今年も夏フェスの季節だが、最近の音楽フェスではいろんな音楽が入り混じる。大型フェスでは、同じステージで昼にロックバンド、夕方にヒップホップアーティストを観ることは、さほど珍しくない。オーディエンスのプレイリストには、レゲエとパンクが隣り合わせる。拙い表現だが、さまざまな人がさまざまな音楽を聴くようになった。しかしそうもいかなかったのが、40年前の英国。音楽が人種、人種が音楽を隔てていた時代があったからだ。
白人バンドは、白人のために。黒人バンドは、黒人のために。40年前の英国。その人種と音楽の壁を壊そうと、あらゆる音楽好きが心をともにした、今日に通ずる5年間のムーブメントがあった。
「Love Music, Hate Racism」ミュージシャンと市民、“音楽”の蜂起
スポーツと同じく「音楽に国境はない」「音楽は国境を超える」と人はよく言う。いい音楽はどこの誰が聴いてもいい音楽だし、住んでいる国や国籍に限らず、“あの人の好きな音楽はわたしの好きな音楽”であったり。「音楽は世界の共通言語」とも「音楽に人種の壁はない」とも言う。
まったくもってまっとうな話である。たとえば、ロックンロールのルーツはリズム&ブルースやソウルなど黒人音楽にあるし、ビートルズやローリング・ストーンズなどの英国ロックバンドは米国のブルースミュージシャンに多大なる影響を受けて生まれた。チャック・ベリーやリトル・リチャードなど黒人プレイヤーはロックンロールのパイオニアであるし、ジミ・ヘンドリックスはロックギタリストの王者。“5番目のビートルズ”と呼ばれたキーボード奏者のビリー・プレストンも黒人だ。
しかし、黒人音楽を敬愛する一人のアーティストが失態を犯した。ブルージーな白人ギタリスト、エリック・クラプトン。当時アルコール依存症を患い正気ではなかったのか、自身のコンサート中に「Keep Britain White(英国を“白く”保とう)」と人種差別発言をしたのだ。1976年の英国。国の景気は悪化し、失業率は上昇するばかり。鬱憤を募らせた厭世的な若者たちは暴動をおこし、警察がそれを暴力で鎮圧。人種差別や階級主義が社会を蝕み、肌の色が原因で、日常的に誰かの涙と血が流された*。
*カリブ系移民移住区であるロンドンのノッティングヒル地区で、人種対立が深刻化し、移民の祭典「ノッティング・ヒル・カーニバル」で暴動が起きたり、アジア系移民が多いサウスホールは、極右たちのかっこうの標的になり、差別主義者の白人の若者たちがアジア系のティーネージャーを殺害するという事件が起きていた。
©Syd Shelton
©Syd Shelton
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政治的にも、ナショナリズムが台頭。極右組織「ナショナル・フロント(イギリス国民戦線、NF)」が勢力を伸ばし、デヴィッド・ボウイはインタビューでファシズムについて好意的な発言をし、公の場でナチス式敬礼をみせる。シド・ヴィシャスやスージー・スーといったパンクロッカーたちはスワスティカ(ナチスのシンボルマーク、卍)をファッションの一部として取り入れた。そんなどこか危うい空気が流れていた時代。そこに、クラプトンの「イノック・パウエル(極右の保守党党員)に投票すべきだ。英国を“黒人の植民地”にしないためにも」発言だ。
「クラプトンの、この忌まわしい差別発言が引き金となって、写真家のレッド・サウンダースが『人種差別に対して闘おう』と呼びかける声明文を複数の音楽誌に送りつけた」。当時を回想するのは、英国人写真家で活動家のシド・シェルトン。「その声明文が掲載されると、すぐに凄まじい勢いの反響があって、数週間も経たないうちに〈RAR〉が結成されたんだ」。RARとは、「ロック・アゲインスト・レイシズム(Rock Against Racisim)」。目的は「人種差別撤廃」。武器は「音楽」。スローガンは「Love Music, Hate Racism(音楽を愛せよ、人種差別を憎めよ)」。社会にはびこる人種差別的な思想に変革を、と76年から81年まで存在した団体であり、ムーブメントの総称だ。
