第3話 「日本で初めての職場、弁当、同僚、ホームシック」フィカルさんの半生【前編】|モスク建立計画、地方都市の団地で生きるムスリムと祈りのルポ

香川県にゼロからモスクをつくろうと計画するインドネシア人ムスリムたちの、いざこざとどんでん返しと、そして愛と驚きに満ちた日々を追う。
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今回は、モスク建立グループのリーダー、フィカルさんの半生について、書こうと思う。

「フィカルさんは人間臭くて、まっすぐで、ええ人です」と、インドネシア人も日本人も、口をそろえる。私もそう思う。

なんというか、私たちが憧憬の念を抱く人情映画「3丁目の夕日」臭がプンプンするのだ。この男は、一体どんな半生を歩んできたのだろう。そして、なぜ日本で家族を持つことになったのだろうか。

彼らのコミュニティの存在を知って通うようになった当初、私はまだフィカルさんと二人で話をしたことがなく、彼の家族にも会ったことがなかった。

もっと彼について知りたいと思っていた頃、「うちに来ませんか? カレーをご馳走します」と誘ってくれた。

その日私は、彼の波乱万丈な半生を聞くことになったが、カレーを吹き出しそうになるほどの驚きの連続だった。そして彼の経験を通して、可視化されづらい地方で暮らす移民のリアリティーと、地方都市の情の深さをも知るのだった。

「香川県にモスクをつくろうとしているインドネシア人がいる」

その噂を聞いた数週間後、私は香川県のx市にいた。グループのリーダー、フィカルさんに会い、家にあがったその日から、当初の想定よりもだいぶ重く、深く、そして親密に、計画の渦中に身を置くことになった。

この連載では、フィカルさんと仲間たちがさまざまな問題にぶち当たり、それでもめげず、時に迷走しながらも、モスクのために突き進む姿を追う。資金集め、物件探し、そのどれもが外国人の彼らには大難題だ。浮き彫りになる差別や偏見。仲間との不和。

地方都市で外国人が生きることはどういうことか? 信仰とは? なぜそこまでしてモスクを建てようとしているのか?

これは、香川県にゼロからモスクをつくろうと計画するインドネシア人ムスリムたちの、いざこざとどんでん返しと、そして愛と驚きに満ちた日々を追う現在も進行中のルポルタージュだ。

フィカルさんと出会って、1年が経った。その間に、私たちはお互いの悩みを相談し合う友人になった。だからジャーナリズムというよりも、友人とその仲間たちが夢を追う様子を記録したものという表現が近いかもしれない。

まずは数回にわたり、私とフィカルさん、そしてインドネシア人のムスリムたちとの出会いから今日までの約16ヶ月の道のりを、そしてその日々に私が目にし耳にし、立ち会ってきた彼らのさまざまをレポートしてゆく。

第1話「出会いと、初めて足を踏み入れた日」はこちらから。

 その日は、ラマダン明けの小春日和だった。かつてはネオンが輝いたシャッター街を横目に進んだ先の住宅団地に、フィカル家はある。「よう来てくれました! ささ、どうぞ」と、ご機嫌に迎えてくれるフィカルさんが通してくれたキッチンは、真ん中にテーブルと椅子があり、シンクの横に洗った皿が整然と並べられていた。

「ちょっと待っとってな。ご飯用意するけん。そこで、座っててくださいね」

 フィカルさんは電子ジャーの炊きたての白米をしゃもじでかき回し、慣れた手つきで皿に継ぎ、渡してくれた。

「岡内さん、このカレー好きやろ? ご馳走しようと思って、二日前から煮込んでたんや」

 ムスリム社会では男性は料理をしないと勝手に思い込んでいた私は「フィカルさんが?」と思わず聞いてしまった。

「そう、私がよ」

 ふと床に目をやると、大量のレッドブルが並んでいる。

「仕事が終わって、その後で集金に行くでしょ? あんまり寝られてないから、これ飲んで頑張ってる。でも以前は夜中の0時まで働いてたから慣れてるね。やないと、家族養えんかったからね」

 私もかつて、ニュージーランドで移民と呼ばれていたことがある(移民の定義は1年以上自国でない国で暮らすこと)。独り身で自由気ままな日々を送っていただけの私と比べるのはおこがましいが、異国で暮らすことの大変さを少しは理解しているつもりだ。おまけにフィカルさんは3人の娘を養い、マイホームも購入している。きっと筆舌尽くしがたい苦労があるのだろう。


青春の終わり。母国での起業資金を貯めるため、日本へ

 フィカルさんは9人兄弟の5男として、インドネシアの西スマトラ島の郊外の街で生まれた。子どもの頃は、山や川や田畑を駆け回り、自転車のタイヤを棒で転がしたり、サッカーをして遊んだそうだ。

「どんな状況でも生きていけるように準備をしておく」という父の教育方針から、放課後は車の部品を販売する父の仕事を手伝った。中学生になると、友達と街の交差点に座り込んでたわいもない話をしたり、歌を歌ったり、ゲームや麻雀で遊んだ。金曜日のモスクでのお祈りを除いては、本質的には日本の若者と大きくは変わらない青春時代だったのだろう。

 高校卒業後、父に日本で働くことを勧められ、技能実習生を育て派遣する学校へ通いはじめた。当時は3年の期間を終えると帰国する制度だったが、その間に120万円は貯められる。母国で1000万円ほどの価値を持つ大金を持ち帰り、起業する目算だった。
 日本行きが正式に決まったのは、22歳の時。受け入れ先は香川県の鶏肉ブロイラー加工会社だった。不安もあったが、日用品と缶詰を少し、そして家族の写真をバッグに詰めこんで日本行きの飛行機に乗った。

「たのしみだったよ。日本は素晴らしい国やって聞いてたからね。小さい頃ね、『おしん』をテレビで見てたから、ああいう人たちが住んでるんかなあ? って。でも飛行機の中で家族のこと思い出したら、ボロボロ涙がでたね。私、泣き虫やったから」

初めての職場、畳、弁当、同僚、ホームシック

 
 西暦は2005年(平成17年)だった。日本は愛知万博の開催でわき、郵政民営化法の成立で新自由主義による自己責任社会がさらに促進された年。現在10万人を超える国内のムスリム人口だが、当時は約5万人。フィカルさんが働くことになったx市には同様で、インドネシア人はいないと聞いていた。

 関西国際空港に到着し、管理団体組合の車で受け入れ先の鶏肉ブロイラー加工会社へ向かった。

「到着して車から降りたら、おばさんがホースで水撃ちしてたんや。ニコニコしてこっちを向いてくれて。いまでもあの顔は覚えてる。あ、これは『おしん』で見た日本人のおばちゃんやってうれしかったよ。それが社長の奥さんやった」

 社長にも挨拶をし、当面暮らすことになるアパートの一室へ案内された。夫婦にとっても、初めての外国人労働者の受け入れだった。

「畳の匂いを初めて嗅いで感動したよ。最初は3人で一部屋に住んでた。私は押入れの中で寝ていたよ。ドラえもんみたいね。でも寝心地がよかったわ。そこには2ヶ月くらいいて、すぐに、立派な家を用意してくれたよ」

 次の日から早速仕事だった。業務時間は朝6時から15時まで。時給は625円。月給は12万円。仕事の内容は、鶏肉を捌くこと。ムスリムには命を扱う前に行う儀礼がある。その日の作業を開始する前に、ほかのインドネシア人と一緒に「みんなのために命をください」とアラブ語で祈るのである。その後、鶏をまな板に乗せ、まず肩を外して、もも肉やささみ部分を切り落としていく。

「難しいし作業やった。遅かったら社長と奥さんが『はよせー!』って怒るんや。日本人の若い子もバイトしてたけど、すぐ辞めるのに驚いたわ」

 もともと器用なフィカルさんはすぐに仕事を覚えたが、ホームシックにかかり、毎日のように涙を流した。若くして異文化の中に、放り込まれたのだから無理もない。驚いたのはそれを見た奥さんだった。「なんで泣いてるん?」と声をかけてくれた。

「すぐにでもインドネシアに帰りたい。お母さんに会いたいと、目に涙をためて正直に伝えたね。泣いてるん見られて恥ずかしかったし、叱られるかなあと思ってたけど」

 だが、思いもよらぬ言葉が返ってきた。「ここで働いているうちは、私のことをお母さんやと思いなさい」とフィカルさんを抱きしめ、腕にキスをしてくれたのである。暖かい体温に包まれたその時、仕事中に飛び交う言葉の裏にある愛情を理解したのだった。

「ほんま、感動的な瞬間やったね。あの優しさのおかげで、元気を取り戻したね」

 同僚の中国人女性も、フィカルさんを応援してくれた。彼女はフィカルさんの10歳年上で、来日後に日本人と結婚したが離婚していた。子どもを引き取り、駅前のショッピングモールの野菜売り場との2束のわらじで育てていた。
彼女は「あなたは男、私は女。私は一人で日本に来て、もう12年。だから頑張りなさい」とフィカルさんを激励した。

「何かと気にかけてくれたなあ。職場で余った野菜をくれることもあったよ。私、男友だちとはすぐ仲良くなれるけど、女性には照れてしまう恥ずかしがり屋さんやから、ニコニコしてただけやけど。おかげでホームシックがどっかに行ってしまったね」

 こういった移民同士のささやかな助け合いは、いまでも私たち日本人からは見えないところで起きているのだろう。


フィカルさんのお父さんと、お母さん。
お父さんはフィカルさんが日本に来る少し前に亡くなった。
お墓に毎日通って祈りを捧げたほど、尊敬していたそうだ。

豪華なセットの写真館で、フィカル一家が勢ぞろい。
右端が若き日のフィカルさん。

もらった恩は、必ず返す。仕事に明け暮れる毎日

 それからも社長と奥さんは、フィカルさんたち技能実習生を家族のように可愛がってくれた。滞日ムスリムは、いまでもどの料理に豚やアルコールが入っているかがわからないと悩む人が多い。当時のフィカルさんも、家でつくった卵焼きと白いご飯をパッキングして職場で食べていた。それを見た奥さんが、「ありゃ、かわいそうやな。これやったら大丈夫やろ」と、鳥や魚の弁当を毎日用意してくれるようになった。

「朝ごはん用のパンも用意してくれてたわ。あ! あと、ぜんざいをつくってくれたこともあるよ。うまかったなあ! 冬になると、毛布や電子レンジを寮まで持ってきてくれたのにも、すごい感謝しとるわ」と当時を思い出し、幸福そうな表情を浮かべた。

「そこまでしてくれたら、なんとかお礼がしたいやんか。昼休み中も作業をするようになったんや。奥さんがそれを見て『何してるん? 休みなさい!』って言ってくれたんやけど、それでも続けてたら、お小遣いくれたん。断ったけど。あのな、お金の問題じゃないんや。その気持ちが嬉しかったんや」

 こうしてフィカルさんは日本人に、強い感謝を覚えていったという。

「日本人は本当に優しい。これ本当よ。社長と奥さんには、いまも感謝しているね。ほんまにええ人たち。私、運がいいね。神様にお祈りしとるけん」と、ここでいつものフィカル節が炸裂した。

「やから、日本人になんでもええから恩返ししたいし、もっと仲良くなりたい。前も言ったけど、モスクができたら、遊びに来てもらうのが夢ね。ムスリムが日本人から怖いと思われとるんも知っとるよ。だから、私たちの本当の姿を見て欲しいね」

後編に続く。(▶︎ 「甘い恋、家族をつくる、日本の歌 」


連載に毎回登場する、フィカル家の猫、バロン。
じつはもう2匹いるが、シャイなので姿を現さない。

Photos by Shintaro Miyawaki
Text by Daizo Okauchi
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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