「子どもたちが小さな頃、親子5人で、3つのマットレスを敷いて川の字で寝ていましたね。借りてきたメロドラマのビデオをみる母の横には、パソコンをする子どもたちがいたり」
「『君は僕の娘と同い年だ。もう娘には16年間も会っていないんだがね』と言っていた。家族と何十年も会ってない長期滞在者は珍しくない。大事そうに家族写真を持ち歩いていました」
移民の街ニューヨークのチャイナタウン。ここには、より良い暮らしを夢見て海をわたってきた移民家族や、出稼ぎを目的に祖国に家族を残しあくせく働く労働移民たちが隣同士で生きている。
たとえば、子どもを育て家族を作り、18畳のアパートで堅実に暮らす「ある5人家族」。そして、その一家の近所には、互いの肩が触れあうほど狭い安アパートで細々と生活する「35人の移民労働者」。同じ国からやってきた移民にして繰り返される“対照的な日常”を、二人の写真家のレンズ越しにみる。
©Thomas Holton
©Annie Ling
18畳の“我が家”。3畳の“城”。チャイナタウン中国移民、三者三様の暮らし
メロドラマに没頭しながら夕飯の仕度をする母親。狭い浴槽でおもちゃ片手に泡にまみれる三兄弟。仕事終わりに気の知れた同士で卓を囲み一杯やる親父たち。どの国のどの家にもありふれた光景だ。ニューヨークはマンハッタンのチャイナタウン、所狭しと立ち並ぶどのアパートにも、もちろんある。
このチャイナタウンこそ、アジア以外ではもっとも古くもっとも大きいチャイナタウンのひとつ。ひっきり無しに、中国語あるいは広東語が飛び交い、漢字の看板が街に溢れて雑然としている。小籠包、餃子、ワンタン麺といった本場の味をたのしめる中華料理店に、果物を売る露天商。たいていはどこか胡散臭い土産屋、生臭さをプンプン漂わす鮮魚マーケット、その隣に匂いが鼻をつくむき出しの肉がずらりと並ぶスーパー。さらにそこに、太極拳を繰り広げる公園の老人たちも加わって混在を極める。独自の世界観をもった地区だ。
“ラドロー通り”のラム一家は5人家族。父スティーブンと母シャーリーに息子のマイケル、フランクリン、娘のシンディ。1990年代初頭、両親ともに移民としてニューヨークへたどり着いた、移民第一世代。スティーブンはのちに米国市民権を取得し、子どもたち3人はアメリカ人として育つ。アパートはすべての部屋で18畳ほど。5人家族にしては決して広くないが、家族で住むための生活スペースは確保されていた。
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そこから10分ほど歩いて南下。“バワリー通り”81番地の安アパート4階には、35人の移民労働者がいる。故郷に残してきた家族を支えるため、低賃金で労働し狭いアパートに身をひそめながら暮らす“見えない移民”たちだ。自分たちで壁をつくり区切った小部屋は、天井なしのクローゼットサイズ。一部屋、およそ3畳ほど。家賃は約1万円から2万円。テレビ音、会話、咳、いびきなんかが昼夜問わず聞こえ、プライバシーはほとんどない。しかし彼らにとって、そこは「城」だという。
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「住人同士で食事を分けあい、晩酌したり団らんしたり。まるで家族のようでした」
「ラム一家では、子どもたちが小さな頃は母親のシャーリーが家でご飯をよくつくっていました。地元の市場でその日に出荷された新鮮な食材を買ってきて。食卓によくのぼったのは、魚や野菜。あとは、子どもたちが小さなころ、親子5人は3つのマットレスを敷いて川の字で寝ていましたね」。そう話すのは、中国系アメリカ人の写真家トーマス・ホルトン。2003年から現在にいたるまで、ラドロー通りのラム一家を15年間にわたりドキュメントしてきた。「当時、美大の卒業課題としてチャイナタウンの暮らしを撮りたくて。多くのチャイナタウンの移民家族に撮らせてくれと懇願したなか、ラム一家だけが快く撮影を受け入れてくれました。夕飯までご馳走して歓迎してくれたんですよ」。
ラム一家は、チャイナタウンのコミュニティに溶け込んでいた。「近所には親戚や多くの友人たちがいましたね。歩いて10分のところにおばあちゃんの家があったので、一家でよく訪ねたり。近場の食堂にも常連で、子どもたちは街で唯一の中英バイリンガルの学校に通っていました」。トーマスは、ラム一家と時をともにするうち、自然と彼らの家事を手伝い、子どもたちを学校に迎えに行くようになる。中国と香港への親戚訪問の旅に同行したことさえあった。
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さて、バワリー通り81番地にある安アパート。ここでは、台湾系アメリカ人写真家アニー・リンが、2008年から6年間、アパートの4階部に住む35人の出稼ぎ移民労働者や低賃金労働者の生活をドキュメントした。住人は、18歳から88歳と世代もバラバラ。渡米してまもない者もいれば、数十年住み着いた長期滞在者もいる。彼らは、チャイナタウンにある斡旋会社の紹介により飲食業や建設業などに就き、一日十数時間、週のほとんどを労働に費やす。そして、稼いだ給料の9割は母国に送金。仕事が終われば贅沢に外食するわけでもなく、まっすぐ直帰し各自が料理をするのが日課だった。
「住人同士で食事を分けあい、晩酌したり団らんしたり。まるで家族のようでした」とアニーは回想する。渡り廊下に共用のキッチン、シャワー、トイレが4つあったため、帰宅すればどこかに誰かいるという暮らし。掃除当番やゴミ出しなどのルールなんか存在しない。阿吽の呼吸で、気づいた者がそれぞれ役割を果たして成り立つ暮らし。
©Annie Ling
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「テレビでドラマを観る母の横で、子どもたちはパソコンで映画鑑賞をしていた」
「ある日、住人の一人の男性が私にこう言うんです。『君は僕の娘と同い年だ。もう娘には16年間も会っていないんだがね』」。バワリー通り81番地の住人には、家族と何十年も会ってない長期滞在者は珍しくなく、彼らは家族写真を大事に持ち歩いていたそうだ。
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子どもの成長をそばで見守れない移民の親もいれば、成長を痛いほど体感する移民の親もいる。昔は川の字で寝ていたラム一家も、「子どもたちが成長するにつれ体も大きくなり、プライバシーを尊重するため、子どもたちには二段ベッドや個々の寝床を用意していましたよ」。
ラム一家の両親の名前、“スティーブン”と“シャーリー”は、英語名だ。もちろん中国名があるのだが、二人とも英語名で呼ばれたがったそうだ。アメリカ人としてニューヨークで生まれ育った三人の子どもたちと、中国で生まれ育ち大人になってからアメリカに渡ってきた親たちには、少なからず文化や言葉のギャップがあるだろう。
「僕とシャーリーが会話するとき、彼女が英語で言いたいことをうまく言えないときには、子どもたちが通訳してくれました。それに、親が記入しなければならない大学入学願書なども、子どもたちが助けていたり。物価も人口密度も高いニューヨークで、移民として家族を養うことは決して容易ではありません。けれど、直面する問題は世界中の親が抱える問題となんら変わらず。なにより、子の幸せを一番に願っていました」。
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繰り返される移民たちの日常と並行し、移り変わる時代の流れにも目を向けてみたい。ラム一家の子どもたちが成熟期を迎えた2000・2010年代、時代は目覚ましいテクノロジーの発展を経験する。「地球上のどこの国のティーンエージャー同様、ラム一家の子どもたちもインターネットや携帯に囲まれて育ちました。借りてきたメロドラマのビデオをみる母の横には、パソコンでネットフリックス鑑賞する子どもたち。それが、日常風景だったり」。数センチ先に子の息づかいを感じる親がいれば、その一方で海を隔てて十数年娘に会っていない親がいる。チャイナタウン移民の親と子、うるさいほど近い一方で、気が遠くなるほど静かな距離がある。
散り散りになった家族、街のどこかに消えていった労働者たち
中国系住民の大波がニューヨークに押し寄せたのは、1965年のあと。移民法が改正されたからだった。それまでは移民の流入が厳しく制限されていたが、年間入国数を引き上げ、市民権をもつ者の親族を受け入れる制度などを設けた。以降、流れ込んできた移民や労働者階級が定住し、現在のチャイナタウンの骨格は形成された。その勢いは隣のイタリアからの移民街・リトルイタリーを呑み込んでしまうほどだったが、2000年以降は地価が高騰、食料品店や古い建物は少しずつ閉鎖されてゆき、おしゃれでハイエンドなホテルやカフェ、ギャラリーなどが立ち並ぶようになった。こうしてジェントリフィケーション*を痛感しているチャイナタウンだが、そこに住む移民たちはどう感じていたのだろう。35人の労働移民たちを間近で見つめてきたアニーいわく「彼らはこういった近隣の変化に対しては、特に敏感ではない様子でした」。賃金のほとんどを国に送金し、最小限の暮らしを営む彼らにとって、長年住めど異国の地のジェントリフィケーションなぞに構っている暇はないのだろう。
*比較的低所得者層の居住地域が再開発や文化的活動などによって活性化し、結果、地価が高騰すること。
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ラム一家と35人の見えない労働移民たちは、いまどうしているだろう。「ラム夫婦は6年前に離婚し現在別居中です。父はチャイナタウンを離れ、別のアパートで暮らしています。3人の子どものうち2人は大学生で、親元を離れて暮らしていますが、大学の春休みにはラドロー通りの家に帰省していますね。たまにカメラを携え、いまだに訪ねていますよ」とトーマス。一方、バワリー通り81番地のアパートはもう存在していない。これまでも建物内の安全性の理由から市から立ち退きを命じられたことがあったが、2013年に閉鎖されてからその扉は閉ざされたままだ。
「『写真に写っていた人を通りで見かけた』と、たまに友人から連絡があったりします」とアニー。「が、バワリー通りのアパートの人々とは、それっきりです」
Interview with Thomas Holton and Annie Ling
©Annie Ling
Text by Sako Hirano
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine