“多様性の現代社会”の問題を詰め込まれた「コスチューム選び」。複雑すぎるぜ〈ハロウィンコスの論争〉

ハロウィンのコスチューム選びが年々大変になるな...というハナシ。
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クリスマスだけど、ちょっと前のハロウィンのコスチュームについて。サンタクロースも仮装っちゃ仮装なのでその繋がりで…(苦しい?)。「ハロウィンに“ふさわしいコスチューム”とは何か」をめぐっていろいろと複雑なハナシが巻き起こっている。フェミニズム、文化の盗用…。多様性へ向かう現代社会の中で、一体、何を選べばいいのか。なんだか、「多様性へ向かう現代社会の問題をぎゅっと詰め込んだ」状態になっている。

ハロウィンに繰り広げられる「文化の盗用」vs「表現の自由」

 今年はなんでも軽トラが横転したとか…“渋谷ハロウィン”。日本でもすっかり恒例となったこの行事。スコットランド・アイルランド発祥のソレをいち早く取り入れた米国も、ハロウィンは基本的にはたのしんでなんぼの「祭り」である。ただ、「本人がたのしければ、コスチュームは何を着てもいい」かというと、そうは問屋が卸さない。

「ハロウィンに“ふさわしいコスチューム”とは何か」。それは「今年は魔女かな妖精かな、お化けかな」といった具合のものではなく、たとえば「フェミニストにふさわしいコスチュームとは何か」や「ネイティブアメリカン(俗にいわれるインディアン)の格好は文化の盗用ではないのか」。非常に複雑な“コス選び”に発展している。そんな中で、社会や人権問題に敏感な人ほど、何を着たら良いのか、コスチューム選びに困惑しているらしい。

「多様な人々が互いの違いを認め、ともに生きている社会」こと、多様性へ向かう現代社会。気づけば、より高次元な人権の時代に突入しているわけだが、近年、ハロウィンをめぐって特に話題に登ることが増えたのが「文化の盗用(cultural appropriation)」や「フェミニズム」の観点だ。
 まずは「文化の盗用」。端的にいえば、「優勢で支配的な文化に属する人が、そうではない文化を利用すること」だが、ハロウィンのコスチューム選びにも「他の文化への配慮があるかどうか」が問われるよになっている。わかりやすい例でいえば、「ネイティブアメリカンの血筋ではないのにネイティブアメリカン風のコスチュームを着る」などがあげられる。

 ここで話がさらにややこしくなるのが、「優勢で支配的な文化に属する人」の部分。先ほどのネイティブアメリカンの例が文化の盗用になるのは、「米国人」「西洋人」を指すことになると思うのだが、では、日本人が着るのは「文化の盗用」にならないのか? 個人的には「なる」と思う。というのも「文化の盗用」は、モラルや尊重うんぬんだけの話ではなく、「利益に関わる問題」や「労働問題」の話まで持ち出されるからだ。 
 ネイティブアメリカンが作ったものを購入して身につけているのであればまだマシかもしれない。そうでない場合は、ネイティブアメリカンでない人々が、“伝統衣装を表層的に模倣して作ったもの”を売っていることになり、それはネイティブアメリカンの文化を真似て利益をだし、ひいては「彼らの伝統衣装が売れない(→雇用機会を奪っている)」ところまで話は進むので、私はその「文化の盗用」に加担することになりかねない、となる。
 

同じ国でも「無神経」? 複雑さを増すコスチューム選び

 一定の人気を誇る「花魁(遊女)コスチューム」についても考えてみた。同じように日本の血筋以外の人が着たらすべて文化の盗用になるのか。日本に支配された文化に属する人が着るぶんには問題ないのか、といった疑問が出てくる。

 ここで新たに浮上した(してしまった)のは、仮に日本人でも、裕福な家柄の人が、コスチュームとして「遊女」を選んだ場合だ。遊女とは、昔から男性客に対して性的サービスを中心とした接客で生計を立てていた女性。中には好き好んでその職業についた人もいるかもしれないが、多くは社会的弱者といわれる。つまり、同じ国、同じ文化とはいえ、優勢で支配的な階級に属する人が、そうではない階級の文化を利用する構造が、見えなくもない。見方や時代によっては、図らずも妙なメッセージ性を持ってしまうのがコスチュームの怖いところである。
  
 米国でも、特権階級のホワイトカラーの人たちが、労働者階級、たとえば配達員や工事作業員のユニフォームをコスチュームとして着ているケース。もちろん「(誰かを傷つける意図はなく)ただ着たいから着た」でもいいのだが、無神経さを指摘される可能性があるのも否めない。ピンポイントに実在のものをコスチューム(服飾すべてにいえることかもしれないが)に落とし込むのは、容易ではないことがうかがえる。

 では一体、無神経ではないコスチュームとは何なのか。決してこれが正解ということではないが、万人が認識できる記号的なもの、たとえば、お化けや動物、食べ物、アニメキャラクターといった「わかりやすい(解釈がわかれにくい)コスプレ」は、上述のような思いがけない妙なメッセージ性を持ちにくいと言えるかもしれない。

 米国人弁護士でファッションの法律やそれに関する文化の所有に詳しいスーザン・スカフィディ氏は、無神経ではないコスチュームについてこう話している。「私人ではなく公人、たとえば大統領や議員といった公務についている人を真似たり戯画化するのはフェアだと思いますが、たとえばあたなが、日常的に近所やクラスの誰かを思わせるコスチュームは無神経だと指摘される可能性があるでしょう」。これって、「自分の身近にいる相手(文化の当事者)の立場になって考える」という、至極基本的な道徳だと思うのだが、これが文化の盗用に触れないための基本的なルールではないか、と彼女は言っている。


大統領はオーケーかあ。うーん。

 

フェミニストも困惑。考えすぎ? でも国民行事だからこそ「考えたい」

 米国での女性のハロウィーンコスチュームの王道は、そのイベントに因んだ「ホラー系」か、はたまたイベントとは全く関係なく「セクシー系」、もしくは双方の合わせ技の「セクシーゴースト」。結果、セクシーなものへの偏りがみられ、その背景には「その方が他者からの『承認(いいね)』を得やすい」というのがあった。

 ところが「女性の年(the year of women)」と言われている2018年は少し様子が違った。女性の社会的な立場や役割について見直すフェミニズム運動が活発化し、その影響がコスチューム選びにも及んでいるようだ。
 
 悩みのタネは主に、フェミニストにとって“ふさわしいコスチューム”とは何か。これに対しても、上述のようにあぁだ、こぉだと議論は交わされてはいるが、最終的には「自分が本当に着たいものを着る」という推奨に落ちつく。
 
 米国人フェミニスト作家のレオラ・タネンバウム氏もそのひとりだが、彼女は「そのコスチュームをなぜ選んだのかを自分自身に問うこと」を薦めている。これは女性だけでなく、すべての性別の人に言えることで「なぜ、セクシーなものを選ぶのか。その理由に自分が納得できれば、性的なものでもなんでも好きなものを着れば良い。ただし、その理由が他人の承認を得るためだとしたら、考え直した方が良いでしょう」と説く。彼女は悩める10代の若者たちには、「もしもセクシーなコスチュームを着てみて、何かしらの不安を感じるのであれば、それは何かのサイン。ちゃんと向き合って」とアドバイスしているそうだ。


  
 誰からも反感を買わないコスチュームなんてものはないのかもしれない。祭りにゴタゴタを持ち込むなという声があるかもしれないが、みんなの“自分ごと”であり多くを巻き込むお祭りだからこそ「考えようよ」という声があがっているのだと思う。
 そもそも服飾は、自己表現の一つでメッセージ性を含むもの。ハロウィンに着るコスチュームも例外ではない。多くの人を巻き込む国民行事だからこそ、メッセージ性の高いコスチュームを選ぶという選択もあるだろう。「考えて選んだ」のであれば、他者からの「なぜ、それを選んだのか」にも自分の言葉で答えられる。自己表現とは、まずはそういうことではなかったか…。メイクや仮装の精度が年々あがる一方、コスチュームをめぐる話も年々複雑化するハロウィンである。


以上、ひと月遅れのハロウィン記事でした。

Text by Chiyo Yamauchi
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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