はどうでしたか?

大昔の話です、1965年。最初は横浜にたどり着きました。その当時の横浜は高層ビルなどがなくてね。モルタル造りのものが多くて、それに曇っていたのもあって「日本は灰色の国だな」と思ったのをいまでも覚えています。

H:異国を感じた初来日ですね。

そうですね。言ってしまえば、当時日本のことをまったく知らなかったんです。
 
H:ということは、当時日本語はまったく話せなかった?

そうです、東京でもアメリカンスクールに通いました。でも、日本語が勉強したいなと思って両親に相談したところ、「あなたはいまフランス語を勉強しているのだからダメ」って言われてしまって。移り住んだ頃は日本語ではなくフランス語を勉強していたんですよ。

H:ご両親もフレデリックさんがまさかこうなるとは思ってもみなかったでしょうね。本格的に日本語の勉強をはじめたのは?

高校3年生のときです。寮に入っていたのですが、ルームメイトが名古屋弁の日本語を流暢にまくしたてる外国人で。彼とバイクで日本各地をまわっていたのですが、日本語が達者だからお寺に泊めてもらえたりしたわけです。その姿に、ああ、自分も日本語ができたらすごく楽しいんだろうなと。その後、米国に一度帰国するのですが、二十歳くらいのときにまた日本に戻りました。そこからICU(国際基督教大学)で本格的に日本語を勉強しはじめるわけですが、ただ、勉強だけしていてもおもしろくないですから—

H:漫画を読みはじめたんですね?

そうです。『ジャンプ』『少年マガジン』に『チャンピオン』。みーんなが分厚い漫画を持っているのがとても興味深かった。アメコミだと、薄っぺらい冊子がほとんどでしたから。

H:週刊漫画雑誌の分厚さに当時のフレデリックさんはヤられたわけですね。フレデリックさんの初漫画は?

赤塚不二雄さんの『天才バカボン』。当時まだそれほど日本語ができるわけでもなかったんですけど、バカボンは絵だけでも十分に楽しめましたし、漢字に振り仮名がついていて読みやすかったです。それから川崎のぼるさんの『荒野の少年イサム』、松本零士さんの『元祖大四畳半大物語』なんかも好きでした。

H:ご自身の四畳半の寮生活に重なったんですね。そうこうしているうちに、フレデリックさんの人生を大きく変える手塚作品に出会う。

ちょうど、ICUの友人が手塚先生の『火の鳥』を貸してくれて。読んだとき、結構ショックだったんですよ。

H:といいますと?

漫画でここまで表現できるんだ、って思ったわけです。ハタチそこらで「自分は何者なんだ」なんて考えたりする多感な時期に、哲学的な部分も盛り込んだ手塚作品との出会いは強すぎました。

H:手塚作品に出会ってフレデリックさんの「漫画」の概念が変えられたということでしょうか?

まさに。それどころか人生も変わってしまいましたね(笑)。手塚作品との出会いで、漫画にどっぷり浸かりました。

H:漫画を翻訳しようと思ったきっかけは?

漫画が大好きだったのはもちろんのこと、アメコミを含めコミックスが表現媒体として、それほどの可能性を持っているのだということを、日本の漫画に出会うまで知らなかったわけです。だから日本には素晴らしい大衆文化があるんだっていうのを、どうしても海の向こう側に報せたくなってしまった。それから、その当時「日本の人が持つユーモアだったりユニークさ」があまり知られていないと感じて。海外の人が日本に対して持っていたイメージと僕が知る日本に対するギャップに違和感を覚えたんです。

H:なるほど。そして勢いのまま「駄々会*」を発足。77年には手塚プロダクションに「駄々会」での『火の鳥』の翻訳を直談判しにいってしまう。

*77年に、アメリカ人ジェラード・クックと、坂本伸治とウエダ・ミドリの日本人二人、そしてフレデリックの4人にて、日本のマンガを英訳して西洋の人たちに紹介しようという夢を持ち結成されたグループ。

まさか、手塚先生に会えるとは思っていなかったですよ。『火の鳥』の翻訳の許可を得ようと思って、当時、手塚先生のマネージャーで、現在は手塚プロの社長である松谷孝征さんにお会いしお話をしていたんです。すると手塚先生がふらっと現れて…。当時の僕にとって手塚先生は雲の上の存在でしたから、もちろん緊張しましたが、先生は人との接し方がものすごく柔らかい人で、見ず知らずの僕に対しても対等にお話してくれたのを覚えています。

H:その後、晴れて許可をもらい翻訳をはじめます。翻訳を進めていく中で、手塚先生本人とのやりとりは?

僕の記憶では、手塚先生との翻訳過程でのやりとりはほとんどありませんでした。ちなみに、駄々会では『火の鳥』の最初の5巻だけを翻訳して渡していたんですが、それが手塚プロの資料室で25年間ホコリをかぶることになります。

H:そして、駄々会も解散。フレデリックさんは米国に戻りますが、それからも手塚先生との交流は続きます。

手塚先生が米国に来られたときは、通訳としてご一緒しました。ファンに対してとても親切で、どんな人に対しても相手を尊重しながら対等にお話をしようとなさる方でした。僕自身も、怒られても仕方がないようなことをしでかしたりしましたが、一度も怒るということはありませんでした。

H:空港でのお話も伺いました。サンフランシスコ経由でカナダ行きの便に乗り換えるとき、搭乗口の真ん前でフレデリックさんと手塚さんは話に夢中になりすぎて、乗るはずだった飛行機に乗り損なったとか。フレデリックさんにとって「漫画の神様」と称された手塚先生とは?

人生を変えられました。僕は手塚先生にものすごく影響を受けたわけです。それは漫画だけでなく手塚先生のその人柄にも。ユニークで好奇心が旺盛。まるでスポンジのような人で、漫画だけでなく、哲学、宗教、歴史含め、あらゆるものに興味があった。その姿勢が僕に多大な影響をあたえたんです。僕は翻訳家だけでなく通訳もするので、これまでさまざまな方にお会いしてきました。その中で僕自身に一番影響をあたえてくれたのが、他でもない手塚先生でした。何よりも大きかったんですよ。

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現在のフレデリック氏。

漫画翻訳、第一人者の翻訳術

H:ここまでは手塚先生とのお話を伺いました。さて、ここからは漫画翻訳家の仕事について。まずは日本の漫画を紹介する初著書『Manga! Manga!(マンガ!マンガ!)』。これは漫画作品を単体として伝えるのではなく、日本文化として、当時漫画に馴染みのなかった米国に伝えるものだったと聞きました。

駄々会では「日本漫画の素晴らしさを知ってほしい」という理由だけで翻訳をしていたのですが、出版するほどの力もなかったわけです。それに当時は漫画出版を米国の出版社に相談したところで、あまり相手にされず。時期尚早だったわけですね。だからまずは、漫画作品を紹介するというより、漫画を、日本文化というか、社会現象として捉えて伝えようと。1983年に『Manga! Manga!』を上梓(じょうし)しました。

H:『Manga! Manga!』には駄々会が手がけた『火の鳥』の翻訳版も挿入されていますね。

手塚先生がまえがきを書いてくださり、『火の鳥・鳳凰編』の30ページぐらいを掲載しました。その30ページの一コマで、茜丸が正倉院から階段を降りてくるシーンがあるんですが、その茜丸に話しかけるキャラが歴史上では吉備真備(きびのまきび)なんですが、手塚さんはギャクとして水木しげるさんのネズミ男をいきなり登場させるわけです。
ただ、考えてみてください。当時の漫画を知らない米国人にこういうギャグは絶対通じません。ネズミ男がまず誰なのか。どんなキャラクターなのか彼らは知りえませんから。なので、手塚先生に頼んで、そのコマを書き換えてもらったこともあるわけです。

H:エッ。手塚先生本人による描き換えですか!?

『Manga! Manga!』内の『火の鳥・鳳凰編』には吉備真備が描かれています。苦しいけれど、どうしてもそのギャグを犠牲にしなければいけなかったんですね。

H:読み手が変わるということは、その読み手に伝わる作品にしないとならないんですね。その後、手塚作品にくわえて『攻殻機動隊』『ベルサイユのバラ』『はだしのゲン』など、数々の漫画翻訳を手がけます。翻訳をする中で、英語に置き換えることができない日本語ってあるんですかね? たとえば日本文化特有のニュアンスを含む言葉だったり、漫画に特筆していうとオノマトペだったり。

英語にもオノマトペというのがないわけではないですし、もちろん文脈によりますが、実はね、案外簡単に英語で表せます。
たとえば「シーン…」だったら、英語の「silence(サイレンス)」をはめ込んだり、コマにはそのまま「シーン…」を残して、脚注で「silence」を入れる。またそのままローマ字で「shi-n」と入れたり。作品の文脈、ストーリーの展開によって、読者がなるべく自然にストーリーを追えるように訳し方を選んでいました。それが漫画翻訳に関する僕の持論です。

H:ふむ。たとえば水しぶきだと、「パシャパシャ」「バシャ」「バッシャーン」など一つの事象を表すにも日本語はいろいろなオノマトペがありますよね。英訳ではどのように表現を使いわけたのでしょう。

一概にはいえず、ものによって「英訳をはめ込む」「ローマ字で音を表現する」または「脚注で対応する」などいろいろなアプローチがありましたよ。

H:これもまた難しそうだなと思うのが、士郎正宗先生の『攻殻機動隊』。抽象的な言葉で綴られる感情のシーンがあれば、セリフが一切なくオノマトペだけの戦闘シーンもある。このあたりの翻訳の難しさってありますか?

攻殻機動隊で一番大変だったのは、オノマトペよりも造語が多いところです。攻殻機動隊の場合は近未来の話で、造語を多用するんです。翻訳者として、士郎さんの日本語を忠実に再現しようと努めますが、時々どうしてもわからないような用語に出会うわけです。その昔、日本人の友だちに聞いてもわからず、何日もかけて図書館を練り歩いても見つからなかった言葉があって。結局その言葉は士郎さんのマネージャーを通して確認することができたんですけど、やはり士郎さんが考えた造語だったんですね。

H:なるほど…。

それからね、最近の話でいうと、米国の漫画・アニメファンは、オノマトペが翻訳されていなくても、それなりに楽しめるようになっています。
現代に翻訳されている漫画というのは、僕が翻訳をはじめた当時と違って右開き。ハードコアな米国の漫画ファンたちは、なるべく原作に近い状態で読みたい。ですから、彼らからすれば、オノマトペは別に英語に翻訳されていなくてもいい、というのか、無理に翻訳されていないほうがいいわけです。

H:フレデリックさんが翻訳をはじめた当時とは状況が変わってきたわけですね。

当時の米国で出版されていた漫画は、右開きではなく左開きでした。日本から画を送ってもらって、米国の出版社がそれを反転させネームのところをすべてホワイトで消して、なるべくアメコミと同じような書体で書き込んだりしてもらったわけです。当時はアメコミに近い状態で読めるようにするのが当たり前だったんです。じゃなければ、みんな読んでくれなかったんです。

H:興味がわかない?

興味がわかないだけじゃなく、読めないのですよ。コマの運びもアメコミと全然違いますから。とにかく誰も買わないわけです。だから、わかりそうにない単語や、オノマトペなどは脚注で対応もしましたし、ネームの中に補足的な説明をうまい具合に入れることもありました。それから、日本人にしか伝わらないジョークなんてのがあるじゃないですか。そういうものは、しっかり伝わらなくてもそこで読者をクスッとさせるとか、同じような反応を読者に起こさせるような翻訳も場合によってはやるわけですね。

H:何か具体例はありますか?

『鉄腕アトム』全シリーズを翻訳をしたんですが、一箇所覚えているシーンがあります。ロボットの犬が出てくるシーンで、ページの最後のコマで少年がロボットの犬に対して、「おまわり!」と命令する。次のコマでは犬に無視され、さらには「おまわりさん(お巡りさん)」が出てきてしまう。英訳するとなると、これが不可能なわけです。

H:「まわれ!」と「警察」は英語で繋がらないですもんねえ…。

これは僕の長い翻訳家キャリアの中でも一番と言っていいほど誇りに思っているんですが、少年が犬に「おまわり!」と言うコマを英訳で「PHU-LEEEZE(プリーズ、まわってったら!)」とした。次のページのコマで、お巡りさんが「You called for police?(おい、ポリスを呼んだか?)」と出てくる。「プリーズ、プリース、、、ポリース、ポリス」と言ったように「プリーズ」と「ポリス」は発音が近いでしょう? それで繋げることができたわけです。

実際のページ。原本。
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©️手塚プロダクション
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©️手塚プロダクション

実際のページ。フレデリック氏の翻訳。
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©️手塚プロダクション
37ページ、右下のコマ「ROLL OVER, PHU-LEEEZE(プリーズ、まわってったら!)」
38ページ、左下のコマ、プリーズを「ポリス」と聞き間違えた警察がやって来てしまう。

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©️手塚プロダクション

H:お…? おおー!

うまく繋げることができてとってもハッピーでした。

H:たとえば小説などの文学の翻訳家でいえば、原文を忠実に再現するタイプの方と、意訳により色を強く残すタイプの方にわかれると一般的に言われていますが、翻訳家としてのフレデリックさんはどちらのタイプでしょうか?

もちろん両方を意識します。ただ、漫画翻訳は文学翻訳と違っていて、どうしても絵を優先しなくてはいけないところもあります。僕は文学翻訳もいくつか手がけているのですが、文学翻訳のほうがある意味、自由がきくといえます。

H:絵に制限されないからですね。

その通りです。漫画翻訳の場合、作者がネームの中で伝えようとしていることを尊重しながら、最終的に絵に合わせることも必要になったりします。特に当時は、そうでなければ海外の読者が読めなかった。かといって自由に意訳しすぎると、それはそれで大変怒られるわけです(笑)。
それに、文学の場合は、たとえば段落を変えることもできます。もちろん書き手の意図に忠実にしながらですが、英語の論法と日本語の論法は違うので、場合によっては段落の順番を変えないと、わかりづらいどころか意味をなさないこともあるからです。でも、漫画には絵があるのでそれが通用しない。

H:手塚作品についてもう少し。手塚作品だと、『火の鳥』をはじめ『鉄腕アトム』『罪と罰』、手塚氏原案で浦沢直樹さんが描かれた『PLUTO(プルートゥ)』などの翻訳を手がけていますね。手塚作品が持つ特徴だったり、難しさはありますか?

手塚先生は何事に対しても好奇心旺盛で博識な方でしたから、作品の中に何が出てくるのか、どういう展開になるのか予測不可能だったんですね。それが一つの楽しみでもありましたし、翻訳する際の難しさでもありました。

H:その中でも特に翻訳が難しかった手塚作品はどちらでしょうか?

難しかったというのか、苦労したのは『手塚治虫物語』です。普通の漫画と違って情報の密度が高いだけでなく、過去の作品がかなり縮小され、普通の人じゃ読めないほどの小ささで挿入されている部分もある。翻訳者の責任として、その部分も虫眼鏡を使って写真をとってコンピューターで拡大表示をして一生懸命読もうとした。それで肩を悪くしちゃってね(笑)。そういう意味でも、とても大変でした。

H:『火の鳥』の翻訳をしたいと、手塚プロの門を叩いた当時のフレデリックさんは、現代における漫画の普及を想像していましたか?

夢にも思わなかったです。

H:純粋に熱を帯びすぎた「好き」からはじまり、漫画を米国に普及させた第一人者のフレデリックさん。いま立ち返ってみて思うことはありますか。

第一人者だなんて、僕はそんなたいそうなものじゃないですよ。本当に。まさに自然の成り行きというのか、たまたまこうなってしまったというのが正しいでしょうね。

Interview with Frederik L. Schodt

Portraits Photos via Frederik L.Schodt
Text by Sako Hirano
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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