4日目でポテチが食えなくなり、5日目で皮膚はまるで餅のようになり…。
僕は、7日間ぶっ通しで行われる、とあるワークショップに参加していた。そこでは喋ることも許されず朝から晩まで瞑想し続けるもの。3日間の体験を終え、ついに4日目に突入した。
この画像はイメージです。
大きな変化があったのは、4日目だ。
目をつむり、観察していると、また全身の痛みが消え、力が抜けて、宙に浮いたような気分となってくる。ああ、なんだか気持ち良い。快感の波がちょこっと顔をだしては、引いてゆくことが2時間ほど続いた。
この日、先生はこう言った。「わきでてくる感情と自分の心をつながげて観察してみてください。恐怖でも喜びでもよいですよ」。偶然その瞬間にわきあがってきたのは喜びだったので、そこに繋がってみる。
すると突如、これまで経験したことのないトリップが!白いフラッシュが焚かれたように、脳内が明るくなったのだ。脳の外面は眠っている感じなのだが、中心部はしゃきっと冴えてゆく。直感的に「これだ!」と思い、その感覚に浸った。すると、聞こえてくる鳥の声が100倍ほど美しく聞こえ、自然と涙が頬を伝ったのに驚いた。内側と外側を遮るものが取り払われて、音が直接心の深い所に入り込んでくるといった感じ。
だが。「もうメディテーションは成功したのか。さすが俺」と調子に乗ってしまった瞬間、背中から圧を感じて気持ち悪くなり、吐きそうになってしまった。どうやら、奢りや自分は特別だと思うことは、相当なストレスになっているようだ。当たり前の感情すぎて、不感症になっているが、おそらく実生活においてもそうだろう。
まっさらな心の状態なので、世俗的な思考がどれだけ心に影響するかよくわかる。その後、気持ち良い瞬間はこの日は訪れなかった。
夜中、お腹がすき、こっそり持って来ていた塩味のポテトチップスを食べてみた。「うえー!強烈!」、ペッと吐いてしまった。しょっぱい。というか、刺激物だ。なんとなくだけど、薬品の味がした。
5日目:「もうやだ家に帰りたい」。走馬灯のように現れる恐怖との戦いはじまる
顔を触ってみると、皮膚が自分のものではないように感じる。餅のように柔らかい。マッサージすると、脳みそもほぐされているような感覚。この日から、生きる実感がむくむくとわきあがってきて、楽しくてしょうがない。「さあ、みんなで地球を救おうじゃないか!」と叫びたくなるほど、ドーパミンが溢れ出ている。外を歩いて風を浴び、気持ち良さに目をつむっていると、体中がばらばらになって風と一体化するようなイメージが頭に沸いた。普段そんな妄想に取りつかれると恐怖だが、心地よい。
いつものように瞑想を始めるが、昨日の快感が忘れられない。しかし、今度は陰鬱な世界へ没入することになった。
「生きていて意味があるのか?」「体中が気持ち悪い」「自分は無価値だ」という感じで、ネガティブな考えが生まれてくる。圧力が強まり、吐きそうになる。その状態が半日ほど続いた。
幼いころ家族旅行中に吐きまくったこと、亡くなった友人のこと、クラスメイトに言われて傷ついた言葉など、覚えてもいなかったことも立ち現れる。特に頭を支配したのは、20才のころパニック障害を併発したころの思い出。いまは完治しているが、不安で押しつぶされそうで、外に出ることが怖く、葛藤ばかりため込んできた時期のことが頭にうかんだ。
思い出やトラウマとの格闘。もういやだ家に帰りたい。悲しくて、苦しい。受け流そうとしても恐怖に勝てない。冷や汗をかきはじめた。目を開けると、鎮座している田原先生が、優しく微笑みかけてくれた。いささか安心し、「その感情とはなにかをよく観察しなさい」という先生の言葉を思い出し、実践してみる。
うんうん、とうなりながら観察し続けて3時間ほどすると、あることに気が付いた。頭にうかんだ恐怖やトラウマは幻想であり実体がなく、放っておくと、すーっとフェードアウトしてゆくこと、反対にその幻想を怖がったり意識を集中してしまうと膨張してゆくこと。これは、かなり大きな気づきだった。心の中はいつも変化してゆく。これはおそらく恐怖だけにあてはまるものではない。感情や、痛み、だるさ、すべては一過性のもの。過度におびえることも、追い求めることも、無意味なものに思えてきた。
7日目: 「闇から一転、快感の渦へ突入!」
最終日。昨日まであったネガティブな恐怖や吐き気は、自然となくなっていた。というか、感情が現れても受け流すことを何度も繰り返すうちに、心が空っぽになっていたのだ。
ママが言った「悲しみを排出する作業とはこれか」と思った。とてもすっきりした気分。
しばらく呼吸に集中していると、その空虚な心に春の日差しのように柔らかな多幸感が。今度はそこに、驕りもなく素直に浸ることを許すことができている。今までは、わき上がってくる感情をシャットアウトし平静を保つ癖ができていてしまっていたのだろう。幸福感さえ、拒絶していたような気がする。
その時!また世界がぱーっと明るくなった。強烈な快楽とともにサイケデリックな映像が入れ替わり現れ、同時に一筋の光線が頭頂部から侵入してきて「シャキーン!」と背筋は真っ直ぐになり、座り続けたことでの足や背中の痛みさえも快感へと昇華してしまった。いままで入ったことのなかった、脳にある新しい部屋を見つけた感じ。そこには、怒りも悲しみも葛藤も劣等感もない。闇を抜けたあとに差し込む光の鮮やかさを僕は体感した。それでいて集中力が増し、体の中の細胞の動きも子細に観察することができている。
この日、僕は夜9時を超えても瞑想室で座り続けた。目をつむり、息をすることだけが、こんなにも気持ち良いのか。生きていることを肯定されている気がする。気づいたら0時だった。
瞑想室からでて、空を見上げると満月が輝いていた。人工光は皆無であり、月から放射されている光だけが闇を包む。参加者たちも、庭を囲むようにリラックスして座り、月に見入っている。向かい側に座ったブロンドの女性の艶やかな金髪が、月の光でキラキラと妖艶に輝いて、しみじみと思った。日々、世界は美しさで満ちている。
目に見える景色は、心の状態を映す鏡なのだと思う。その瞬間、僕の心は完璧に調和していた。
日本に戻って、元に戻った
こうして僕の瞑想体験は終わりをつげた。いま思えば、瞑想とはそれまで積みあげてきた常識や思い込みを破壊し、毒素を排出し、まっさらな感性を再生させる作業だったのではないか。
あれから。日本へ帰り1年がたったが、いまでもこのまっさらな精神状態かといわれれば、そうではない。よくイライラするし、恐怖におびえるし、自分へのおごりもまた生まれてきた。生きてゆくためには競争も必要だから、嫉妬や妬みが必然的に生まれてくるし。つまり、また元に戻った。
だけど、何かが前とは違う。それは多分、自分の体や心について僕が知っていることなんて一部分だと認識した点だ。いかに僕が自分の体と心へ偏見を持ち、それが可能性を覆い隠しているかを体感できた。きっとその偏見は外の世界にも向けられているのだろう。
そして、常識が崩れ落ちるような経験をした快感を忘れられないでいるし、また不思議な体験を得ることができる対象を探し続けている。
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Text by DAIZO