「セクシーさ? ファンシーさ? ゲットダウン? そんないいもんじゃなかったね。もしタイムマシーンがあっていまの自分があの頃に戻るっていうのならもう一度見てみたいけど、あの頃を“もう一度やる”ってなったら絶対にごめんだ」
あの頃、とは1970年代。ニューヨークは財政悪化を経験した最悪の時代であり、ヒップホップカルチャーが育とうとしていた時—。舞台は、どん底のニューヨークでも最恐の街として名を知られたサウスブロンクス地区。
“It was genesis(創生期だった)”。リリックで社会的弱者の存在をうったえる前、パーティーとしてオーガナイズされるよりもさらに手前の、ヒップホップの純粋な創生期についてはあまり語られない。それから、確かにそこにいたアフロ・アメリカン以外の存在についても。
「そのへんの子どもがその場で遊びを生み出すのとおんなじだよ。その遊びには、名前すらなかった」。語り手は、当時のサウスブロンクスで、これまた遊ぶように写真を撮っていたというリッキー・フローレス(Ricky Flores)。我々HEAPS取材陣を車に乗せ、青春時代を過ごしたサウスブロンクスを走らせながら当時について話し出した。
リッキー・フローレス。
行政に見捨てられた地区
保険金欲しさの大家による放火、そうでなくても家主に見放され真っ暗なマンション。「戦争あとの焼け野原」だと揶揄された。1日で3、4件は火事が起こり、ドラッグが蔓延、ストリートにはヤク中とアル中がのさばる。そんな状態でも警察からの対応はなく、挙句の果てには行政からも見捨てられ、無法地帯へと成り下がった。それが、70年代から90年代にかけてのサウスブロンクス地区(※1)だ。
©︎Ricky Flores
さて、ここまではメディアでも散々報じられている話。今回、リッキーが我々に語ったのは、そこにもう一歩踏み込んだ、その壊れた時代をたくましく生きた人々の日常だ。
それは、のちのヒップホップとして昇華されていく、当時の「名もなき遊び」が生まれたシーン。鬱屈とした日常で彼らが求めたたった一つのポジティブな空間と時間だった。「いまさら歴史に新しい分岐点を残したいわけじゃないけど、その頃の本当の光景というのを知ってほしいと思う」とリッキーは言う。
(※1)60年代はユダヤ教徒が多く住みビジネスが栄え比べものにならないほどに活気あふれた街だったが、70年代に入り、ユダヤ系の人口が流出し状況は一転。代わってアフリカン・アメリカン、プエルトリカン、カリビアンなど低所得者が大量に流入し、資産価値は暴落、街は立ちいかなくなった。
現在のサウスブロンクス。
父の遺産をつぎ込んで買ったカメラがとらえた地元
瓦礫の山々で街が埋めつくされ、犯罪とドラッグがゴミのように散らばり、道端で注射器片手に恍惚状態な人を見かけるなんてのは「幼少期から日常の絵面」。サウスブロンクスの混沌を見ていたリッキーが、その日常を撮りはじめたのは18歳のとき。早くに失くした商船員の父が遺産として残した600ドル(70年代当時のレートで約19万円)をつぎ込み、最初のカメラ「Pentax-1000」を手に入れた。
ただし、この時はまだ「この散々な日々を記録するべき」という使命感はなく、彼にとっては「日常の自然な行為」だったという。「仲間内でおもしろいことがあれば笑う、その反応と同じで、俺はシャッターを切った。いつも撮りまくっていたせいで、仲間内ではなんでいま撮んだよ? ってうんざりされたこともあったな」。初めての自分だけの所有物がうれしくて夢中で写真を撮った。「撮影範囲内はたった15ブロック以内」と、家族や友人、サウスブロンクスの身のまわりで起こるものが被写体だったリッキーの写真。ヒップホップの火種となった先述の遊びも、青春時代に身のまわりで当たり前に起こっていたもののうちの一つだった。
小学生の頃から通っていたというピザ屋。店主とはいまでも仲が良い。
語られないマイノリティの存在
子どもたちは壊れたビルディングをジャングルジムのようにして遊び、若者は小さな部屋に夜な夜な集まったり、タギングの練習をした。誰からともなく日本製のBoombox(ブームボックス、日本でいうラジカセ)を持ち込み、流れてくる音楽にあわせて踊りはじめた。誰もが一台は持っていたというブームボックスさえあれば、街角でも交差点でも公園でもどこでも成り立った。この遊びこそリッキーの言うところの名もなき遊びで、サウスブロンクスのあちこちで起こっていたという。
「ラジオから流れてくる音楽はなんでもよかった」と、R&B(リズム・アンド・ブルース)やディスコミュージックだけでなく、ニューヨークのプエルトリコ人発祥のサルサなど、バラエティーに富んだ音楽がプレイされた。そのため、近所の子どもからおばちゃんまで、年齢も性別も関係なくコミュニティ内すべての人々が集まる場所だった。
©︎Ricky Flores
これはいわゆるヒップホップカルチャーの起源とされるブロックパーティーだが、リッキーのいう創生期では「DJは繋げたカセットテープの音楽を流すだけ」であり、「誰々主催のパーティー」などではなかった。最初は基本的に2分30秒しか録音できないテープを何分間か流せるように繋ぎ合わせて工夫したのも、「みんなを踊らせるためだけだったよ」。
若者たちの“クールな遊び場”ではなく、誰もが参加できる道端の催しもので、アフロ・アメリカンだけでなく移民も多くいた。アメリカで黒人よりも差別を受けた人種といわれるプエルトリコ人も入り乱れて踊った。「その時だけ、自分たちもこの国に属していると感じられた」。彼もまた、プエルトリコ移民の息子だった。
©︎Ricky Flores
遊びがヒップホップへ
ただの遊びが徐々に団結しはじめ、社会的な存在意義、または主張を持った活動へと変わっていくのは「自分たちがいかに不当な扱いを受けているのか」にサウスブロンクスの若者らが気づきはじめたときだという。
「学生になって、クラスで写真を見せたとき。ほとんどの生徒が白人だったんだけど、俺の写真をみて、笑いながら言ったんだ。“お前、バイオレンス映画でも撮ってるの?”って。その時に気づいたよ。サウスブロンクスにある光景は俺たちの日常であっても、外の人間には非日常の光景なんだって。普通じゃなかったんだって」。サウスブロンクスで育った子どもらが青年になり、気づきはじめた他との相違。「それで、みんなで真剣にストリートで話し合うようになったんだ。この現状と、それからこれをどうすればいいのか?」って。
©︎Ricky Flores
非日常的なサウスブロンクスの日常で培われた、何もないところから遊びをはじめる創造力と、年を重ねるに連れて実感した不当と鬱屈が一つになり、本格的に外の世界に飛び出しはじめたのがこの時期だったのではないだろうか。これが、ヒップホップという今日においてメインストリームにまで上り詰めるカルチャーのはじまりだ。「おい、いま見たか? 腐った警察を歌って追いやってやったぜ」なんてシーンもあった。他に自分たちの声を社会に届ける方法を知らないから、すでにあった遊びを使って言葉を乗せる。そこにあるもので遊びを発明してきた若者らが、今度はそこにあった遊びを自分らの術に変えた。
頭角を表す者はすでに出はじめており、台頭したのはアフロ・アメリカン。かのズールーネーション、パブリックエネミーが世に広く出ていく。
這い上がるようにして育っていったヒップホップに対して、リッキーが見ていたジェネシス(創生期)とは、苦しい暮らしの中で見出した唯一のポジティブな空間、ただそれだけだった。
「ヒップホップの最初は、日常から生まれたものだった。誰もそれがのちのヒップホップになるなんて思ってもみなかっただろうね。アフロ・アメリカンとラティーノ、俺たちプエルトリカン、あらゆる人の音楽とダンスとアイデアが溶けて生まれたんだ」。そして、何も特別なものではなくサウスブロンクスのあらゆる場所で起こっていたものだった。
「そこがあんまり語られないのは少し悲しいもんだね。ヒップホップを生んだのは、レジェンドでも特有の人間でもない。あの時、苦しんで苦しんで苦しみ抜いた人々みんなが日常に見出したものだったんだと、いまでも俺は思っているよ」。
ヒップホップを生んだのは、自分たちなりの生き方を見出そうとしたサウスブロンクスというコミュニティ全体の、確かな日々だったのだ、と。
©︎Ricky Flores
Interview with Ricky Flores
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Ricky Flores
Interview photos by Kohei Kawashima
Text by HEAPS, Editorial Assitant: Shimpei Nakagawa
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine