第1章「二人のブルース小僧、19歳の名作家コンビへ。のち、ブリルビル入りまで」—夢のヒットソング工場。伝説の作曲家が回想するビルの内側

【連載】ロックが死に、“ポップ”が息を吹き返した。1950年代の終わりかけ。ティーンを踊らせ、歌わせたアメリカンポップスを“大量生産”した〈灰色ビル〉のはなし、第1章。
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ロックが死んだ時代があった。
エルヴィス・プレスリー徴兵、バディ・ホリー飛行機事故、チャック・ベリー逮捕。
1950年代終わりかけの話。

ロックが息絶えたかわりに息を吹き返したのが〈ポップス〉だった。
ロックンロールのテイストがかった、大衆の、ティーンのポップスが。
『スタンド・バイ・ミー』『ロコモーション』『ラストダンスは私に』
名曲は「ある1棟のビル」とそのまわりで紡がれていた。

ブロードウェイ通り49丁目。ブリルビルディング。

100以上の音楽出版社が詰まった11階建ての灰色のビル。
白人男性作詞家に女性作曲家、黒人シンガーにガールズグループ。
人種も性別も入り混じる。
“職業作曲家”たちは朝から晩まで缶詰めになり、
来る日も来る日も楽譜に筆を走らせた。

ブロードウェイ通り49丁目。ブリルビルディング。
そこは、「夢のヒットソング工場」だった。

ブリルビルディングの9階で楽譜を積み上げていた一人で、
『スタンド・バイ・ミー』の生みの親、作曲家マイク・ストーラーと
ブリルビルディングが密かにつくった文化を、いまたどる。

***

前回の序章では、ニューヨークのど真ん中にそびえる燻んだ灰色の「ブリルビルディング」の過去について。職業作家たちが篭り、50・60年代のティーンたちのための良質ポップスを大量生産していたことを話した。今回は、本連載で当時の光景について回想するブリルビル重要作曲家マイク・ストーラーと、相方ジェリー・リーバーのブリルビル初日までの“偉業”を紹介する。

第1章「二人のブルース小僧、17歳の出会い・19歳のコンビ独立。ピアノと椅子と電話、殺風景な部屋へ—ブリルビル入り初日まで」

 かつて、エルヴィス・プレスリーの“下半身”は、テレビにて放映禁止を食らったことがある。

 リーゼントに甘いマスクのロックンロール歌手エルヴィス・プレスリー。若者たちからの人気が絶頂に達した50年代、11週間連続全米ナンバーワンの大ヒット曲『ハウンド・ドッグ』をテレビ番組にて生演奏したときのことだ。エルヴィスはマイクスタンド片手に曲のリズムにあわせて踊るのだが、そのうねる腰つきがいやらしく扇情的で「青少年の目に毒だ」と、大人たちがテレビ局に猛抗議。結局、カメラはエルヴィスの腰から下は一切映さないという対応がなされた。この『ハウンド・ドッグ』を書いたのが、のちに20世紀最大のポップス黄金期を築いたブリルビル看板ソングライティングチーム。マイク・ストーラーとジェリー・リーバーの〈リーバー=ストーラー〉のコンビだ。

 もともと『ハウンド・ドッグ』はエルヴィスのために書かれた曲ではない。ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーが黒人女性シンガー、ビッグ・ママ・ソーントンのために作曲したものだ。ソーントンは、大柄なボディに図太い声をしたR&B(リズム&ブルース)歌手。リーバーとストーラーは、ニューヨーク・ブリルビルシーンの顔になる前、ロサンゼルスにてR&Bを書いていた。二十歳にもいかないユダヤ系の白人キッズが、黒人音楽を作っていたということ。

「私たちは変わり者だったかもしれません。私たちがやりたかったこと。それは、ブルースシンガーたちのために曲を書くことでした。ジミー・ウィザースプーン、チャールズ・ブラウン、ビッグ・ママ・ソーントン。これが私たちの音楽へ対する初めての愛でした」。

 東の都市ボルチモアの黒人コミュニティ近隣で育ったのちの相方リーバーは、幼い頃から黒人音楽に慣れていた。ニューヨーク生まれのストーラーは、小さな頃に参加したサマーキャンプにて黒人文化に触れることになる。「参加者にはいろいろな人種が混ざっていました。私みたいな白人に、黒人。ある時、一人の黒人の少年が、ピアノでブギウギ*を演奏していて。心を奪われましたね。鍵盤を滑る彼の指。自分の指もそうなるように練習したものです」。

 白人でありながら、R&Bやブギウギなどの黒人ポピュラー音楽に心酔する。二人のブルース小僧たちは、17歳のときに出会った。「お互い一番に愛する音楽がブルースだということに、気づきました。ジェリーが自分で書き溜めた歌詞を見せてくれたとき『韻を踏んでいる歌詞。これはブルースじゃないか!』となりましてね。私もブルースが大変好きなものでしたから、すぐにピアノへと直行し、ブルースを弾いた。ジェリーはそのメロディーに自作の歌詞を乗せる。以後61年間を共にした、作曲=作詞のパートナーになりました」。

*ブルースから派生したジャズ音楽の一形式。1920年代にシカゴの黒人ピアニストにより流行した。


左がストーラー、右がリーバー。

 当時ロサンゼルスには、R&Bを中心としたインディペンデント系レコード会社が多数あったとストーラーは回想する。リーバーとストーラーは、ブルースシンガーやR&Bのグループのために楽譜に筆を走らせた。そして、あの『ハウンド・ドッグ』も誕生する。「レコーディングを終えたあと、良いレコードになるぞ、とわかっていました」。結果、シカゴのサウスサイド、ニューヨークのハーレム、ルイジアナのシュリーブポートなど全米の黒人コミュニティのチャートで、数週間ナンバーワンの大ヒット。「自分たちの曲が地元のR&Bラジオ局で流れてきたのにはゾクゾクしましたよ。私たちはすでにプロフェッショナルだった。年間11ドルしか稼ぎがなくても」。当時、リーバーとストーラー、19歳。「未成年でしたから、レコードの版権契約の際も、母親たちにサインをしてもらわなければいけませんでした」。

 その後、リーバーとストーラーは自分たちのレコード会社「スパーク・レコード」を立ち上げ、R&Bの曲作りに専念。やがてスパーク・レコードは大手レーベル「アトランティック・レコード」に吸収されるとともに、リーバーとストーラーは「他のレーベルでも曲を作っても良い」という画期的な方法で雇われる。レコード会社の言いなりにならず、曲作りからレコーディングまでの制作を独自でおこなう権限を得て、史上初の“インディペンデント・レコード・プロデューサー”となったのだ。作曲作詞の筆は進み、黒人R&Bグループ、コースターズのために『サーチン』『ヤケティ・ヤック』『チャーリー・ブラウン』などR&Bの名曲を。いっときは、『ハウンド・ドッグ』のカバーで大ヒットしたプレスリーのお抱え作曲家コンビとなり、『監獄ロック』や『さまよう青春』『ラブ・ミー』など少年少女を熱狂させるナンバーを産み落としていった。

「アップライトピアノに、大きな机、数脚の椅子、電話。なんの変哲もない部屋でした」

 1958年、エルヴィス・プレスリー徴兵、リトル・リチャード引退。1959年、バディ・ホリー飛行機事故。チャック・ベリー逮捕。1950年代後半、ロックンローラーたちが次々とマイクから離れる「ロック暗黒期」に突入する。その頃、米国の音楽の震源地といったら、ニューヨークだった。
 R&B、ジャズの名門レーベル「アトランティック・レコード」やプレスリーも所属、カントリーの隆盛に貢献した「RCAレコード」など6大レコード会社の本社や、ASCAP、BMIの二大音楽著作権団体、主要な音楽出版社。音楽業界の権力と成功の機会がニューヨークにあった。

 1957年、リーバーとストーラーも拠点をロサンゼルスからニューヨークへと移している。ストーラーにとっては、故郷へ舞い戻ってきた形だ。“インディペンデント・レコード・プロデューサー”という当時にしては前代未聞の最先端に自由な勤務形態を謳歌していた二人。アトランティック・レコード、RCA、ビクターのアーティストたちのプロデュースもしていた。

私たちには、きちんとした“オフィス”がありませんでした。アトランティックの待合室やレコーディングスタジオ、ヒル&レンジ(エルヴィスの楽曲を管理する音楽出版社)の事務所、そしてタクシーの車中だって、私たちの“オフィス”でしたよ!

 曲作りからアーティストを招いてデモテープ用の録音をする場所が必要だと感じたリーバーとストラーは「手はじめに西57丁目40番地にオフィスを持ってみたんです。5階建ての小さな建物で、私たちの部屋は最上階の5階。雨が降ると、雨音がうるさいんですね。使い古しの家具を手に入れて、ピアノも運び込みました。1階にはコルセットを売っている洋品店がありましてね」。

 このオフィスでは雨音がうるさくピアノの音が聞こえなかったという逸話は正しかったのだろう。二人は1961年、引っ越しをする。新居は、ブロードウェイ49丁目。灰色の煤けたオフィスビル、ブリルビルディングだ。リーバーとストーラーは9階に事務所を構えることにした。

「ただのオフィスでしたよ。アップライトピアノに、大きな机、数脚の椅子、電話。それだけ。なんの変哲もない部屋でした。あと、そこに私たち二人がいただけです」

 次回は、灰色オフィスビルの知られざる内側へ。ビルのエレベーターで出くわす大物アーティスト、缶詰になって曲作りに専念する職業作家、トイレでアカペラを練習していた歌手。1棟のビルが良質ポップスを量産していた“夢のヒットソング工場”の構造について、ストーラーと内部見学をしよう。

Interview with Mike Stoller

***

マイク・ストーラー/Mike Stoller(右)

1933年、ニューヨーク生まれ。作曲家/音楽プロデューサー。ロサンゼルスで過ごした高校時代に、作詞家のジェリー・リーバー(写真左、1933-2011)と出会い、共同で曲づくりをスタートする。その後、リーバー=ストーラーのコンビで、『カンザスシティ』『スモーキージョーズカフェ』『オン・ブロードウェー』『ハウンドドッグ』『監獄ロック』『スタンド・バイ・ミー』などの名曲を残す。ブリルビルディング時代には、プロデューサーとしても多くの曲づくりに功績を与え、アメリカンポップスの原型を形づくった。http://www.leiberstoller.com

Eye catch image by Midori Hongo
Text by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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