ウクライナ内戦、戦地近くの市民の暮らしを撮った。「戦場のドア向こう、崩壊に近づいていく日々」

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戦場のドア向こうに生きる人々を撮った写真は、先進国の小綺麗な街に住む私のような人間にも確かなリアリティがあった。それは、ティモシー・イーストマン(Timothy Eastman 以下、ティム)のおさめる戦地の写真が、完全崩壊のシーンではなく、まるで焦らすように迫る暮らしの崩壊に怯える人々、だったからだと思う。

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「戦場や戦いにおける純粋な暴力より、それに翻弄される人々の暮らしを撮りたいと思った」。ティムが初めてウクライナへと降り立ったのは2013年、ユーロマイダン※1の年だ。それまで、ウォールストリート占拠デモをきっかけに「その手の分野の写真を撮ることに夢中になって」、トルコ、レバノン、エジプトなど各地の難民や、衝突の写真をおさめてきた彼にとって、激化する暴動を撮りに海を渡るのは自然な流れだったと話す。

 混乱の発端ユーロマイダンから3年、内戦※2が続くウクライナ。被写体としてその土地を「休戦が繰り返され、宙ぶらりんなまま翻弄され続ける場所」と彼は表現した。

※1 
2013年11月から本格化した、首都キエフの独立広場を中心地とした反政府デモ。

※2  
EUとの関係強化のための協定調印を、当時の大統領ヤヌコビッチが締結直前になって見送った(EU+アメリカ、ロシア間の板挟みだった)ことから、その撤回を求めるデモとしてユーロマイダンがはじまる。その翌年に激化、ウクライナに新政権(EU+アメリカ派)が起こる。それを受けて同年、ロシアはウクライナ・クリミア半島に軍事介入を宣言、クリミアを事実上併合へ(クリミア住民投票ではロシア編入を支持)。クリミアに続き新政権のウクライナから独立しようという動きがウクライナ東部に出て、ウクライナ政府軍と衝突。2015年、平和合意に調印がなされたが、いまだ完全な停戦に入っていない。各国メディアによって情報は乖離(かいり)しており、内戦とは報じないこともある。

揺れるウクライナ東部、12日間

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“この子の名前は、マリスカ。悪いエネルギーをとっぱらってね、わたしを癒してくれるの。”
マリー、70歳。銃撃戦区から逃れてシェルターで暮らしている。

 内戦激化にあわせて2015年、再びウクライナへ。フィクサー(現地交渉人)とともに7週間を現地で費やした。翻弄される人々を撮る、そのテーマに行き着いたのはウクライナ東部(激戦区)での最後の12日間。
「最初は、前線で軍人たちを撮っていた。でも、どうしてもこれだ、と思えなかった。それで、そこから少し離れて、激戦地近くに暮らす人々を撮りはじめたんだ」

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 まずは、撮りたいすべての被写体に、写真を撮っていいかとフィクサーを通しての交渉からはじまる。そのほとんどがはじめは断固拒否。「ウクライナ、あるいはロシアのジャーナリストだと、下手なこと言うと逮捕されるかもしれないと思うから非常に警戒していた。若い人は撮れなかった。ウクライナ西部に逃げたときに受け入れてもらえなくなるかもしれない、とか、いろいろ心配しているから」。

 確かに、被写体のほとんどが高齢者だ。長年の住処を離れたがらない、もしくは老齢による身体的な問題で離れることのできない人が、前線近くのウクライナ東部に多く残ったからだという。
 若者は、いまでは「内戦を感じさせない」ほどにギャップのあるキエフなどウクライナ西部へ移住するものも多い。だが、西に逃げたからといって暮らしが安定するわけではない。西に溢れる東からの難民に基本的に仕事はないか、最低賃金以下での過酷な労働がまっている。あるいは物乞いをするか、チャリティに頼るか。政府による対策はいまだまったく整っていないという。

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“去年、このくぼみを直したばっかりなんだけど、まただよ。
物価も上がって若い人らは仕事見つけるのも大変。
俺は炭鉱で働いてたけど、リタイアした。
炭鉱がたくさんあって人もいたけど、戦争はじまったらみんな居なくなちゃったな。
この停戦がいつまで続くかわからない。長いことを願うよ。”

ヤギ小屋に隠れる男、家族を失い顔を削られた老人

 ティムが撮ったウクライナ東部は親露派、西部は親欧米というのが一般的な報道だが実際には「誰も親露派なんて公言する人はいない。あまりいないのと、いてもそう思われたくないという人ばかり」。親露派と公言することによるデメリット(たとえば、今後の西への移住を考慮して)を考える人も多いが、ほとんどは「そんなことよりも、ただ内戦に生活を壊された悲しみと、途方に暮れて怯えて、終わりを考えているだけ」。国の政治的事情などもうどうでもいいのだ、と。親露派だ、親欧米派だのと口にする人間はいなかった。


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“昔はヤギを飼っていたけど、食べるために殺してしまった。
いまはそのヤギ小屋に隠れて過ごしてる。
48時間に一回は砲撃があるんだ。
外にいたら怖いよ、いつドンパチはじまるか怯えてるんだ。
みんなそうだ。ただいつはじまるのか待ってる。
トイレに行くのだって怖い。
夜も眠れないんだ。
トラックの通る音でもしたら起きちゃって、もう全然、眠れなくなるんだ”。

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“爆弾が飛んできたとき、わたしは外にいた。
何か、とんがった破片が顔をかすめて削ってった。
すぐに病院に担ぎ込まれて、縫いもどしてもらった。
いまもチューブを通してしか食事ができなくなった。
ひと月して退院し、家に戻ったら、泥棒が入ったようですっからかんになっていた。
薬はとんでもなく高くてね。年金は、以前はもっともらえてたんだが少なくなった。
だから、食べ物は毎日、兵士に物乞いするんだ。
あの爆弾に殺されてた方がよかったかと思うこともある。
だって、こんなのは人生じゃない”。

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“この辺の店の棚には少ししか食料がない。
食品の物価がとんでもなく上がっていて、前線近くの店には配達も少なくなった。
みんな買い溜めといたものでなんとかやりくりするしかない。”

 彼らの待っている終わり、とは、内戦の終わり、なのだろうか。「We are just waiting for death(ただ死を待っている)」という言葉が忘れられないとティムは言う。

 花柄が綺麗なブルーのワンピースを着た老女、平和な国に通ずる身綺麗な彼女もそう言ったのだろうか。48時間おきの爆撃に怯える一方で、この先の仕事や着る物を案じた。そのアンバランスさは戦場そのものを写した写真にはないものだろう。

 ティムが公開したのは、内戦において完全に壊れた世界ではない。休戦が繰り返され、その度に安堵とあるいは同時に落胆さえ感じる、青虫が葉を齧っていくように少しずつ蝕まれていく人々の日々だった。
 
「食べるものがあと数ヶ月分」「仕事ももうすぐ行けなくなる」。いつまでも壊れきらないまま崩壊に近づいていくその日々は、極端な世界よりも私たちに近い分だけ、人生の一つの側面としてリアリティを帯びる。闘争の現場ではなく、その飛び火を受けた人々の暮らしを捉えたティムの写真に潜むのは、現代社会に生きる誰しもに現実味を帯びた恐さだ。

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こっちの兵士もあっちの兵士も、みんな誰かの愛する子でしょ?
泣きたくなっちゃうね。

***
Timothy Eastman
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Interview with Timothy Eastman
All photos by Timothy Eastman

Interview Portrait by Sako Hirano,
Text by Sako Hirano

Edit : HEAPS Magazine

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