左目失明。歩行困難。 二度の「踊れない」宣告。 それでもダンスに人生を捧げたダンサーが、叶えた夢

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「今度のショー見に来てよ!」。友人ダンサーから誘いを貰ったものの足を運べず、せめてもと後日投稿された動画を見て、直接見られなかったことを後悔した。

クラシックバレエのしなやかな身のこなしかと思えばヒップホップのダイナミックなステップ。自由な発想と生命力溢れるダンスは、エネルギッシュでパワフル。
その感動を友人に伝えると、返答の発言に驚いた。「でしょう? ねぇ、想像できる? これ全部、“踊れない”振付師に指導してもらったの」。
そんなの、聞いたことがない。踊れないのなら、そもそもどうやって振り付けを?

キャリア30年。でも“踊れない”振付師

 誕生日を迎えたばかりで「またひとつ歳をとっちゃった。フォトショップでお肌の加工お願いね」なんて顔をクシャッとさせて笑いながらも、飾らず自然体。その女性の名はAmy Jordan(エイミー・ジョーダン)。ダンスカンパニー「The Victory Dance Project(ザ・ビクトリー・ダンス・プロジェクト)」の設立者でありディレクター、噂の“踊れない”振付師だ。

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 チャーミングなエイミーがこの通り「現役を退いたご高齢ダンサー」だから、踊れないというわけではない。

「よく家族や友達に『コーラスライン』のエイミーバージョンを披露してたの」。とにかく活発でミュージカルが大好きだったという彼女は、5歳でクラシックバレーを習い、その後もジャズやモダン、ヒップホップと幅広いジャンルを極め、気付けばそのキャリアは30年。ニューヨーク、ロサンゼルス、マイアミとアメリカ各地で積極的に活動してきた。

 ダンス経験も充分すぎる程あるし「振り付けセンスは抜群だけど究極のダンス音痴」なわけでもない。じゃあ、なぜ踊れないのか。それは波乱の人生にあった。

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ダンスを止めた、ハタチのとき。

 19歳、スキルを磨くべく、生まれ育ったフロリダからロサンゼルスに移住。「あの頃はブラック・ミュージック絶頂期でね。MTVの『アンプラグド』が始まった影響もあって、ダンスシーンは『ヒップホップ一択』って感じだった」。

 それまではバレエ一筋、ヒップホップとは対極にいた。が、負けん気の強いエイミー、「当時の憧れはジャネット・ジャクソン。知らないことは、スポンジみたいに何でも吸収したわよ」と、できるだけ多くのジャンルのレッスンに通い、限界や固定観念にとらわれず常に自分自身に挑戦した。

 そんなふうに、人生を費やしての努力が面白く、希望でいっぱいだった頃だった。持病の若年性糖尿病の合併症で、左目の視界がかすみはじめる。エイミー、20歳のとき。
 症状は次第に悪化、約40回にも及ぶ手術を繰り返すもその甲斐はなく、エイミーの左目からは完全に光がシャットダウン。ダンス人生、まさにこれからというときだった。

 それからというもの生活は180度一変。主な移動手段が車のロサンゼルス、そこで余儀なくされたのは、運転を止めること。「不便なうえに、孤立感を感じずにはいられなかったわ」。また、暗闇では遠近感をはかれず、プロダンサーとしてのキャリアに可能性が見出せず、踊ることを止めた。

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「ダンサーなら踊らなきゃ!」。心身ともに参っていたとき、友人に誘われたのがジムのフィットネスクラス。「でも私左目見えないのよ?」「右目は見えるでしょ?」「でも…」そんなやりとりの末、渋々参加。「そのとき確信したの。あぁ、私の気持ちはまだここにあるんだなって」

今度は「もう、二度と歩けない」。再起からの二度目の絶望

 失明から再起、ニューヨークに移住しダンスを続けていたエイミー。ペースを取り戻し、すべてが順調だったときに訪れた二度目の悲劇は、交通事故。横断歩道で、バスにひかれてしまったのだ。

「あの時は感覚がなくて、痛みすら感じなかった」。完全にタイヤに押しつぶされた右脚は、ほぼ断裂。皮膚のほとんどを失う大怪我を負い、意識朦朧とするなかで最初に頭をよぎったのは「ダンス人生、終わった」。

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 18回にも及ぶ大手術の末、医師に言い渡されたのは「もう歩くことは不可能でしょう」。当時を振り返る彼女の顔からは、それまでの笑顔はない。

 日々続いていく、辛いリハビリ生活。そこで再び、彼女に希望を与えたのはダンスだった。
 それまでダンス一筋だったエイミー、「ワン・ツー・スリー・フォー…」と声に出しカウントをとり、これまで学んできた独自のストレッチ法を取り入れてみた。すると、培ってきた精神力とリハビリで学んだ忍耐力で、数年に及ぶ長期戦の末、なんと自力で歩けるまでになった。この劇的な回復に「リバビリ訓練チームの皆は、奇跡だって驚いてたわ」。

 数年に渡るリハビリを投げ出すことなく続け、不可能といわれた歩行を可能にしたのは、ダンスに諦めきれない想いがあったからだ。

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エイミー流。振り付けは「対話」スタイルで

「ダンスを通して『諦めない大切さ』を伝えたい」。悲劇から7年後の2014年、自身を形容するに相応しい「情熱は不可能を可能にする」をミッションに、エイミーは満を持して自身のダンスカンパニーを設立した。在籍パフォーマーは、生まれも育ちも得意ジャンルも異なる「みんな違って、みんないい」15名。同年開催の初講演はチケット完売の超満員。その後も意欲的に作品を発表し続けている。

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 歩けるけれど、踊れない。エイミーの指導方法はユニークだ。「口頭で『こういう動きをしてほしいの!ちょっとやってみて!』って言われて、即興で踊ってみせるの」。こう話すのはパフォーマーのエリカ。ショッピングが苦手なエイミーに変わり、衣装製作までもこなす敏腕ダンサーだ。

「踊れない私にとって、自分の指示が実際にどういった動きになるかは、正直分からないの」。言ってみて、やってみて、これじゃあダメ。ではこうしたら、と、ダンサーと共に振りを作り上げる。上に立つ人間だからとおごらない、一方的な意見を押し付けない。ダンサーの意見をしっかり反映するこの「対話」スタイルが、エイミー流だ。

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「I love her(私はこの右足が大好きなの)」

 持病の合併症で失明、交通事故で歩行困難。ダンス人生に立ちはだかった二度の大きな壁を乗り越えたエイミー。困難としっかり向き合い、後遺症と二人三脚で生きるこの人生観は、確実にダンスに反映されている。「“もう踊れない振付師”が作ったとは思えない」と定評ある、生命力溢れるショーが何よりの証拠だ。エイミーだから創れる、とオーディエンスは頷く。

 取材終盤、ポートレイト撮影中にこんな場面があった。突然ズボンをまくり上げ、右足を愛でるように見つめながら「I love her. I’m proud of her (私はこの右脚が大好き。誇りに思ってる)」と、優しくキスをした。

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 幾度と繰り返した皮膚移植のせいで痛々しげなその足は、木漏れ日を受け美しく輝いていた。もう“ダンサー”として踊ることはできないが、彼女は今“振付師”としての第二の道を、その足でゆっくりと、着実に歩んでいる。

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Photos by Mami Yamada
Text by Yu Takamichi

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