2017年、〈ヒップホップ元年〉と中国が湧いたのもつかの間、「中国政府、ヒップホップ文化は低俗。ラップ歌手はテレビやラジオ出演禁止」。今年1月、日本のメディアでもこのニュースが相次いで報道され話題にあがった。ヒップホップだけでなく「刺青のある芸能人やサブカルは低俗で悪趣味」であることから、中国のテレビやラジオでは扱わないよう通達が出たのだ。いま、中国のヒップホップはどうなっているのか? 実は90年代、00年代まで遡る中国ヒップホップカルチャーのルーツもここで読み解いてみる。
Photo via Bohan phoenix
昨年開催された、ラッパー、ボーハン・フェニックス中国国内ツアー、成都でのライブ。
元年に湧いた昨年。そもそも中国ヒップホップはいつからはじまったのか?
ご存知の方もいるだろうが、2017年、中国はヒップホップ元年だった。2017年6月にスタートしたヒップホップバトルのオンライン番組「中国有嘻哈(The Rap of China、中国にヒップホップあり)」が放送されると、中国全土のミレニアル世代がこぞって放送を見るようになりヒット番組に。中国ヒップホップの元年だと大いに湧いた。
だが、その番組が年末に終わり、シーズン2がはじまるという噂もどこへやら、年明けには冒頭のニュースが中国を駆け抜けた。「中国からヒップホップが消える?」「ラッパーたちの未来はどうなる?」と、一時ファンは心から心配したはずだ。
それから3ヶ月が経った4月13日、「中国新说唱(中国ニューラップ)」というオンライン番組が出演者募集の情報を配信した。これは、「The Rap of China」のシーズン2として、プロデューサーも動画配信メディアも変わらず、英語タイトルも「The Rap of China」とそのまま。「だったら、“中国有嘻哈2”にすればいいのに」と思ってしまうが、中国語タイトルだけをわざわざ変えた理由としては、中国語で「ヒップホップ」を意味する「嘻哈」が敏感な単語になってしまったからでは? と推測する声も。事実、今年1月の政府からの通達後、ヒップホップ関連のイベント名で「嘻哈」をあえて使わない組織もあった。7月14日、今回は「ラップ」を意味する「说唱」を使ってシーズン2がスタートした。
と、新たな中国ヒップホップの盛りあがりの予期を前に、「そもそも、中国にはいつからヒップホップがあったの?」「中国のラッパーってどんな活動をしているの?」という基本的な疑問が湧いてきた。中国全土がヒップホップに湧いたのは昨年とはいえ、急に湧いて出できたわけではあるまい。それよりも前にヒップホップの種を撒き、歌ってきた人がいるはず。現地の人をあたってリサーチと取材を進めるにつれ、まだ「ヒ」の字もない中国で地道に活動を続けてきた人物の存在、そして彼らがつくった中国ヒップホップ・カルチャーが、10年以上前から確実に存在していることを知った。
それでは、なかなか紹介されない中国ヒップホップのルーツをここで紐解いてみよう。“元年”と湧いた中国の現在のヒップホップへの考え(わりと辛口な)も教えてくれた。
99年。ヒップホップの種、アメリカから中国へ
そもそもの「ヒップホップ」のことを簡単におさらいしたい。1970年代初頭、ニューヨークのサウス・ブロンクス地区で生まれたといわれている。当時、アメリカはディスコブーム真っただ中。ディスコに行くお金の余裕がないアフリカ系アメリカ人の若者たちは公園や自宅に集まっては自分たちでパーティーを開催するようになり、のちにターン・テーブルを操り、ラップを口ずさむ 者がではじめ、それがヒップホップのはじまりになったといわれている。HEAPSに当時の当事者を取材した記事▶ゲットダウンでは語られない。ヒップホップ創世期、サウスブロンクスの真実が掲載されているので、詳しくはここから。
さて、そのヒップホップを愛する一人のアメリカ人が1999年に中国・上海に移り住んだ。名前はダナ(Dana)。界隈では彼のことを「中国ヒップホップ界のゴッドファーザー」と呼ぶらしい。「その頃、中国にヒップホップシーンはなかったよ。少なくとも、それを証明できるような録音や文書の記録は存在していなかった」。ダナ自身、中国に移住したのも愛するヒップホップの何かを探しにきたわけではなく、大学卒業後、アメリカにフラストレーションを感じていたときに偶然めぐってきた「中国で英語を教える」というチャンスに乗ったという。初めての中国で自分にできることといえば英語を教えることと、愛してきたヒップホップを中国に伝えることだと自覚。移住してすぐに、ラップの伝達と中国独自のラップ文化の育成に着手した。上海ではヒップホップが見つからなかったため、3年をかけて数十を越す中国各地をまわり、記録されていない隠れたヒップホップの活動のリサーチに没頭。同時に、ヒップホップのイベントを共同オーガナイズしたり、ボランティアとしても様々なイベントに関わったりと、少しずつ中国の音楽関係者との繋がりをつくっていった。
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ダナ(Dana)。
当時、中国語を使うラッパーや、先進的なスタイルを確立したラッパーを見つけるのはかなり困難だったものの、初めて聴いた中国ヒップホップの感想は「ひどい!と思ったよ。でも、まるでドタバタ劇みたいな激しさもある意味、“カルチャーの独自の誤訳”として許容できた」。
2001年、上海で初のヒップホップのバトルプログラム「アイロン・マイク(Iron Mic、鋼鉄麦克)」が開かれる。立ち上げたのはダナだ。「開催当初はバトルではなく、集会みたいなものだったね」。いまでも毎年中国各都市で開催する同イベントは、参加者の制限はなくそれぞれがオリジナルのラップを披露し、数人のジャッジが「バランスが取れているか、勢いがあるか、韻を踏んでいるか」などで勝者を決定する。会場のお客さんの反応で勝者を決定することもあるらしい。参加者らについて尋ねると「出演者も観客もミレニアル世代がほとんど」とのこと。
過去のアイロン・マイクの映像を見てみると、歌詞の内容は身をおかれた環境への不満をはじめ、バトル相手をディスる言葉が飛びかうなど押し強い。各都市から勝ちあがれば中国全土からの優勝者が集う決勝バトルへ進むことができる。最終的な勝者には、賞金とアイロン・マイクのオリジナルグッズがあたえられる。
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実際のアイロン・マイク(鋼鉄麦克)の様子。
これまで、約100の都市で活動を続けてきたアイロン・マイク。今年で17年目をむかえ、知名度もあがり、参加するラッパーの質、見にくる観客の態度も変わってきたはず。「スキルのある、才能のあるラッパーが多く出てきた。と同時に、ダメなラッパーも増えている。ファン層も大きくなっているし、ファンの好みも多様に広がってきていると感じているよ」。では、すでに中国にヒップホップは根づいたといえるのだろうか?
「どうだろうなあ。ただ僕らは、中国国内で年間400ほどのイベント、それを10年以上続けてきたわけだから、影響を受けた人の数はとんでもなく多いと思うよ」。冒頭で述べた、昨年の大ヒットオンライン番組「The Rap of China」にはアイロン・マイクに出演経験のあるラッパーも数人出演していた。しかしながら、番組へのダナのコメントは辛口だ。
「残念ながら、あの番組は、オリジナリティのないままにカルチャーを操作し、ヒップホップコミュニティーへの責任もコミットメントも完全に欠落していると感じている。特に北京の関係者の多くは憤慨していたんだ。たんなる一過性にヒットした番組はフィクションでしかないし、それはつまり簡単に廃れる可能性があるってことだ。ただし、感謝していることが一つ。番組内で、アイロン・マイクについて言及してくれたこと、映像を流してくれたこと。そりゃあそうだよね、いち早く動いていたアイロン・マイクに触れずして中国のヒップホップについては言及できないし、他にヒップホップの映像の素材もないからね。それによって、少なくとも5億人の新たな人々が表層じゃないヒップホップカルチャーを目端に捉えたんだからね」。
ダナは、今年こそ中国のヒップホップが海外にでる時だと考えている。「僕らはいま、前例のない改革と復興が渦になった中国にいる。音楽だけでなく、中国そのものだ。ヒップホップというのは、その先端の槍のようなカルチャーだ。高い賭けになるね」
音楽で話題の成都。どこよりも早くヒップホップが定着
今年の1月、筆者は四川省の成都(せいと)にも足をのばした。中国人の友人からは「成都はナイトライフが充実しているし、中国のラップが以前から盛り上がっていた場所。北京や上海とはまた雰囲気が違う」と聞いていたので興味があったし、確かに昨年の番組にも、成都や重慶(じゅうけい)といった四川省出身のラッパーが数人出演していたのも印象に残っていたからだ。
成都を訪れてまず驚いたのは、スレンダーな若者が多くおしゃれな子たちが多いこと。特に、ストリート系のおしゃれを楽しんでいる若者が目につく。また、成都市内の川沿いには、バーや飲み屋が無数に並んでいて、巨大なナイトライフ・ストリートと化していた。これまで何度も訪れていた北京や上海ではお目にかかれなかった光景だ。
ちょうど友人の紹介で、成都のクラブのオーナーであり、音楽レーベルとストリート・ファッション・ブランドの運営をしている中国人のラビ(Rabbi)と知り合い、彼からも興味深い話が聞けた。ラビは、12年ほど前から音楽評論家として活動し、3年前に成都で著名なクラブNASA(昨年、クローズ)を設立。数年前、中国初のヒップホップ・フェス「ONE MIC(ワン・マイク)」を開催し話題を集めた。今年には、MULAというクラブを新たにオープンし、ヒップホップをはじめソウルやR&Bなどのイベントを連日企画して開催。1月に政府が発した通達の影響を受けることなく、クラブ運営を続けている。
ラビ(Rabbi)。
また、アイロン・マイクが7年目をむかえた2008年には先で述べたダナと知り合い、アイロン・マイクの成都大会開催では運営、ジャッジメントとして積極的に関わった。最近、上海のヒップホップ専門のクラブ Le Baronからオファーがあり、ジェネラル・マネージャーとしての仕事もはじめるなど、成都で中国ヒップホップに長らく足を踏み入れている存在のようだ。
そんなラビいわく、「成都は中国西部のなかでも早くにヒップホップカルチャーが根づいた街だ」。ちょうどアイロン・マイクがスタートした翌年の2002年、成都では初のヒップホップグループが誕生。その後、06年には成都でヒップホップムーブメントを起こしたともいわれるグループBIG ZOO(ビッグズー)が活動を開始している。「その頃から、成都ではヒップホップが盛りあがっていたといえるね」
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中国初のヒップホップ・フェス「ONE MIC(ワン・マイク)」の様子。
中国だけでなく、アメリカでの公演でも成功している中国を代表するヒップホップグループHigher Brothers(ハイアーブラザーズ)も成都を拠点にしているし、14年、テレビの歌バトル番組に出演した成都出身の謝帝(シエ・ディ)は、自作のラップを成都の方言で歌ったことで話題を呼び、高い評価を得た。いまでは多くのファンを抱えるラッパーの一人だ。比較的早くにヒップホップが根づいた場所ということからも、成都はラッパーを生みやすい土壌になっているのかもしれない。
また、ヒップホップカルチャーの要素にもなっているグラフィティやブレイクダンスをはじめ、ストリート・ファッション、スケボー、タトゥーもヒップホップと足並み揃えて盛りあがり、中国にも定着している。ラビ自身、スケボーのコマーシャルビデオ発表会のパーティーをオーガナイズしたこともある。
ラビにも昨年のオンライン番組のことを聞いてみた。「俺自身は支持していたよ。2回しか見てないけどね。ヒップホップを本当に理解しているラッパーが、番組を通してもっと理解されるといいよね。あとは、影響力のある芸能人がファンたちに興味をもたせて、そこを“入り口”に彼らが本当のヒップホップカルチャーに触れようとしてくれたらいいな」
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ラビが立ち上げた音楽レーベルdopeness主催のライブ。ロサンゼルス、ソウルでもライブを開催するなどワールドワイドな活動をしている。
「ヒップホップで金儲け」ではない
実際に活動を続ける中国のラッパーは、いまの中国のヒップホップをどのように見ているのだろうか? 1992年湖北省(こほくしょう)生まれのラッパー、ボーハン・フォニックス(Bohan Phoenix)がインタビューに応じてくれた。
03年11歳のとき、家族とボストンに移り住んでニューヨーク大学で大学生活を送ったのち、昨年7月に成都に移り住んでいる。現在は成都を拠点に、国内外をまわり、英語と中国語両言語を使いこなすラッパーとして活動中だ。初めてヒップホップに触れたのは、渡米前の10歳のとき。台湾の歌手、ジェイ・チョウのラップの曲をカセットテープで聞いた。当時はそれがヒップホップだとも思わず、ただ、いい曲だなと思って聞いていた。その後、13歳のときにアメリカでエミネムの『8 Mile』を見る。黒人の世界、エミネムのストーリー、ヒップホップに興味を持ったのを起点に、次第に自分でもラップをするようになった。
大きなきっかけは高校時代にあったという。希望してゴスペルの合唱隊に参加したときのこと。面接官から「歌はいまいちだけど、ラップできるんだって? だったら、毎回、ラップ作ってきてみんなに合わせて歌ってよ」。当時を振り返り「2年合唱隊に所属して、ラップを作った。あの経験がなかったら音楽で食べていこうなんて考えなかっただろうね。あの面接官には感謝しているよ」
Photo via Bohan Phoenix
Bohan Phoenix(ボーハン・フェニックス)。英語と中国語で作詞をおこなう。
大学時代には自作の作品を26曲作り、ネットで発信しイベントで披露。卒業目前、まわりが就職活動をしているなかでアルバイトを続けながら、ひたすら音楽を聞いては曲を書き、音楽関係者に助けてもらいながら、自分のヒップホップの道を探っていった。「たぶん、300回は参加したんじゃないかな(笑)」とは、ニューヨーク市内の屋外で開催されるオープン・マイクという歌を披露するイベントのことで、人前で初めて中国語のラップを披露したのもここだ。「中国語はわからないけど、何となく君の言いたいことがわかる気がするって言われたよ」。
ユーチューブで5万回の視聴回数を越したボーハンの作品『3 day in Chengdu(回到成都、成都に帰省)』は彼のバックグラウンドのこと、家族がボーハンを支えているという温かい歌詞になっている。ボーハンのように、自身のバックグラウンドを歌詞にしているラッパーもいるけれど、ラビによると「いまの若いヒップホップファンの多くは、歌詞なんてあんまり重視していないんだよね、残念だけど。メロディーがかっこいいという理由だけで聴いたりね」。
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上海で開催された2017年年末の年越しライブ。
ヒップホップ元年の火付け役となった昨年の番組に対する思いを彼にも聞く。「実は、番組へのオファーはあったんだ。でも断ったよ。そのオンライン番組よりもっと前に、アイロン・マイクはアンダーグラウンドカルチャーとして中国で活動をはじめていたよね。当時はネットが普及していなかったから、昨年の番組のようにヒットするなんてことはあり得なかった。でも、もしアイロン・マイクがスタートした頃にネットが普及していたら、中国のヒップホップは早々に盛り上がっていたと思うよ。昨年の番組は、完全にエンターテイメントで、本当のヒップホップ精神を見せていたわけじゃない。ヒップホップとは何か、それを知らないで番組が盛りあがっているから、『じゃあ俺も、フローつけて韻踏んで、ってやればヒップホップっぽくなるかな』なんて安易にヒップホップに手を出す人が出てきたなって感じる。番組がヒットしたからヒップホップ熱もくるというのは、あまりに急すぎるし早すぎるとも思う。それが正直な感想かな」。
決してあの番組のすべてが悪いといっているわけではなくて、と続ける。「彼らと僕の目的は全然違うということ。もし、有名になりたい、金儲けしたいという思いでやっていたら、昨年のオファーは断ってない。金儲けよりも、より良い音楽を多くの人に届けたい」。番組にのっかって人々に知られるというやり方は望まず「中国での認知度はまだまだこれからだけど、僕のヒップホップを好きな人は増えてくれると信じているよ」とのことだ。ファッションブランドのメゾン・キツネが主催するイベントのゲストとして、昨年は東京でもライブをした経験があるボーハン。今年も東京でのライブを予定している。
Photo via Bohan Phoenix
メゾン・キツネ主催の東京でのライブに参加。
今年2月にシカゴで開催したライブにて。
ひとつのオンライン番組をきっかけにヒップホップブームに大きく湧いた中国。突然やってきた波に、もともとの当事者たちは楽観的には見ていない様子だ。「ヒットをなぞる商業ものばかり」との声も多いヒップホップ発祥の米国を尻目に、7月14日に「The Rap of China」シーズン2の放送がスタートした中国。思惑はそれぞれあるものの、ヒップホップというカルチャーに魅了され、夢中になる中国のミレニアル世代が生まれていることは事実だ。
「The Rap of China」シーズン2を見てみると、「俺たちには5,000年の歴史がある」「チャイニーズ・テイストを見せるときがきたんだ」といったセリフとともに「チャイニーズ・ヒップホップ」「チャイニーズ・カルチャー」を積極的に世界に広めていこうという試みが随所に垣間見られる。ここから新たな流行が生まれるのか、または、ダナが言うように一過性のもので廃れていくのか。いずれにしても、1月に発表されたようなヒップホップファンを震撼させるようなニュースが流れないことをまずは望みたい。
Interview with Dana, Rabbi, Bohan Phoenix
Text by Hitomi Oyama
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine