第3話 「甘い恋、家族をつくる、日本の歌 」フィカルさんの半生【後編】|モスク建立計画、地方都市の団地で生きるムスリムと祈りのルポ

香川県にゼロからモスクをつくろうと計画するインドネシア人ムスリムたちの、いざこざとどんでん返しと、そして愛と驚きに満ちた日々を追う。
Share
Tweet
「香川県にモスクをつくろうとしているインドネシア人がいる」

その噂を聞いた数週間後、私は香川県のx市にいた。グループのリーダーと会い、家にあがったその日から、当初の想定よりもだいぶ重く、深く、そして親密に、計画の渦中に身を置くことになった。これは、香川県にゼロからモスクをつくろうと計画するインドネシア人ムスリムたちの、いざこざとどんでん返しと、そして愛と驚きに満ちた日々を追う現在も進行中のルポルタージュだ。

第3話は、モスクを建てようと計画するムスリムのリーダー、フィカルさんの半生。前編はこちらから。

「駅前の広場で酒盛りをするおじいさんたちとの出会い」

 異国で暮らす孤独感は、しかし、簡単に消えるものではない。当時はインターネットも未発達で、同郷の友人もできなかった。日本人と仲良くなりたかったが、街にいる同年代の若者に声をかける勇気はなかった。

 唯一のたのしみは、水曜日の夜。駅前の公衆電話から家族にかける国際電話だった。商店で購入する2000円のテレホンカードで、40分の通話ができる。10分で電話を切るつもりで受話器をとるが、いつのまにか40分が過ぎ、電話が切れる。

 時間を潰すために、自転車で街をさまようこともあった。

「ゴミ捨て場で、テレビやウォークマンを拾って使ってたね。使えるものでも捨てる日本人に驚いたよ。最初ゴミ捨て場やって、気づかんかったもん。でも、私も日本に慣れて、今は簡単に物を捨てるようになったね。よくないと思っとるけど。海に行くこともあったなあ。そこから見えるのは本州だけど、インドネシアのように思えて、ますます寂しくなったわ」


 毎日のマラソンも日課になった。30分ほど走った後に向かうのは、駅前の広場。ベンチに腰を下ろし、街を観察した。いまは人口減少が進む地域だが、当時はまだ活気があったのだという。ベンチから見える駅前や広場には人の群があり、ダンスを練習する高校生や、買い物をする親子、帰宅するサラリーマンの姿があった。

「そんな景色を見ながら、早くインドネシアに帰りたいなあって考えてた。でもビジネスの資金と、それからお母さんにメッカに行ってもらう旅費を貯めたい。どうせ3年やから頑張ろうって、自分を奮い立たせていたんや」

 そうだ。フィカルさんは本来なら2008年に母国へ戻っているはず。しかし、いまも香川県にいる。なぜ、どんなことがあって今日に至るのだろうか?

 フィカルさんは当時のことを懐かしそうに話し続ける。

「その駅前の広場で、毎日おじいさんたちが集まって、昼間っから酒盛りしてたんや。それを眺めてたら、なんかいってくるんや」

 酔っ払っているおじいさんの方言は、日本人でも聞き取りにくい。何を言っているのかわからず、差別的な言葉をかけられているのかとも思った。恐る恐る近づくと「お前、どこからきたんや?」と聞かれた。

「インドネシアやって答えたら、こっちきて一緒に話すか?って 言うてくれた。おじいさんたち、めっちゃ酔っ払ってたね。いろいろ話をしたんやけど、私のことを気にいってくれたんか、別れ際に『明日も来い!』いうてくれて。それから毎日、そこでおじさんたちと話しよった。いい人たちやったよ。讃岐弁も、そこで上達したわ」

 特に仲がよかったのは、亀さん、さかちゃん、まっちゃん、のんちゃん。「この辺のことは詳しいけん」と自転車で一緒にうろうろして案内してくれたり、讃岐名物骨付鳥のレストランにも連れていってくれた。いまはそのうちの3人が亡くなってしまったと、フィカルさんは悲しそうな表情をする。おそらく、そのおじいさんたちにとっても、フィカルさんとの交流は心の支えになっていただろう。存命の、のんちゃんとは現在もたまに連絡をとり合っている。

「そして迎える、運命の時」

 その広場では、たくさんの出会いがあった。フィリピン人、中国人、ベトナム人、出稼ぎの外国人たち。そしてある日、運命を大きく変える人物とも出会うことになる。

「ぼんやり座っていると、60歳くらいのおばさんが話しかけてきたんや。私が外国人で、広場で一人でいたから心配してくれて」

 おばさんは、フィカルさんと会うたびに声をかけてくれた。やがて一緒に食事や、カラオケに行く関係になった。すべて、おばさんの奢りだった。

「家の庭の草刈りを頼まれたこともあったなあ。15分で終わったんやけど、1万円くれたんや。そんなに稼げてなかった私を心配して、お金あげたかっただけ。断ったら怒るから、受け取ったふりして、こっそりストーブの下に1万円を置いて帰った。でもその後、おばさんから電話があって、なんで受け取らんの? いうて。ほんまにええ人」

 おばさんはフィカルさんと同僚のインドネシア人も誘ってくれるようになり、ご飯やカラオケに行くようになった。彼女は彼らに服を買い、携帯電話を契約する際の名義も貸した。技能実習生は1年以上日本に居住しないと、自分の名義で携帯電話を借りられないのだ。

 その時、おばさんが親代わりになって育てたという女性が、よく車で迎えに来ていた。フィカルさんと同じくらいの年齢だった。シャイなフィカルさんは、緊張してしまい、多くをしゃべることはなかった。彼女もまたシャイだったが、たまにメールでやりとりをするようになった。

「で、そうこうしているうちに試験があって」

 当時は一年に一度、日本での就労を継続するための試験があった。その試験に受からなければ、3年を待たずに帰国を余儀なくされる。それをおばさんに言うと「もし受からんかったらさみしいなあ。そもそも3年で帰らないかんのやろ? どうやったら、日本におれるん?」と聞かれた。フィカルさんは「誰かの養子になるか、日本人と結婚するか」と答えた。

 何気ない会話だったが、その3日後におばさんと広場で会うと、驚くことを提案された。

「うちの娘と結婚せんかな?」

「びっくりしたね。えーっ! てなったよ。いきなりすぎるよ。そもそも、2人で遊んだことなかったし、喋ったのも少なかった。ドッキリかと思ったよ」

 フィカルさんは、ムスリムと結婚するということがどういうことか、説明をした。イスラム教に改宗して欲しい。お酒も飲めないし、豚も食べられないし、毎日お祈りもして欲しい。日本社会でこれらを守るのは難しいことを、フィカルさんは知っていた。

「それに毎日鶏のフンまみれだったし、インドネシア人ね。日本人と結婚するのが許されるんかなって、恥ずかしくなってしまって。彼女にちゃんと聞いてみてくださいっていうたね」

「フィカルさんの、甘い恋」

 
 1週間後に会ったおばさんからの話に、さらに驚いた。

「うちの子も結婚したいって言うてるから、とりあえず一緒に遊んでみたら?」というのだ。

 どうやら彼女も本気だった。それから二人で出かけるようになったが、二人きりになると緊張してしまい、話しかけるのも恥ずかしかった。うまく日本語が喋れているかも気になった。だが、瀬戸大橋を見に行ったり、近所を散歩したり、プリクラを撮ったりしているうちに、二人の距離は、ゆっくりと縮まっていった。(とはいっても、結婚までは手も繋いでいない)。

 その期間も、おばさんの家で草抜きを頼まれることがあった。今度は謝礼を受け取り、彼女へのプレゼントを買った。駅前の店で1枚4000円の服を2枚。彼女が好きなマルボロのカートンを2箱。

「他にもプレゼントしたことあるけど、私がお金ないの知ってるから、いらんいうんや。私も日本人が好きなものがわからんけん、それからはマクドナルドでセットを買って持って行ってあげてたなあ」

 お返しに彼女も、目薬や財布、服、靴をプレゼントしてくれた。高価なものではなかったが、フィカルさんはその気持ちがうれしかった。

「徐々に仲良くなってお互い大好きになって、自然な流れで結婚することになったね。インドネシア人にはプロポーズの習慣がないんです。つき合ったら、結婚するのが普通やから」

 そして3年後。技能実習の期間が終わり、インドネシアで結婚式をあげた。

「入れ替わり立ち替わり1000人くらい友だちや近所の人がきたなあ。親族もよっけきたわ。みんな仲が良いし、よく集まるよ。絆が強いけん。たまに里帰りしとるんやけど、その度に奥さんが泣くんよ。日本では珍しいほど、家族が暖かいんやって」
インドネシア人男性が日本人女性と結婚する例は極めて稀らしく、メディアからの取材依頼があったらしい。

「ああ、この話しよったら昔の甘い気持ちを思い出してきたわ。もっと嫁さんを大切にせないかんなってなるな。人間は忘れる生き物やわ。でも、私はラッキーやといつも思ってるよ。本当にいい奥さんもらったね。神様に感謝せないかん」


フィカルさん、フィカルさんの奥さん。
結婚生活は10年を迎えた。いまも仲良し。

 その後、フィカルさんは、日本の役所に結婚届けを出し、永住権を取得。この時期、お世話になった鶏の会社以外に、二つのバイトを掛け持ちし、身を粉にして働いた。朝4時半に起きて、職場に行き、お祈りをする。昼になったら、他のバイト先へ。18時まで働き、お祈りをして、慌ててご飯食べる。それから運送会社の仕分けのバイト。19時から0時まで働き、帰宅して深夜1時半に就寝する。そんな日々の中、待望の長女が誕生した。

「子どもが生まれた時は言葉にならないくらいうれしかったよ。世界で一番幸せ。子どものためなら、全然辛くなかったわ。ムスリムは子供が生まれたらヤギを料理して、近所のお金に困ってる人に振る舞うんや。現地のお母さんにお金振り込んでやってもらった。イスラム教のことをもっと真面目にせないかんとも思って、生活も変えた。

「モスクが欲しい理由の一つは、子どものためでもあるんや。イスラム教を学ぶ場でもあるから。私だけじゃなくて、子どもがおるムスリムはみんなそう思ってるんやないかな」

 やがて次女と三女が誕生し、家族のために給料面で発展性のある溶接工に転職する決意した。

「鶏会社の社長たちに申し訳ない気持ちでいっぱいやったわ。社長には直接言えなくて悩んで、3日間眠れんかったよ。私が日本に来れたのも、結婚できたのも、社長と奥さんのおかげやし、息子みたいに扱ってくれてたんや。本当ならずっと働いて、恩返しせないかんから。でも子どもたちのためやから」

 溶接の仕事はインドネシア人が紹介してくれた。当時は造船の企業と繋がることさえ困難だったという。溶接の経験がなかったので、当初の時給は900円。早く技術を覚えるために社長にお願いし、無給で残業した。2ヶ月半で簡単な溶接ができるようになり、ヘッドハンティングされた。お世話になった会社を離れることに抵抗があったが「家族を楽させるために」と会社を移った。時給は1000円、1250円、1750円と、徐々に上がっていった。

「溶接は好きな仕事やで。海に私が関わった船があると、誇らしい気分になるね」

「でもラマダンの時は大変。めっちゃ暑いけど、水も飲めんからね。あと最初は職場でお祈りできんかった。恥ずかしかったし、社長に見られたら辞めさせられるかもとか、心配やった。いまは隅っこに、スペースをつくってやってるね」

 修行期間に技術を親身に教えてくれたのは、当時65歳の男性だったというから、フィカルさんは年上に可愛がられる星の元にあるのかもしれない。「師匠のおかげよ」と、フィカルさんは、感謝を忘れていない。

 この頃からインドネシア人や移民の友人に、相談を受けることが増えた。親身になりすぎて、騙されて大金を失うこともあったが「人に優しくしよったら、いつか神様が返してくれるけん。ショックやったけどね。いま私、お金持ちじゃないけど、子どもも奥さんも健康ね。それがあったからからやと思っとるよ」とどこまでもポジティブなのだ。



 私はいつのまにかカレーを食べることも忘れ、聞き入っていた。すごい人生だ。フィカルさんは半ば信じられないほどの幸運の連続の末、香川県に根を張ったのだ。いや、これは幸運ではなく、彼の人間臭さと、人情味溢れる性格が引き寄せた運命だ。おじいさんたちも、おばさんも、奥さんも、師匠も、かつて日本にあったものをフィカルさんから感じ、あるいは思い出し、惹かれていったのだろう。義理と人情。フィカルさんの人生からは、昭和歌謡や演歌が爆音で聞こえてくる。

「やっぱりイメージしていたモスクを建てる人とは違うな」という感想が頭をよぎった。この感想は、ムスリムという枠の中にフィカルさん放り込み、その前提で、彼と対話をしていた不遜の証明でもある。私が移民だった頃、「日本人」という枠にカテゴライズされ、そのイメージを押し付けられることを嫌っていたが、無意識に同じことをしていたのだと気づく。当然だが、枠の中は単色ではなく、グラデーションがある。

「家族との祈りのあとに、トンボを熱唱」

 フィカルさんが「写真を撮りませんか?」という。スマホを持った手を伸ばし、こちらにレンズを向けシャッターを切った。

「ありがとうございます。うちに日本人の友だちが来るの、初めてね。だから記念に写真。本当に来てくれてうれしいね」

 ディスプレイに映る私もフィカルさんもいい笑顔だ。

 そうこうしていると、部屋の外から「パパー。はやくきてー」と女の子の声が聞こえてきた。フィカルさんは、「あ! お祈りせな。子どもが呼んどるわ」と手や足を水で清め、準備をはじめた。

 お祈りを見たいというと「もちろん」と許可をくれたので、私も一緒に畳の部屋に向かった。そこでは小学生の可愛い女の子2人と奥さんが、すっぽりと白いヒジャブを被り、待っていた。奥さんに「初めまして」と挨拶をする。ヒジャブの奥に見える目が、恥ずかしそうに笑った。

 フィカルさんはその列に加わり、手のひらを上に向け、「アッラーアクバル」と祈りの言葉を唱える。

 フィカルさんの声は、いつもの高い音域ではなかった。威厳ある父の声になる。何度か礼拝をした後、奥さんがフィカルさんと子供達の手を順番に取り、キスをした。「もし何かあっても許し合おう」という無言の寛容。天使がそこに宿ったように見えた。毎日行われる、家族の共同作業だ。同じ言葉をつぶやき、同じ存在へ礼拝する。そうやって、絆は深まっていくのだろう。


 その後、フィカルさんが駅まで送ってくれることになった。車中で突然、「カラオケ好きですか?」と聞いてきた。私は音痴なので、下手でも歌える反町隆史の『poison(ポイズン)』しか歌わない。それを伝えると「ああ、あれね!」というので、反町の影響力に驚かされた。

「私、日本の歌が好きね。まずは福山雅治の曲で、ミルクティーってやつ。奥さんとの出会いを思い出すね。広場でみんなで話している時、私にだけミルクティー買って来てくれたから」とその歌を歌いはじめた。

 うまいねえ! と褒めると満足げな表情になる。

「あと、長渕ね」
「戻りたいけど、戻れないー!」と突然歌いはじめた。熱唱である。
「これ、日本に来てさみしかった時期の私の気持ち。カラオケでよく歌ってた。歌詞に共感するんや。長渕さんの曲は、全部好きよ。トンボも、シャボン玉も、乾杯も。松山千春も最高やし、演歌も大好きよ」

 長渕剛や松山千春や演歌が醸し出す日本的なブルース世界は、国境や宗教を超えるのか。そんなことを考えていると、フィカルさんが新たな曲を歌いはじめた。

「幸せのトンボがー!」 

 私も思わず一緒に歌った。車内に長渕の熱っぽい歌詞が響いた。私たちは共に祈ることはできないが、共に歌える歌がある。それで充分じゃないか。ここから私とフィカルさんの関係は徐々に変わったいく。そして、私はフィカルという男のおかげで、ますます瞑想にふけるように自己の欠落と対峙していくことになる。

Photos by Shintaro Miyawaki
Text by Daizo Okauchi
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

Share
Tweet
default
 
 
 
 
 

Latest

All articles loaded
No more articles to load