「最近の若いのは…」これ、いわれ続けて数千年。歴史をたどれば古代エジプトにまで遡るらしい。
誰もが一度は通る、青二才。
お仕事の話から、お悩み、失敗談、恋愛のことまで、プライベートに突っ込んで世界各地の青二才たちにいろいろ訊くシリーズ。
4ヶ月ぶりに戻ってきました、青二才シリーズ。初のアフリカ上陸です。二十二人目はナイジェリアのラゴスから。フィルムメーカー(にとどまらない)、ダーフェ・オボロ(Dafe Oboro)、27歳。
母国ナイジェリアを拠点に、フィルムメーカー、フォトグラファー、プロデューサー、キャスティングディレクターをこなす。英国でジャーナリズムを学んだあと、いま独自の流儀でもって自分たちのコミュニティにカメラを向ける。「スラム」「貧しい」以外のさまざまを映像にして見せる。海外に向けて、そして自国の次世代に向けて。
母国ナイジェリアを拠点に撮影した、スラム街のリアルを捉えたドキュメンタリー『Slum Dwellers: Not Dead, Not Living』や、ファッショナブルな若者と飾らない街のコントラストが美しいショートフィルム『Kilón Shélé Gán Gán』。一貫しているのは“いまのナイジェリア、ありのまま”だ。世界各地の映画祭で多くを受賞し、ファッションカルチャー雑誌からスポーツブランドまで多くのクライアントワークもこなす。最近では、撮影に携わったビヨンセのビジュアルアルバム『ブラック・イズ・キング』がグラミー賞にノミネートされた。
才能は世界のお墨付き。だけど、制作の場所に選ぶのは依然としてナイジェリア。生まれ故郷の地に足の裏をべったりつけてカメラを回し続ける。
取材当日、時間バッチリZoomでスタンバイしてたんですが、なかなかご本人現れず。「ナイジェリアだもんなあ。遠いなあ」なんてこぼしながら、頭のなかで地球儀をクルクル回すこと15分。これはリスケかと諦めかけたそのとき、あかるく登場してくれました。さて、いきましょう、「青二才・フィルムメーカー、ダーフェ・オボロのあれこれ」。
HEAPS(以下、H):おっ、やっと入れたかな? ハロー。
Dafe Oboro(以下、D):ごめん!ちょっと遅れちゃった。Wi-Fiがめっちゃスローでさ。
H:いやいや、気にしないで。よろしくね! いまもラゴスにいるんだよね。
D:そう!最近は兄に車の運転を教えてもらってる。
H:いいね、仲良し。ダーフェはラゴスの中心地にあるアジェガンルという地域の出身。どんなふうに育ったの?
D:両親は厳しかったよ。毎日学校に行くか教会に行くかして、家に帰る。ただそれだけの繰り返し。友だちと頻繁に遊びに出ることもできなかったから、自分が住んでる街のこともあんまり知らなかった。
H:作品ではラゴスにフォーカスしていることが多く、小さい頃からの知った街なのかと思っていたので、意外です。のちにジャーナリズムに進むわけだけど、テレビや新聞、ソーシャルメディアは幼少期から身近だった?
D:最先端のメディアがいつも側にあったわけではなかったね。小学生の頃はCNNやBBCをよく見てたんだけど、いま思うとそれがジャーナリズムの道に進むのに影響したのかも。でも実は最初、テレビの司会者になりたかったんだよ。
H:え!
D:母は牧師になってほしかったらしいけどね、それは勘弁だった(笑)。両親には自分が勉強したい意思表示をして。当時、すごく影響を受けたアフリカ系アメリカ人司会者のコムラ・デュモアという人がBBCにいてさ。彼の存在が、自分の夢を両親に示す後押しになった。
H:コムラ・デュモアは、アフリカにおけるジャーナリズムを先導したと言われる人物。BBCワールドニュースの最初のホストで、アフリカの時事を発信する番組『フォーカス・オン・アフリカ』の司会者でもあった。亡くなる前日までプログラムの最前線に立っていた、プロ中のプロです。
D:テレビに映る彼を指差して「自分はテレビの司会者になりたいんだ」って伝えたよ。ちなみにジャーナリズムと同じくらい、アートにも興味があった。小学生の頃は数学のノートにキャラクターを書いて、そのキャラクターの物語を友だちに聞かせてた。
H:学校の友だちと、そういったテレビのジャーナリズムや話やアートとかの話はよくした?
D:いや、話すことはなかった。まわりはビジネスを学ぶ子ばかりで、自分と同じことに興味を持ってる子がいなくて。その点で言うと、ひとりぼっちだった。かといって「オーマイガー、孤独で死んじゃう」なんて微塵も思わなかった。自分が将来何をしたいかがはっきりわかってたからね。だからいまもこうやって、自分の道を歩けているんだと思う。
H:自分が興味を持っていることを、誰かと語り合いたいとは思わなかった?
D:「語る派」より「魅せる派」なんだ。無理に誰かに話す必要もない。自分自身をショーのように表現すれば、言葉は要らないよ。アーティスティックな子どもだったのかも(笑)。学校では課外活動のドラマの授業を受けたり、ダンスやパフォーミングをしてた。
H:ぶっちぎりの独自路線、いいです。そして大学は英国に、ジャーナリズムを学ぶために留学。初のドキュメンタリーが『Slum Dwellers: Not Dead, Not Living』。スラムに暮らす人々に焦点を当てたフィルム。
D:これは大学の卒業制作だったんだ。実はスラムに住む彼らのことを実際に知ったのも、制作をしはじめてから。自分が生まれ育ったアジェガンルは、ラゴスのなかでも栄えた都心部で。大学卒業を目前にして初めて、ラゴスという街をちゃんと探索するようになったんだ。これまで親に縛られて我慢し続けた探究心が、やっと解放できる!って感じだった。
H:作品に登場する、スラムに住む母親が印象的だった。息子の手を引っ張って「この子は学校にも行けず、毎日ただ水を売ることしかできないんです」と言って涙を溢していた。
D:家が取り壊され、電気も寝床も食料もない。彼女の話を人づてに聞いて、自分の初作品はスラムの人々に焦点を当てたドキュメンタリー映画にしようと決めた。この制作は、自分自身にとっての学びだった。でもそれと同時に、この状況をラゴスの人たち以外にも知ってもらう必要があるとも思った。スラムの問題って、アフリカだけに存在するものではない。ヨーロッパやほかの裕福とされる国にさえ、どうしようもないような貧困が存在している。
金持ちが住む家の一件先に路上生活者がいるなんてザラな話でしょ? どの国にもいえること。ジャーナリストとしてそのことを伝えなきゃと思って。
H:うん。
D:ナイジェリアは貧困層の人口が世界最多。だから、この国には「絶望的な貧困」しかないと思われることもある。でも、貧困があるのは事実だけど、仕事を得たり夢を叶えるためにここにくる人も大勢いるんだ。
H:大きなイメージがほかの多くの事実をないものにしてしまう。見方の問題がありますね。そしてそれは、見せる方にも、見ようとする方にも。
D:こういう見方の問題を提起すべきだっていう問題意識もあった。でも正直ね、初作品のテーマをスラムにしたのは、締め切りが迫ってたっていう理由もある(笑)
H:この作品はなんというか、ダーフェの後の作品と比べて、ストレートなドキュメンタリーの印象を受けました。シリアスなトーンのナレーションからはじまって、一人ひとりのインタビューを映していく。たとえば作品『A Beautiful Struggle』では、もっとビジュアルストーリーという印象を受けます。カメラワークも、映像の構成も。
D:フィルムのスタイルがドキュメンタリーに根ざしてたのはその通り。でも、スタイルはそんなに変わってない。“実験的なドキュメンタリー”という点を一貫して持っているんだ。
『Slum Dwellers: Not Dead, Not Living』も、自分でベストだと思う方法でストーリーを伝えようとしたら、大学の先生には「これはジャーナリズムじゃない。たのしませるのではなく、ストーリーを伝えるのが重要なんだ」と言われたくらい。
H:ありのままを映しながらどう伝えるか。そこに実験し続けるということは変わっていない。
D:それから『Slum Dwellers: Not Dead, Not Living』は卒業制作として学校に提出するもので、言ったら大学がクライアントの作品みたいなものだったからね、多少の妥協は必要だった。でもスタイル自体は一貫してるっていえるよ。
H:“工夫”を前面に感じるとそれはジャーナリズムというより映像作品に見えていく。でもそれゆえ、見方に関しての問題に強くアプローチしているとも思います。
D:作品には遊び心も忘れないんだ。音のミキシングでは、実際には関係ない、あるいはその映像に登場するはずのない音をミキシングしてみたり。
H:どういうこと?
D:たとえば市場で魚を買っていると、後ろから赤ん坊の泣き声が聞こえたり、誰かが喧嘩している声やヒソヒソと噂話をしている声が聞こえたりする。自分が住むリアルな世界で、見たこと聞いたことすべてを作品に反映しているから、制作もドキュメンタリー的で実験的なアプローチになるんじゃないかなとも思う。君もラゴスに来たら、言ってる意味がわかると思うよ。
H:なるほど、一つのドキュメンタリーに、ラゴスのほかのリアルなものを掛け合わせていく。それが、ダーフェの実験的なアプローチのひとつ。
D:大学の先生からは「君たちがやっていることはジャーナリズムじゃない、クリエイティブすぎる。ジャーナリズムっていうのはルールがあるものなんだよ」と言われたんだ。いま自分はルール通りのジャーナリズムをやっていないけれど、ジャーナリズムを専攻して制作のガイドラインを学ぶことができたのは大きいとは思う。
H:ルール通りのジャーナリズムから、そうじゃないことをしてみたいと思ったのはいつ?
D:大学で最初の作品を制作したときに、考えが変わった。初めて作品監督として「アクション!」と言った瞬間に「自分は映像作品が作りたい。ルール通りのジャーナリズムとは違う、何かほかのやり方でストーリーを伝えたい」って悟ったんだ。
H:監督から編集までなんでもこなすダーフェだけど、制作過程で一番難しいのは?
D:すべての過程をたのしんでるけど、留学中の制作について言うなら「編集」かな。いざ編集に手をつけはじめると「うっわー、素材足りない。もっと撮っておけばよかった…」ってな状況があったりして(笑)。限られた素材だけで自分の伝えたいストーリーを作品にするのは、すごくチャレンジングだったなあ。
H:大学卒業後に、英国からナイジェリアに戻ったのはどうして? 英国にそのままいることもできたよね。制作の環境も整っているし、大学時代のネットワークも含めて制作の足場があったよね。
D:キャリアパスを考えたときに「自分の一番よく知る国、つまり故郷のナイジェリアでキャリアを築いて制作活動をする」のがベターだとおもったんだ。英国のジャーナリズムにおけるネタは、全部似たり寄ったりで、使い回されてる。取り上げるネタ不足で、先週取り上げたネタを今週また違う視点から取り上げなきゃなんてこともある。
H:ナイジェリアだと、まだ触れられていないネタがたくさんある。
D:ここナイジェリアでは、すべての存在、すべての物、動くものでも動かないものでも、とにかくすべてがストーリーを持っている。これこそが魅力なんだ。ナイジェリアに戻ってきてドキュメンタリー制作をしたときに感じたんだけど、制作もただの制作じゃなくて、学びのプロセスでもあるんだ。自身の目が覚めていくようなプロセス。
H:その制作では、とにかくいろんなことを自分でやっていきます。キャスティングとか大変そう。
D:自分がモデルをしていた時期もあったから、モデル事務所との繋がりはあったりするけど、自分で声をかけてキャスティングすることも多いよ。
H:直接、街で声をかけたり?
D:あと、デートアプリとか。
H:デートアプリ!まじ?
D:ティンダーとかね。モデル志望のいい感じの男の子たちを見つけたら、「この子いいね。右スワイプ!あ、この人もいいじゃん、右スワイプ!」って感じで(笑)。そこから連絡を取って「じゃあこの人に繋げるね」「君にはこんな仕事があるよ」と紹介していく。だから、すでに知ってる顔ばかりをキャスティングするわけじゃないんだ。面白い人を探すために、デートアプリやインスタ、フェイスブックを使ったり街を歩いたりしてる。
H:ラゴスの街での、ストリートキャスティングも気になる。
D:声をかけて、電話番号を聞いて、できることなら写真も撮らせてもらう。でもせっかくつかまえても翌日電話に出てくれないことや、仕事場に来てくれないことだってある。ラゴスという都心で、知らない人に声をかけて仕事に繋げるっていうのは、本当に本当に難しいんだ。だから声をかける前は「どうしよう、変人って思われないかな?」とか色々考えるよ。
H:ストリートキャスティングは、相手との信頼関係がゼロの状態からはじまるもんね。
D:そう。だから、信頼を得るまでじっくり時間をかけてコミュニケーションするのが大切。そこから「じゃあスタジオに来て、ちょっと撮影してみよう」と誘う。撮影中も、何のために撮ってるのか、誰に向けて撮ってるのか、今日撮った写真はいつまでにクライアントからフィードバックがもらえそうか、とかをきちんと説明する。
H:関係構築の丁寧さがよくわかる。
D:そうやっていくと、撮影後には相手の方から「クライアントから返事が来た? 僕のこと気に入ってくれたかな」っていうメッセージがくる。ここまでできたら、それはもうミラクル。
H:相手から信頼された証のメッセージ。
D:たまに「このプロジェクト、君にストリートキャスティングをしてほしい。プロジェクトは明日なんだけど」と言われることもあるけど、そういうのは断る。信頼関係を築くのには時間が必要だからね。そこを疎かにすると、プロジェクト自体の失敗にもなりかねない。それに長い目で見れば、大切な過程を疎かにしてしまったことに、自分がずっと悩むこともありえるから。
H:他人同士から信頼しあえる仕事の関係を作っていくの、素敵だ。そういえば、ダーフェの作品、いろいろと見たよ。『A Beautiful Struggle』すごく好きだった。露天商の若者が、シンガーを目指してハッスルする姿を映した作品。
D:ありがとう! 出演してるシンガーは「スマートソング」という名前で活動しているんだけど、彼のキャスティングも結構奇跡的だった。雑誌の撮影で出会ったんだ。彼のヘアスタイルがイケてたから「写真を撮らせてもらえない?」と話しかけたら「もちろん。実際モデルやってるんだ」って。さらに「実はミュージシャンもしてて。もし映画で使うなら音源送るよ」って。
H:彼が曇り空のなかで体を洗うシーンで特に、あのヘアスタイルの彼はとても美しく映っていました。
D:ラゴスについてのフィルム制作を考えたとき、「彼と一緒に作ろう」と思ったよ。『A Beautiful Struggle』ではスラムにおける実験的で芸術的な部分を切り取ったんだ。スマートソングっていうアーティストと個性、そして才能が、この作品を素晴らしいものにしたといえる。
H:ダーフェの作品を見てると、いかに自分自身やアイデンティティを表現するのか、自分に忠実に生きるのか、っていうのを若い世代に示しているように思える。
D:幼い頃、自分の世代は、自分たちやコミュニティをポジティブに映し出したものを見てこなかったんだ。自分のコミュニティに向けられたのは「スラム」という言葉で、そこに住んでいる人はみんな貧しいと言われてきた。それを変えたかったんだ。自分がいままで創り出してきたもの、これから創り出すものはきっと次の世代の参考になるって信じているよ。作品制作を通して自分自身が学んだように、次の世代にも何かしら教えられることがあるってね。
H:周囲からの作品の反応はどう?
D:「映像が汚らしい」って言われることもある。そりゃあそうかもしれない。だってフォトショップで無理矢理綺麗に編集しようとはしないし、自分が見たものそのままを映し出してるんだから。ナイジェリアのリアルな部分を映すことで汚いって言われるのはネガティブな反応かもしれないけど、でも実は良いことでもある。
H:それはどういう意味?
D:作品を作るときに心がけているのは、必ず作品に対話を持たせるということ。だから、たとえ作品が見た人に不快感を抱かせようと、疑問に感じさせようと、なにかしら考えさせることができれば自分の目標は達成できたと思ってる。「汚い部分ばっかり切り取りすぎてる。もっとグラマラスなものを作った方が良いんじゃない?」なんて言われることもあるけど、こっちとしては「なんで現実から背こうとするんだよ」って思う。
H :必ずしも自国の人や同じコミュニティの人がポジティブな反応をくれるわけじゃない。
D:DAZEDやiDといったインターナショナルな仕事をするようになって初めて、ナイジェリアの人々にも認められるようになってきた。だから実を言うと、これまでナイジェリア国内のクライアントと仕事をしたことはまだあんまり無いんだ。やりたくてしょうがないし、ずっと憧れていることなんだけどね。
H:そうなんだ。今日話してみて、ダーフェからは地元への愛をすごく感じたな。ナイジェリア人であること、誇りに思っている?
D:とっても。でも「ナイジェリア人だから、作品もナイジェリアに根ざしているんだね」って言われるのは、少し違う。出身地であることには間違い無いけれど、それよりも自分自身を見つけられた場所だからっていうことの方がもっと重要な気がするから。
H:最後に、ラゴスのどんなところに惚れているのか聞かせて。
D:イライラさせられるけど、美しいところ。家族みたいだよね。時々腹も立つくけど、でも心から愛してるこの感じ。ここには学ぶべきこと、見るべきもの、語るべきものがたくさんある。そしてこの雑多な都市の質感が愛おしい。ラゴスはたしかに美しい場所だよ。
Aonisai 022: Dafe Oboro
ダーフェ・オボロ(Dafe Oboro)
1994年生まれ。
英国で放送ジャーナリズムを学んだのち、母国ナイジェリアを拠点に活動中。
フィルムメーカーからフォトグラファー、プロデューサーまで務めるほか、キャスティングディレクターもこなす。
映像作品や雑誌の表紙撮影など世界中のメディアとコラボレーションを果たしており、
撮影に携わったビヨンセのビジュアル・アルバム『Black Is King』は
グラミー賞にノミネートした。
All images via Dafe Oboro
Text by Iori Inohara
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine