第12話 いずれ必要になる時が来る。モスクが果たすもの|香川県モスク計画、団地で生きるムスリムと祈りのルポ

香川県にゼロからモスクをつくろうと計画するインドネシア人ムスリムたちの、いざこざとどんでん返しと、そして愛と驚きに満ちた日々を追う。
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広島旅行を終え、フィカルさん率いるKMIKのメンバーは労働と集金と祈りの日常へと戻った。慰安旅行の効果がでたのだろうか、一体感が高まり、これまで傍観していたインドネシア人たちも、積極的に寄付の呼びかけをおこなうようになる。

そして活動から2年越し、ついに香川県にモスクが誕生する。念願のモスクができたとき、フィカルさんは何を語り、どう喜びを表現するのだろうか。世俗的な建物が祈りの場へと変容する現場を、私は目撃する。

「香川県にモスクをつくろうとしているインドネシア人がいる」

その噂を聞いた数週間後、私は香川県のx市にいた。グループのリーダー、フィカルさんに会い、家にあがったその日から、当初の想定よりもだいぶ重く、深く、そして親密に、計画の渦中に身を置くことになった。

この連載では、フィカルさんと仲間たちがさまざまな問題にぶち当たり、それでもめげず、時に迷走しながらも、モスクのために突き進む姿を追う。資金集め、物件探し、そのどれもが外国人の彼らには大難題だ。浮き彫りになる差別や偏見。仲間との不和。

地方都市で外国人が生きることはどういうことか? 信仰とは? なぜそこまでしてモスクを建てようとしているのか?

これは、香川県にゼロからモスクをつくろうと計画するインドネシア人ムスリムたちの、いざこざとどんでん返しと、そして愛と驚きに満ちた日々を追う現在も進行中のルポルタージュだ。

フィカルさんと出会って、1年が経った。その間に、私たちはお互いの悩みを相談し合う友人になった。だからジャーナリズムというよりも、友人とその仲間たちが夢を追う様子を記録したものという表現が近いかもしれない。

私とフィカルさん、そしてインドネシア人のムスリムたちとの出会いから今日までの約16ヶ月の道のりを、そしてその日々に私が目にし耳にし立ち会ってきた彼らのさまざまをレポートしてきたこの連載も、残り3話でひとつの章のの完結へ。

第1話「出会いと、初めて足を踏み入れた日」はこちらから。

繋がりと絆を強める、場所も時間も超えたコミュニティ

 2021年11月の下旬、ふたたびコロナの感染が拡大していた。しかし、KMIKは活気づいていた。若いインドネシア人たちがバスを借りてスキーにでかけ、その際にカンパもしてくれたようだ。家賃、貯金、生活費、来日費用の返済、家族への仕送りがある中でも、友人たちで貯めたお金をわざわざ持ってきてくれる人もいた。また、プトラ君はインドネシア人介護士のオンラインコミュニテイへと呼びかけ、200万円近くの寄付を集めていた。当初は少し頼りなかったプトラ君も、自分で考え、自分で行動を起こすようになり、フィカルさんの頼れる相棒へと成長を遂げていたようだ。一方フィカルさんも、インドネシア人コミュニティやモスクのリーダーたちで構成されたグループチャットだけでなく、ほとんど会ったことのない相手にも寄付のお願いをメールで送っていた。本来「人にお願いごとをして迷惑をかけるのは嫌だ」という質なので、こんなことはしたくなかったというが、そうは言っていられない。モスクの夢を追いかける中で各々が殻を破り、人間としても大きくなっていた。


筆者が初めて足を運んだ会合。第1話

 週に一度、まとめ役のアルムが集まった金額を円グラフにし「目標まであと〇円」とSNSで発表し続けたことも、かなりの効果があったと思う。彼らの奮闘を示す円グラフが共感を呼び、全国のインドネシア人ムスリムたちの一体感が増していったのである。週に一度の発表を楽しみに待つ人も多くいたはずだ。モスクをつくるということ自体が新たな人間関係の構築の役割を果たし、モスクが誕生する前にすでにコミュニティの礎は完成しつつあった。そしてそれは、インターネットを介すことで、場所や時間の概念も超えながら。通帳に記載されている1,300回を超える入金は、なによりもの証拠だ。

 この時期、別れもあった。フィカルさんの家によく遊びに来ていた女性のジェマさんが、技能実習の期間を終えて国に戻っていった。パンデミックの最中、それでも人は移動をする。フィカルさんはこれまで何人の友人を送り出していったのかわからないが、別れのたびに涙を我慢できないのだという。

 出発の前日、ジェマさんがフィカル家にきてインドネシアの唐揚げをつくってくれることになった。インドネシア到着後はしばらくホテルで隔離されるのだが、その宿泊代が高いとなげいていたジェマさんに、フィカルさんは「餞別」を渡した。夜になり、フィカルさんがジェマさんを家まで送ってあげるとき「フィカルさん泣かないの?」と聞くと「夜やから、泣いても見えないから大丈夫ね」と、演歌の歌詞みたいなことをいう。肌寒い夜、星空の下で、彼は今日も昭和的な世界に生きている。

コーランの読み方は、ひとつではない

 12月になるとフィカルさんは新たな一手にでた。ムスリムに改宗してイマーム(イスラム教の導師、または指導者)となった千葉イスラーム文化センターの杉本先生と、その奥さんのインドネシア人女性を、香川県に招聘するという。
 KMIKでは、月に一度のインドネシア人の集まりの日に、さまざまなイマームをよんで話をしてもらう。今回はせっかく日本人のイマームがくるということで、高松市内の本屋さんでイスラム教についてのお話会を日本人に向けても開いてもらうことになった。先生も奥さんも驚くほどやわらかで、ざっくばらんな人柄。15人ほどの非ムスリムの参加があり、基本的なコーランの内容を話してくれた後もたくさんの質問や意見が飛び交う、意義のあるお話会になった。特に「夫婦喧嘩をした際に、コーランの教えを読んで妥協点を探す」という話は盛り上がった。

 会の最後、先生の奥さんがコーランの一節を歌ってくれた。アラビア語のあまりに美しい響きに息をのんだが、その後の言葉にさらに痺れてしまった。彼女は流ちょうな英語でこういったのである。

「コーランのメロディーは人によって読み方が違います。また、コーランに書かれている内容の解釈も人によって違う部分があるのです」

 コーランはムスリムにとって絶対的な真理だが、その内容は詩的でもあり、解釈の余白が存在する。ゆえに文脈を理解せず、意図的に一部の言葉をとりあげれば、その意味合いは変わる。なぜ「平和の宗教」であるイスラム教の教義がテロにも繋がることがあるのかという、私たちがイスラムを理解するうえで最も重要なことを、粋な方法で教えてくれたのだ。

 お話会が終わった後も、そんな先生と奥さんの人柄に惹かれ、参加者はなかなか帰らなかった。ある女性は奥さんと手を繋ぎながらゆっくり話をし、抱きしめあうことで、お互いを支えあっていた。みんな不安なのだ。先行きの見えないパンデミックの時代に、よりどころが多様にあること、その豊かさ。私自身、フィカルさんたちムスリムの精神性に触れることで不安が取り除かれたが、似たことがここでも起きている。フィカルさんも日本人とSNSを交換したりご満悦のようだ。

 翌日は、インドネシア人の集まりで先生が話をした。先生はインドネシア人に人気だとは聞いていたが、話が終わった後は、一緒に写真を撮影したいと、次々とお願いされていた。
 私などの日本人は外国人が禅や茶道を語ると、疑いの目を向けてしまうが、イスラム教に国籍は関係ないのだなと感心する。民族や国籍などの些細なバックグラウンドよりも、現在その人が何をしているかが、大切なのだ。

 先生は香川を離れたあと、すぐに多額の寄付をしてくれただけでなく、全国のインドネシア人ムスリムへ寄付を呼びかてくれた。そのおかげで、全国からの寄付もまた増えはじめ、12月下旬、2,500万円に達した。

家族に戒律を守ってほしい理由

 もうすぐだ。モスク建立が、もうすぐ結実する。誰もが無理だと思っていたその夢が、現実になろうとしている。喜びと同時に、心の奥底に鍵をかけて隠していた感情が、時折顔を出すことがあった。
 
 過激派ムスリムは、全ムスリム人口のごく一部に過ぎないが、もしも日本で、あるいは外国で日本人が巻き込まれるテロが起きてしまったら。そうなれば、またモスクとテロが紐づけされて、危険視される可能性がある。

 フィカルさんたちがつくるモスクがテロと関係するとは、もちろん思っていないし、テロと市井のムスリムを結びつけること自体が暴論だ。しかし、無自覚に浴び続けた情報の蓄積とは、恐ろしいものだ。9.11以降、社会に植えつけられた疑心の種は私の中にも存在していることを実感し、芽吹かせないための調教を繰り返した。

 処方箋は、彼らのことをもっと深く知ることだ。浮かんだ疑問をフィカルさんにぶつけ、対話することを続けたが、文化、環境、宗教が築いた「違い」の壁のすべてをのり超えるのは難しい。しかし、理解はできないことでも、受け入れることはできる。たとえば、「なぜ家族にも戒律を守ってもらいたいのか」を、フィカルさんに聞いた時のことだ。

