【新連載】ブロードウェイ49丁目・夢のヒットソング工場「ブリルビルディング」大衆ポップス黄金期、伝説の作曲家が回想するビルの内側

【新連載】ロックが死に、“ポップ”が息を吹き返した。1950年代の終わりかけ。ティーンを踊らせ、歌わせたアメリカンポップスを“大量生産”した〈灰色ビル〉のはなし、序章。
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ロックは何度も“死んで”いる。
ジョン・レノンやジョン・ライドンらロックスターが、
ことあるごとに吐き捨てる「ロックは死んだ」。
ロックはよく死ぬ、そしてなんども生き返る。

だけど、本当にロックが死んだ時代があった。
エルヴィス・プレスリー徴兵、バディ・ホリー飛行機事故、チャック・ベリー逮捕。
ロックンロールの歌い手・弾き手たちが、
一瞬にしてギターから手を放したとき。
1950年代終わりかけの話。

ロックが息絶えたかわりに息を吹き返したのが〈ポップス〉だった。
ロックンロールのテイストがかった、大衆の、ティーンのポップスが。
『スタンド・バイ・ミー』『ロコモーション』『ラストダンスは私に』
名曲は「ある1棟のビル」とそのまわりで紡がれていた。

ブロードウェイ通り49丁目。ブリルビルディング。

100以上の音楽出版社が詰まった11階建ての灰色のビル。
白人男性作詞家に女性作曲家、黒人シンガーにガールズグループ。
人種も性別も入り混じる。
灰色のビルはメロディーメーカーたちの虹色の交差点。
“職業作曲家”たちは朝から晩まで缶詰めになり、
来る日も来る日も楽譜に筆を走らせた。

ブロードウェイ通り49丁目。ブリルビルディング。
そこは、「夢のヒットソング工場」だった。

62年ビートルズ登場までのロック空白の時代は〈ポップス黄金期〉へ。
「当時の音楽コミュニティは、ブリルビルディングを中心に渦巻いていました」
彼も、ブリルビルディングの9階で楽譜を積み上げていた一人。
当時の主要サウンドメーカーであり、
『スタンド・バイ・ミー』の生みの親、作曲家マイク・ストーラーと
ブリルビルディングが密かにつくった文化を、いまたどる。

***

序章「〈A級・青春ポップス〉ブリルビルディング、ティーンのサウンドが生まれたビル」

 ニューヨークのマンハッタンには、数万棟以上の建物があるらしい。エンパイアステートビルからクライスラービル、ロックフェラーセンターのような土産の置き物にもなっているような名物ビルから、軒先にデリやバー、コインランドリーのある古めかしそうなビル、ドアマンが行き交う人を眺める重厚なアパート。年齢を頑固に重ねてきた、なかなか我の強い個性派ビルが背比べをしている。

 そのなかでも、49丁目ブロードウェイ通り1619番地にそびえる、燻んだ灰色の「ブリルビルディング」は、その素朴な見た目に似つかない深い過去を抱えている。半世紀前、この11階建てのオフィスビルはこう呼ばれていた。“ヒットソングの生産工場”、あるいは、“商業ポップの組み立て工場”

 その所以は、1棟の建物で「曲の発注からプロデュース、作曲・作詞、録音まで」が、流れ作業のごとくおこなわれていたから。各階には音楽出版社がオフィスを構え、整列した小部屋では音楽出版社専属の作曲家・作詞家コンビ(職業作曲家)が曲作りに打ちこみ、歌手やステジオミュージシャンを呼びこんでデモテープを録音する。自身で作曲・作詞をするシンガーソングライターが主流になる一世代前の1950年代後半から1960年代。作曲家、作詞家、編曲家、プロデューサー、演奏家、歌手など曲作りの職人たちが分業し良質なポップソングを練り上げた“工場”が、ブリルビル*だったのだ。

*正式名称は「ザ・ブリル・ビルディング(The Brill Building)」だが、本連載では「ブリルビル」と省略することがある。

 当時、音楽出版社やレコードレーベルがひしめきあっていたニューヨークは、音楽産業の震源地。そのなかでも、「音楽コミュニティはブリルビルディングを中心に渦巻いていました。作詞家、作曲家、音楽出版社、デモシンガーの共同体といいますか」。回想するは、ブリルビルの9階にて曲づくりをしていた作曲家/音楽プロデューサーのマイク・ストーラー(85)。作詞家ジェリー・リーバーを相棒に〈リーバー=ストーラー〉のコンビで、世界の何億人もの耳に響くヒットソングを世に送り出してきた歴史教科書ものの人物だ。代表曲は、同名映画の主題歌で不朽の名曲『スタンド・バイ・ミー』、エルヴィス・プレスリーの艶かしいロックンロールナンバー『ハウンド・ドッグ』『監獄ロック』、黒人ボーカルグループ、ザ・コースターズに提供し、のちにビートルズも歌った『サーチン』などのリズム&ブルース…。 


若かりし頃のマイク・ストーラー(左)とジェリー・リーバー(右)。ブリルビルの屋上テラスにて。
Photo via Mike Stoller

 ブリルビルに缶詰になっていたのは、リーバーとストーラーだけではない。売れっ子の作詞家=作曲家コンビは、ほらこんなに。

 カーペンターズも歌った『遙かなる影』のバート・バカラック=ハル・デヴィッド。『ロコモーション』の作り手で公私にわたるパートナーのジェリー・ゴフィン=キャロル・キング。ロネッツやクリスタルズなど黒人ガールズグループの曲を得意とした夫婦、エリー・グリニッチ=ジェフ・バリー、同じく夫婦コンビのバリー・マン=シンシア・ワイル。レイ・チャールズの曲も書いたドク・ポーマス=モルト・シューマンに、当時のティーンアイドルの曲を多く手がけたニール・セダカ=ハワード・グリーンフィールド。そして彼らコンビに混じって、ヴェルベット・アンダーグラウンドのルー・リードや、サイモン&ガーファンクルのポール・サイモンも職業作家として下積みを経験。圧巻の録音スタイル“ウォール・オブ・サウンド(音の壁)”を生み出した敏腕プロデューサー、フィル・スペクターも作曲の就業を積んでいた。ブリルビルで生まれた曲や、ブリルビルを出入りしていたソングライター界隈の音は、〈ブリルビルサウンド〉という“ひとつのカルチャー”として生み落とされた。

 いまや〈古き良きアメリカの青春オールディーズ〉と呼ばれる、団塊世代の青春の曲。口ずさみたくなるようなキャッチーなサビに、甘酸っぱいバブルガムポップ、ソウルフルなビートを刻むダンスチューン。50・60年代のティーンを歌わせ、踊らせ、狂わせた〈A級大衆ポップス〉を生み出したブリルビルの文化。肌の色や性別の違いを見事に無視した自由な音楽共同体という“ブリルビルの先駆”を、これから数回にわたって、ストーラーと一緒になぞってみたい。

 次回は、「24歳の作詞作曲家コンビ、ブリルビルに引っ越す」。ピアノ一台の殺風景な小部屋—ブリルビルのオフィスに入居した日、リーバーとストーラーが目撃した夢のヒットソング工場の場景を。ブリルビルに漂着するまで、コンビが確立してきた“音楽神童人生”を振り返りながら綴ってみる。

Interview with Mike Stoller

***

マイク・ストーラー/Mike Stoller(右)

1933年、ニューヨーク生まれ。作曲家/音楽プロデューサー。ロサンゼルスで過ごした高校時代に、作詞家のジェリー・リーバー(写真左、1933-2011)と出会い、共同で曲づくりをスタートする。その後、リーバー=ストーラーのコンビで、『カンザスシティ』『スモーキージョーズカフェ』『オン・ブロードウェー』『ハウンドドッグ』『監獄ロック』『スタンド・バイ・ミー』などの名曲を残す。ブリルビルディング時代には、プロデューサーとしても多くの曲づくりに功績を与え、アメリカンポップスの原型を形づくった。http://www.leiberstoller.com

Eye catch image via Mike Stoller
Text by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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