「カッコイイ」をつくる宿命/アーティスト 山口歴

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「カッコイイ作品をつくり続けていれば、いつか必ずスポットライトが当たる順番はまわってくる。そのときのために、常に準備しておけ」。ずっと先輩たちから、そういわれてきた。「いま、ひょっとしたらその順番がきているのかもしれない」。
そう話すのは現代アーティスト山口歴(めぐる)31歳。この男といえば、多色の絵具の筆跡を貼り合わせる「カット&ペースト」という独自の手法とたぐい稀なる色彩感覚だろう。急速に頭角を表し、日本のカルチャー誌にもこぞって特集され、今年は香港SOGOデパートの30周年記念アーティストに抜擢されてビルボードを飾るなど、海外でも目立つ存在へ。ニューヨークへ来て“屈折”8年、「最近、やっと『アーティストです』と名乗ることに抵抗がなくなりました」と照れ笑うも、謙虚さの中に確信をにじませる。

渋谷を庭に、のびのび育ったシティボーイ

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 地元とドラゴンボールをこよなく愛する気さくな兄ちゃん。それが山口の第一印象だった。だが、その親しみやすさも「演じているのではないか?」と勘ぐってしまうほど、育ちはいい。1984年、東京都渋谷区生まれ。両親共にファッションデザイナーで、「実家は恵比寿」という生粋のシティボーイだ。
 90年代、渋谷のストリートカルチャーが過去にない隆起をみせていた頃、多感期の山口はそれを目と鼻の先で感じていた。「土曜の朝とかちょっと外に出ると、スワッガーやマックダディーの店の前には200人とか人が並んでいましたね」と、自分の“庭”を語る。
 その育ってきた庭には原点がある。「あの時代がなかったら、僕いまニューヨークで、こんなことしてないですもん!」とは、高校時代だ。
「メロコアのコピーバンドをやったり、東急ハンズで買った『Tシャツくん』で、友だちとTシャツをデザインしたり」。両親に禁じられていた「刺青とバイク以外」、カッコイイと思うものはとにかく触れた。
 だが、「進路には困りました。僕、これといって特技もなかったので。しいていうなら、絵を描くのが好きってくらいで」。山口は小学生の6年間、絵画教室に通っていた。きっかけは「ドラゴンボールで有名な漫画家の鳥山明さんに憧れて」。そこで学んだ「ゴッホなど印象派の西洋画と、あとストリートのグラフィティも好きでしたし」と、芸術系の大学を受験することに決める。が、東京芸術大学を目指し予備校に通うも、三浪。「それでも、絵をやめるとかはできなかったんですよね」

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“破天荒なオトナたち”に「刷り込まれる」

 受験が上手くいかずフラついていた二十歳前後の頃、ひょんなことから父親のデザイン事務所で雑用をはじめた。当時、山口の父親はオゾンロックスというブランドのデザインスタジオを運営していて、そこには「親父の友人の型破りな大人たちが昼夜関係なく出入りしていた」と振り返る。中でも、国内外からその徹底した審美眼とクオリティで名高いファッション芸術雑誌『DUNE』の林文浩編集長の存在は大きかった。「会う度に叱られていた」というも、表情は明るい。特別な存在だったことを伺がわせる。

「破天荒でしたが、クリエイターとしての仕事に対する姿勢や生み出す作品は、抜群に格好よかった」。といっても、時代の“カッコイイ”をつくりだす突き抜けた大人たちを横で見ていただけで「何がカッコイイのかすらわからなかった」が当時の本音。感性は刺激されたが、吸収するので精一杯。時間はいたずらに過ぎ、2005年。気づけば21歳になっていた。友人からの「最近、どうよ?」が、苦しかった。

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スパルタ教育で「大人の本気の塗り絵」を知る

「私服のスケーター、汚れたストリートキッズ、その中にビョークのようなスターがいて。それで振り向くと、アニエス・ベーのスーツに泥だらけのコンバースを履いた主役のライアン・マッギンレーがいるんですよ!」。日本で見てきた、いかにも“関係者”な装いの上品なギャラリーオープニングとのギャップにやられた。もんもんとしている頃に訪れたニューヨークの衝撃は鮮烈だった。
 作品も奇想天外、展示会で喰らった衝撃を「予備校で習ってきたことを全否定された気分だった」と、振り返って言葉にする。こうしなければ、ああしなければ、と知らず知らずのうちに自分に制限を課してきたことに気づく。浪人生活に終止符を打った。

 帰国してすぐにもう一度ニューヨークへ。この時、23歳。渡米後すぐに、ずっと憧れだったニューヨークで活躍する日本人現代アーティストのMATZU(まつ)の元でアシスタントをはじめる。生活は修業だった。一日8時間はスタジオ作業、夜家に帰ったら朝まで自分の作品づくりをしてそのまま語学学校。ちょっと寝てまたスタジオへ。宿題もあった。3枚は作品を提出する月があったり、村上隆の分厚い本を渡されて感想文を課されたり。美大に行かなかった山口は「まさに僕にとっての大学でした」と師との時間を思い返す。

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 言い合いになることもあった。「特に色選びでは徹底的に」。色を作品に置く際、師の指定する色に、山口は「いや、ここは絶対、白だと思います」といい返す。すると「俺にはお前が白だと思う理由がわからない。説明してくれ」と戻ってくる。たった一ヶ所をどの色にするかで小一時間議論する。「大人の本気の塗り絵でしたね」。あの時は必死すぎてわからなかったけど、あれは「色を感覚的に置くのではなく、“なぜ”をロジカルに説明できるようになるための訓練だったと思います」。

 アーティストの多くは、自分のスタイルに「テーマ」をもたせ、それを進化させていく道を選ぶ。山口がテーマに選んだのは、「ブラシ・ストローク(筆跡)」。それは、ルネサンス時代に筆が生み出されて以来、時代も国境も越えて、人々を魅了し続けているものだという。つまり「普遍的にカッコイイってことです」と。スタイルは「カット&ペースト」。師の留守中、「床に飛び散った絵の具を貼り合わせてみた」ことがきっかけだったという。
 模索の中で、現在は剥がしやすい大きなピースよりも「小さな筆のしぶき跡こそがいい」と気づいて“しまい”、小さなしぶき跡を一粒ずつカッターで切り取る、というより労力を要するスタイルへ。作業が複雑になり時間を要するようになれど、より良い作品が生まれればアートの世界では、「進化」だ。

「まちがってなかった」。“10年のモヤモヤ”が晴れた日

「自分のウェブサイトをつくれ」と、師に口酸っぱくいわれていた。それも「簡易ではなく、誰にみせても恥ずかしくないものを」。いわれた通りに、グラフィックデザイナーの友人と1年もの時間をかけてつくり上げると、2011年、東京の現代アートギャラリーから突然、グループ展への参加の声がかかった。
 その時の山口は、まったくの無名。渡米してから4年以上の歳月が過ぎていたが、あくまでアシスタントだった山口、はじめて“自分の名前”で参加した展示会。ミラクルはおこった。

「それまで、夜中にコツコツと書き溜めてきた自分の作品を全部出したんですが、初日完売したんです。8枚すべて」。
 浪人生活がはじまった18歳から約10年近く「ずっと自分に自信が持てなくて。恥ずかしくて地元の友だちと会うのも辛かった」。山口の頭上に停滞していた分厚い雲が帯状に流れ、眩しい日差しが差し込む。「あれは2011年の5月21日。その日のことは一生忘れませんよ」

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 なぜ、ミラクルはおきたのか。それについて、山口には揺るぎない持論がある。「あの8枚を描いたとき、純粋にカッコイイものがつくりたいというハングリーさしか、僕にはなかった。だから、無名でも売れたんです」。
 というもの、今年15年夏の展示会ではその初の個展よりも売れなかったという経験がある。11年に独立して以来、コラボレーション依頼やメディアへの露出も増え、知名度は上がったにもかかわらず、だ。売れなかったのは、「僕に(昔ほどの)ハングリーさがなくなっていたからでしょう」と自分を戒める。ほろ苦い経験を通して学んだのは、名前が知られるようになると「お金も入るけれど、雑念も入ってくる」ということ。「ちょっと生活が楽になったり、会食に誘われるようになったり…。そんな小さな変化だけで、自分でも気付かないうちに軸がブレてしまう」。売れなかった数年は、いま、売れることだけに甘んじることを許さない。

「好きじゃない作品も携帯の待ち受けに」。色彩を“叩き込む”

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「僕には、まだシグネチャー作品がないんです」ともこぼす。だが、彼の作品の「色合い」はユニークだ。「ひと目で山口歴とわかるものですよ」の声に、恥ずかしそうに頭を垂れる。
 彼の独特の色彩感覚だが、“偶然”ではない。緻密な独自の分析によって身につけたものだ。街で見つけた広告やインスタグラムなど、その年に売れている作品やかっこいいと思ったものを「写メを撮って保存。あとで、その写真と同じ色をつくるんです」。そこに15色あるなら、15色すべてつくって、それらの色で自分の作品をつくってみる。「だって、その15色さえあれば、間違いなくカッコイイものはつくれるはずだから」だそうだ。感覚ではなく、これまた刷り込みの、体に叩き込むといった感じか。
 また、以前から「たとえばMATZUさんに『この作品は名作だ』といわれたら、その時はピンとこなくても、携帯の待ち受け画面にしていた」という。なぜ、そんなことをするかの問いには「右も左も分からない自分は、一作品でも多くの名作を自分の頭に“擦り込む”しかないと思ったから」と答える。

 山口がその「スリコミ」の効果を信じているのには理由がある。「親父の事務所で雑用していた当時、親父と林さんはよく、売れる前のライアン・マッギンレーなど、ニューヨークのストリートアーティストについて話し合って雑誌の特集とか組んでたんですよ」。それを横で見聞きしていた山口は、「なんとなく」ながらも、ニューヨークのストリートカルチャーの魅力を“擦り込まれていった”と自負している。
「あのスリコミのお陰で、流行り廃りのファッションとしてではない、その地に根付いた文化としての“ストリート”をいま、理解できてる気がします。それって、ニューヨークでアーティストとして生きていく上で、僕にとっては重要なこと」

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「固定概念にとらわれず、けれど軸はブレずに。貪欲に、カッコイイものをつくり続ける」を、探っていきたいという。その姿勢は、山口に擦り込まれ続けた「カッコイイ」の原点、父親や林氏にもどこか通じるだろう。漠然と自分の意識下にあるカッコイイをビジュアルにする。「最近、それがやっとできるようになってきた気がするんですよ。だから、毎日、楽しいっすね」。
 屈折8年。山口歴の見上げる空はいま、吹っ切れて晴れだ。

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Meguru Yamaguchi / meguruyamaguchi.com


Photographer: Koki Sato
Writer: Chiyo Yamauchi

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