 日本に住むイスラム教徒の多くは、日本人を配偶者にもち、子どもが日本人であっても、戒律を守ってもらえるよう努力する。その点について異論はないが、そのかたくなな姿勢が、押しつけのようにもみえることもあった(ちなみにフィカルさんが私に信仰を押しつけたことは、一度もない)。フィカルさんの奥さんはいまでこそ酒や豚肉の摂取を止め、毎日の礼拝も欠かさない日々を苦労なく送っているが、結婚当初は苦労したという。子どもたちは日本人として学校へ通い、やがて日本の企業に就職する。個人的には、イスラム教徒の戒律をどこまで守るかの選択の自由はあたえてあげるべきだと思う。特に現在の日本社会でヒジャブをかぶり生きていくということは、相当な覚悟が必要だ。

フィカルさんと家族。自宅にて。第3話。

「イスラム教は、神と個人の関係性が重要視されるんでしょ? だとすれば、家族が必ずしも戒律を守る必要はないのではないか?」と、フィカルさんに聞いてみる。
「それじゃあうまくいかないよ。それで離婚した夫婦をたくさん知ってる。私も奥さんが守ってくれなければ、別れるつもりだったよ」
 想像以上に強い言葉が返ってきて、私は拒絶反応を起こした。私は、この手の思想や信仰の押しつけを極端に嫌う傾向がある。
「インドネシアでならまだしも、ここは日本でしょう。せめて子どもたちは自由にさせてあげるべきじゃない?」
「戒律を守ってたら、いい人間になるよ。嘘もつかないし、人にやさしくできるようになる。それが一番大切ね。それと天国にいくためよ」

 天国。このワードが彼の口から発されることは多く、そのたびに私を混乱させる。そんなに天国に行きたいのか。そう言いかけたとき、彼はその理由を説明してくれた。

「あのな、人間が生きる期間は、せいぜい80年くらいやろ? すごく短い。でも来世に天国にいけたら、永遠に暮らせる。私が戒律を守ってほしい理由はな、家族みんなとまた同じ場所で幸せに過ごすため。天国に行けば、私のお父さんやお母さんもいる。孫を見せたいんや。日本人は、笑うかもしれんけどな。子どもたちが大人になったら戒律を守ってくれないかもしれないのは、わかっとるよ」

 私は天国の存在は信じていないが、存在しないとももちろんいえない。家族にも戒律を守ってほしいと願う理由には多面性があり、ただ親のエゴで信仰を押しつけているわけではない。その背後には、彼らがたどってきた歴史がある。人生をよく生き、よい死を迎えるために。

 フィカルさんは死の間際にさえ、その後の世界に希望を抱き、充足の表情を浮かべるのだろう。一方、私は自分の死を恐怖心でしか受け入れられる自信がない。死は遅かれ早かれ必ずやってくるし、知人の死を何度経験しても悲しみに慣れることはできない。考えてみれば、現世において感じる恐怖は、そのほとんどが死への畏れに起因するものだろう。だからこそ、人間は死を遠ざけるための科学技術を発展させてきたといえるが、死とどう向き合えばいいのかという普遍的な苦しみを、科学は救ってくれない。彼らは死への恐怖心を克服するためにも戒律を守り、祈る。

 賛否はあるだろうが、この理由には一つの考えとして納得ができたし、うらやましくも思った。そして対話の重要性を、私は強く実感した。こういったやりとりを繰り返していくうちに、深層心理に刻み込まれた思い込みは薄れていく。

 フィカルさんは続ける。

「実は私も若いころは、そんなに戒律守ってない時期もあったね。その時は、不安がいっぱい。ビジネスで友人が成功してるのをみて、私はなにしとるんやろうって。でも子どもが生まれてから、ちゃんと戒律守って生きようと、努力しはじめた。するとお祈りしているときに、こう思った。みんなそれぞれ役割がある。それは神様があたえてくれるもの。焦る必要ないし、周りと自分を比べるのが無意味に思えてきたんや」

 いま若い世代のムスリムは信仰への揺らぎが生じていて、「近代的価値観」と「イスラム教」の間で葛藤を抱いている人が増えている。そのふたつの価値観のすり合わせの先に「自由」の地平が広がっていると彼らは信じているのだろうが、脈々と伝わってきた伝統を切り捨てることの危険性を、私たち日本人は身をもって知っている。その結果誕生した経済至上主義と個人主義を前提に構築された社会は、人を極端に現世に執着させ、死への恐怖を分厚くする。彼らは自分の子どもたちが、ルーツから切り離されると起こることを本能で感じているのかもしれない。
モスクがあれば、コーランやハディース、習慣、人の交流を介して先人たちの知識や知恵が蓄積されていくだろう。移民の2世や3世が、神だけではなく、先祖たちと繋がれる空間を必要とするときは、必ず来るはずだ。


初めて目にした、祈り。フィカルさん自宅にて。第1話

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