成長するってなんなんだろう。
ただ歳を重ねていくこと。憧憬など持たず現実に目を向けること。「大人」という分厚い皮膚を纏って自由を放棄すること、なのか。
今年9月に出版された一冊の写真集は、センセーションを巻き起こした。タイトルは『Let it Bleed(レット・イット・ブリード)』、一人の写真家が、実の弟を撮り続けたものだ。
その弟が妹へ性を転換するプロセス、そして最終的に辿り着いた「Beyond any gender(性を超えた存在)」までへの姿を15年間に渡り見つめ、その過程の中で自分たちが作り上げた世界を記録した。
写真集『Let it Bleed(レット・イット・ブリード)』
“弟”ギルを撮りはじめた理由
写真家は、Rona Yefman(ロナ・イェフマン)。ロナの実の弟であり、のちに彼女にとって初めてのミューズとなるのが、Gil Yefman(ギル・イェフマン)だ。
ロナ・イェフマン
ロナが弟ギルを撮りはじめたのは、1995年のこと。ヨーロッパを1年半かけての旅で、薬物中毒になり母国であるイスラエルに帰国を余儀なくされた。彼女を実家で待ち受けていたのは、拒食症が原因で瀕死状態のギルだった。当時ロナ、22歳、ギルは16歳。
「この時期は、失ったものを取り戻すかのような時間だった。二人の距離がより近くなったの。そこから彼の写真を撮りはじめた」。
ロナがギルを撮りはじめた初期の一枚
この写真の当時、ギルはまだ“弟”であった。彼が自分の性に疑念を抱くようになったのは、ロナが彼を撮りはじめてから1年後、1996年のこと。
「ギルのカミングアウトを聞いたとき、動揺を隠せなかった。でも同時に素晴らしいことだとも思った。だから“あなたを助けるわ”って伝えたの」
「ギルが私を別の世界に連れて行ってくれた」
1990年代後半の当時は、トランスジェンダーとして生きることは容易なものではなかった。事実、ギルが学生時代に働いていたケータリングの仕事ではトランスジェンダーであることを理由に客前に出ることは禁じられ、挙句の果てはクビ。社会の中で、自分の居場所を見つけられず、日々葛藤と失望を繰り返す中でも、社会に突きつけられた枠に屈せず、その現実と対峙していた。
自作のテントで1週間寝食を共にする二人
そんないまにも壊れそうなギルの姿を一番近いところで見ていたロナが一重に感じたのは、人間としての「美しさ」だったという。だから、ロナはジルの「自分がありたい姿」をファンタジーの中に作り上げようと、写真集を制作していく。
「ギルが様々な困難と衝突しながらも、ありたい姿で生きるその様が、ただ美しかった。だって人はカゴに入れられた“鳥”ではないじゃない。ギルを通して、私は別の世界に行くことができた」
一風変わった家族写真
『レット・イット・ブリード』という写真集に登場するキャラクターは主人公のギル、ロナに加えて、もう一人の兄弟であるOmer(オメール)、そして実の父母であるRafi(ラフィ)とMira(ミラ)だ。
「ギルがトランスジェンダーであることを知った当初、両親は信じられなかったと思う。でもそんなギルを理解できなくとも彼らは徐々に受け入れてくれたわ」。
兄弟3人並んで写るものや、化粧をした息子(娘)を見つめる母の姿、お調子者なのが容易に想像できる父の写真など、それぞれが歳を重ね、実の息子が性を変えてもなお、そこにはなんら昔と変わりない家族の姿が並ぶ。自身の幼少期の家族写真にはとても影響を受けた、とロナは言う。
兄弟として。写真家と被写体として
「ここに並ぶ写真は兄弟としてというより、写真家と被写体として、いわばアーティストコラボレーションというイメージの方が強い」と語るロナ。
その時々の刹那的なリアリティを切り取ったスナップショットもあれば、自分たちで作り上げたファンタジーのストーリーを、写真を介し伝えるものも多い。それはドキュメンタリーという一言では片付けることのできない「フィクションとリアリティ」が混同する作品群だ。
そんなロナに写真家と被写体としてではなく、兄弟として写真を撮ることはなかったのか、と聞くと、
「もちろん撮ることはあったわ。それに、兄弟として喧嘩もたくさんしたわ。これまでに幾度となく、“これが最後の写真”って思ったことか。でも結局それが15年間続いた」
「これが最後の写真」だと思った中の一枚
15年という歳月を経て、現実世界へと変わっていった二人だけのファンタジーの終着地点は、ギルが生物学的には男性に戻り、彼の言葉を借りるならば「beyond any gender(性を超えた存在)」となったこと。従来の社会規範、ここでは性というカゴから解き放たれ、自由になったことだった。
ここは押さえておきたい。「レット・イット・ブリード」は決して「性」がテーマの写真集ではない。確かに、ギルの「性の転換」はこの作品における不可欠な要素の一つ。だが、ここで描かれるのは、思春期に始まり、大人へと成長する中で出会う、苦悩や葛藤、混乱、失望という現実に対峙し、「ファンタジー」と彼らが表現する心の深い部分に触れ、自分のありたい姿を見つけ出した一人の人間としてのギルのストーリーだ。一見すると、かけ離れた世界観のストーリーだが、多くの人が経験する、思春期特有の「自分はなんなんだろう」という圧倒的虚無感、いわば「アイデンティティの喪失」を乗り越え、新たな「自己」を見出すまでの成長過程を表現したものなのだ。
情景を懐かしみ、一つひとつの記憶をその手で引き寄せ、その記憶に浸るようにゆっくりと言葉を選び語ってくれたロナ。最後に聞いてみた。あの日々にもう一度戻りたいですか。
「時々ふと、ギルと過ごし、戯れた日々を思い返すの。そうね。間違いなく、戻りたいわ」
ロナ、そしてギルの二人が成長する中で共にみた、あの景色(ファンタジー)が色褪せることはない。
Rona Yefman
All images via Rona Yefman
All interview photos by Kohei Kawashima
Text by Shimpei Nakagawa