「音楽ファン、アーティスト、グラフィックデザイナー、フォトグラファー、ライター、ミュージシャンたちがロンドンに集まり、臨時の“RAR委員会”を立ち上げたんだ。正式な組織構造なんてない。週例のミーティングに来た誰もがその週の委員会メンバーになるという、アナーキーな感じだったよ」。シェルトンは、自らもRARの一員となり、活動を最前線でカメラを構えることとなった。
©Syd Shelton
パンクとレゲエが同じステージに。「白人バンドは白人へ、黒人バンドは黒人へ」を打ち砕き
ロンドンパンクの代表で、若者たちの怒れるパワーを政治的な活動に繋げようとしたバンド、ザ・クラッシュ。彼らが78年に発表したなかに『ハマースミス宮殿の白人』という逸曲がある。歌詞の内容は、ロンドンのライブ会場「ハマースミスオデオン」でおこなわれていたオールナイトのレゲエショーに、同バンドのボーカル、ジョー・ストラマーが行った話。人気レゲエDJが回すも、それは商業化されたポップなレゲエで、本格的なレゲエを期待していたストラマーは落胆する。
ここで注目したいのが、曲の題名。「ハマースミス宮殿の白人」は、レゲエナイトに来ていた唯一の白人、ストラマーのこと。カリビアン系黒人の音楽イベントに、白人が一人ぽっちだという状況だ。
「当時の英国では、白人のバンドは白人の観衆のために、黒人のバンドは黒人の観衆のために演奏しているのが普通だった」。シェルトンがそう話すように、ロックは白人の音楽、レゲエは黒人の音楽と、音楽の演奏者と聴き手が白黒とわかれていた*。その人種と音楽の隔たりをぶち壊そうとしたのが、RARだ。
*1970年代のパンク全盛期にはデトロイト出身の黒人パンクバンド、デス(Death)、全員黒人メンバーのハードコア・パンクのバッドブレインズだっていたわけだが。
「ロンドンにあるRAR本部や全国に増えていったRARのメンバーたちは、独自のライブを計画したんだ。できる限り黒人と白人のバンドを共演させて。フィナーレには、ジャム・セッションを入れたりもしたさ」。
パブロックの父、白人ロッカーのエルヴィス・コステロや白人パンクバンド「スティッフ・リトル・フィンガーズ」「バズコックス」に「シャム69」、レコードセールス面でも成功していたレゲエバンドの「スティール・パルス」や、ノッティングヒル暴動の様子を曲にするなど社会派だったレゲエバンドの「アスワッド」。特に精力的に活動をしていた黒人レゲエバンドの「ミスティ・イン・ルーツ」と、レゲエに影響を受けた白人パンクバンド「ザ・ラッツ」。“英国初のアジア系メンバーを含むパンクバンド”と呼ばれる「エイリアン・カルチャー」もムーブメントの主要メンバーになった。
©Syd Shelton
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同じステージ上に、白人のパンクと黒人のレゲエが入り混ざれば、それぞれを観に来た白人、黒人、その他の人種のオーディエンスも同じフロアに入り混じる。極右団体や右派のスキンヘッズ、人種差別主義のグループからの妨害を受けながらも、RARは、5年間のあいだ英国中で、300、500のライブをおこなったという。ライブのなかには、極右へのデモで逮捕された市民700人のための資金集めギグもあったそうだ。「黒人と白人のバンドが同じライブで演奏する、ということ自体が、視覚的に訴えかけることができた。マルチカルチュラルな思想を拡散することができたんだよね」
ライブイベントの告知には、ポスターやフライヤー、RARのジン『テンポラリー・ホーディング』を街に撒き散らし、参加を市民に呼びかける。ジンでは、人種差別や性差別、同性愛嫌悪を批判し、南アフリカや北アイルランドで起こっていた政治問題なども取り上げた。「このジンはRARの活動において、とても重要な役割を果たしていた。活動の資金集めなども、このジンを通してしていたんだ」
Interview with Syd Shelton
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Text by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine