なにかが変わりそうで変わらない。60・70年代「郊外はおんなじ風景でした」“カリフォルニア・ドリーム”のある現実、果てしない退屈

「トラクトハウスやストリップモールは、私たち当時のティーンエージャーにとっては世界一味気ない悲しいものでした。無味乾燥な風景は、目に痛かった」
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1970年代に入ると、高速道路が2車線から4車線になった。似たような住宅団地や分譲住宅が次々と建てられていく。「世界を変えよう、という気持ちはもう消えていた」。

反戦運動、ウッドストック、ヒッピームーブメントを駆けぬけた60年代、その危なっかしいほどの勢いは70年代に突入し、萎んでいく。新しい文化が生まれては消えていき、夢追い人が来ては去るカリフォルニア。捉えられたその郊外の風景は、いつにも増して鬱屈した現実の表情だった。

60年代という理想の亡霊を背負って。1970s

 アメリカン・ドリームではない。「カリフォルニア・ドリーム」。一攫千金を狙い人々が押し寄せた19世紀のカリフォルニアのゴールドラッシュを由来にした言葉で、新天地にて手早く富や名声を獲得しようとする心理状況のことをいう。明るい日差しと太平洋を独り占めできるビーチ、ハリウッドにビバリーヒルズ。カリフォルニアは、いつだってみんなの「ドリームランド」だ。

 特に、60年代。ラブ&ピースのフラワーチルドレンがあふれ、セックス・ドラッグ・ロックンロールが若者を酔わせ、表現や考えの自由が満開となったこの時代、カリフォルニアへの憧れは肥大化する。「こんな冬の日にはカリフォルニアを夢見るよ」(ママス&パパス『夢のカリフォルニア』65年)、「もしサンフランシスコへ行くなら、頭に花を着飾って行きなさい」「あらゆる世代が新しい声明をもつ」「みんなやって来る」(スコット・マッケンジー『花のサンフランシスコ』67年)。ベトナム反戦運動や公民権運動、フェミニズムムーブメントが起こり、南北戦争以来、大きく国が揺れ動いた。しかしこれらの熱も68年になると、危険な温度へと上昇する。黒人公民権運動の活動家マーティン・ルーサー・キング、民主党の大統領候補であったロバート・ケネディが暗殺される。ベトナム戦争は泥沼化し、ジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスがドラッグやアルコールの罠にはまり命を落とし、69年のウッドストックフェスティバルを境に、熱は冷めていく。70年代に入ると音楽の大衆・商業化が加速、石油危機とベトナム戦争の終結とともに経済は下降する。疲れ果てたのは経済だけではない。国民の心もだ。


© Mimi Plumb, courtesy the artist and Robert Koch Gallery

 60年代、社会的な運動が沸き起こっていた自由の土地カリフォルニアで若者たちは困惑してた。夢を持って集まり成功してはニューカマーに置き換えられる。「ジョニーは最近やって来た街の新入り、みんなに愛されている。がっかりさせるなよ」(『ニュー・キッド・イン・タウン』、76年)。60年代の幻想が執拗につきまとい喪失感を隠せない。「ここには1969年からスピリット(お酒/精神)はありません」(『ホテル・カリフォルニア』1975年)。歌ったのは、イーグルス。彼らもまた、カリフォルニアへの憧れに突き動かされたバンドだ。一人を除くメンバー全員が、別の土地からやって来てカリフォルニアで結成、西海岸ロックの代表格として成功をおさめた。コンサートは必ず「We are Eagles from Los Angels.(ロサンゼルスから来たイーグルスです)」でスタートさせることから、バンドがロサンゼルスで生まれたことを誇りにしていたことがわかる。

 そんな時代が流れるなか、自分が育った北カリフォルニアの郊外を1972年から79年のあいだ撮ったのが、写真家のミミ・プラム。昨年、写真集『ザ・ホワイト・スカイ(The White Sky)』として写真の記録をまとめた。40年ほど前に捉えた、なにかが変わりそうで変わらないカリフォルニアの素顔について、カリフォルニアの自宅で「猫を膝に乗せながら」電話で話してくれた。

カリフォルニア郊外の原風景、ティーンの原体験

 最初に断っておくが、これらの写真が「カリフォルニア」のすべてを写しているわけではない。同じ時期のロサンゼルスやサンフランシスコといった大都市の中心部にレンズを向けたら、もっと“理想”が撮れていたかもしれない。これらはあくまでも、サンフランシスコから北東に車で30分ほど走らせたところにあるウォルナットクリークという、いち郊外の風景だ。カリフォルニアは広すぎる。

「私が住んでいた地域の家はボロボロで、新しいトラクトハウスや、分譲住宅が次々に建っていた。まさに郊外が形成されているところでした」。トラクトハウスとは、同じ業者が作った住宅団地のこと。米国やカナダの郊外によくある、味気ない一軒家だ。また、郊外の風景にはよくあるストリップモール(道路に面した小規模のショッピングモール)もぽこぽことできる。「景観としては未完成でした。うつくしくもなんともないから、みんなあまり気にかけなかった。都市部にあるようなきれいな住宅街の存在を知らずに育ちました」


© Mimi Plumb, courtesy the artist and Robert Koch Gallery

© Mimi Plumb, courtesy the artist and Robert Koch Gallery

 おもな住人たちは、ミドルクラスの若い家族。家にはテレビがあって、毎晩のニュースではサンフランシスコやバークリーなど近隣の都市部で反戦運動やピースマーチが起こっていることを告げた。「参加したかったけど、参加するのには物理的に遠すぎた。近所には保守的な家庭も多くありましたが、私の家族は先進的で、このような社会的なムーブメントの話はよくした。けど、郊外の私たちには、肌で感じるほどではなかった」

「Are You Experienced?(もう経験済みかい?)」
「No, not yet.(いや、まだだよ)」

 穴があいた色褪せたリーバイス501。白いTシャツ。ロングのストレートヘア。カリフォルニアの若者の典型的なイメージをしたティーンたちが写真に映っている。あとは、「煙草。ティーンも、その親も。みんな吸っていましたよ。みんな」。

 十何マイル先にある都市でヒッピーや大学生たちが運動に明け暮れていた頃、郊外のティーンたちはどんなことをしていたのだろう。「ドラッグは、郊外コミュニティにも入ってきましたよ。アシッド(LSD)をやったり、マリファナを吸ったり。夜にあてもなく、みんなでその辺りをブラブラ歩いていたり。目的のない彷徨い。あとは、部屋に座ってジミ・ヘンドリックスを聴きながら、ジミが『Are you experienced?(もう経験済みかい?)』と歌うのに対して、『No, not yet.(いや、まだだよ)』と思ったのを覚えています」。


© Mimi Plumb, courtesy the artist and Robert Koch Gallery

© Mimi Plumb, courtesy the artist and Robert Koch Gallery

 ジミ・ヘンドリックスなど、郊外の若者たちもロックに夢中だったのか。ミミの場合は、「サンフランシスコやバークリー(都市部)では音楽フェスティバルもやっていたのですが、あまり行きませんでした。行くには幼すぎたのかもしれません。“オルタモント*”には行きましたが」。

 郊外ティーンの内情。「退屈にしていました。人生になにかが起こってくれないか、待っていた。音楽も聴いたけど、そこまで熱心にはなれなかった。ドラッグもおもしろくなかった。郊外ではなんにも起こっていなかった。文化的にも。なんとなく宙ぶらりんで、一時的な苦難のようでした」。もちろん、なにかに打ち込む子たちもまわりにはいた。チアリーディング、フットボール。でも「私といったら、とにかく早く大人になって郊外から抜け出したい、そんなことばかり考えていました」

*1969年12月6日にカリフォルニア州にあるオルタモント・スピードウェイで開催されたローリング・ストーンズ主催のコンサート。30万から50万人の若者が押し寄せたともいわれている現場では、コンサート中に警備にあたっていたヘルズエンジェルス(バイカー集団)と観客のあいだで喧嘩が起き、殺人事件にまで発展。このことから、同年にニューヨーク州で開催されラブ&ピースを象徴したウッドストックフェスティバルと比べられることも多く、「オルタモントの悲劇」として語り継がれている。60年代の幻想が終わった分岐点の一つともいえる。


© Mimi Plumb, courtesy the artist and Robert Koch Gallery

「車は“自由”を意味していた」

 カリフォルニアで「車」がないことは致命傷だ。なくても生きていけるが、行動範囲がだいぶ狭まる。「ヘイト・アシュベリー(サンフランシスコ中心部にあるヒッピームーブメント発祥地)までは、20マイル(32キロ)ほど、地元の繁華街に行くのにも4マイル(6キロ)はあった。車へのアクセスがなかった幼い頃は交通手段もなく、文化へのアクセスがなかった。私たちは郊外に立ち往生していた。時々、友だちのお兄ちゃんの車でどこかに行くことはありましたが」。

 ミミは1971年、17歳のときにウォルナットクリークを去る。車が手に入ったということだ。その翌年にミミは、あんなに出たがっていたウォルナットクリークまで車を走らせ、「自分がどんなところに住んでいたのかを記録する」ため、写真を撮り始めた。彼女の写真には、車や車にまつわる物が多く映りこむ。ガソリンスタンドを後にする車。砂漠に乱暴に駐められた車。老婦人が運転する車のハンドル。子どもたちが遊び場にする車のタイヤ廃棄場。車のゴツゴツした振動が想像できる舗装されていない道。「車は“自由”を象徴していた」。


© Mimi Plumb, courtesy the artist and Robert Koch Gallery

© Mimi Plumb, courtesy the artist and Robert Koch Gallery

 車があれば、なんにも起こらない郊外から、なにかが起こっている場所へ行ってみることができる。71年、サンフランシスコまでを繋ぐ高速道路が2車線から4車線になった。その頃、サンフランシスコのカストロ通りではゲイカルチャーが盛り上がり、チャイナタウンでは中国系移民が急増した。ベイエリアのクパチーノでは、アップルコンピューターが創業された。一方で、排出ガス規制が敷かれ、76年から77年にかけてはカリフォルニア州で記録的な干ばつが発生する。「世界を変えようという気運は、70年代には終わっていた」。それでも郊外に漂う空気は、60年代も70年代も同じだったという。

「カリフォルニア=パラダイス」は幻想か

 突き抜けるような青い空に、ビーチ・ボーイズのような爽やかな曲にラジオを合わせ海岸線を走る。プール付きの一戸建て、海を臨む家、丘にそびえる邸宅。有名人が集まるパーティー、サンセット通りのネオン。カリフォルニアに来る者がカリフォルニアに抱く“夢”のイメージは、「映画などのせいかも。もちろん、本当にうつくしい場所も多いけど」。生涯ずっとカリフォルニアにいたから、あまり客観的に見ることはできないという。

「みんなカリフォルニアへの憧れを口にするけど、あんまり自分ごとのように感じられなかった。私が育った郊外は、海岸からずっと離れているし、理想的な場所ではなかったし。個人的には、一度も“カリフォルニア=パラダイス”だと思ったことはなかったです」


© Mimi Plumb, courtesy the artist and Robert Koch Gallery

© Mimi Plumb, courtesy the artist and Robert Koch Gallery

 写真に映る郊外ウォルナットクリークは、現在は郊外都市として栄え、閑静な住宅街が立ち並び、土地も高級化している。近隣の大都市サンフランシスコでも、ここ数年で地価が爆発的に上昇し続けている。シリコンバレーではビッグテックが我が物顔でのさばる。対してコロナのいま、サンフランシスコやロサンゼルスのダウンタウンではホームレスたちが増えるばかりで、通りには例年にも増して彼らのテントが列をなす。カリフォルニアの理想と現実は、ますます迷宮のなかだ。

Interview with Mimi Plumb

Eyecatch Image: © Mimi Plumb, courtesy the artist and Robert Koch Gallery
Text by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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