「古い劇場は、ほこりが多く舞い、カビが生えやすい。それがアレルギーや副鼻腔炎を引き起こして、咳やくしゃみの原因になるの。そんな状態でステージにあがって歌わないといけないなんて、最悪よね」
そう話すのは、敏腕・耳鼻咽喉科医リンダ・ダール(47)。耳鼻咽喉科医とは、その名の通り、耳と鼻と喉(のど)を診る医者のことだが、彼女が日々覗きこむ“喉”の持ち主たちが特殊だ。『ウィキッド』や『キンキーブーツ』『アラジン』といったブロードウェイ・ミュージカルの主演級俳優たち。リンダ先生の凄腕っぷりは俳優たちのお墨つきで、“役者人生の恩人”と称されるほど。ブロードウェイ俳優にとって生命線ともいえる〈喉〉を守るプロフェッショナルの仕事裏を探ってみたい。
ブロードウェイ俳優たちの喉を診るリンダ先生。
ブロードウェイ俳優たちの声帯をケアして16年、“喉の医者”
「待合室にいる患者のほとんどが美男美女。他の患者には『どうしてこんなにもゴージャス揃い?』と聞かれることもしばしばよ。その理由は、私が容姿端麗な患者しか診療しないから。いや、冗談冗談(笑)」。
早々に軽快なジョークを飛ばすリンダ先生、キャリア16年目のベテラン。年に5,000人の患者を診療し、その「3人に一人、多い時には2人に一人がブロードウェイ俳優」というミュージカル俳優かかりつけの耳鼻咽喉科医だ。「きっかけは、ある一人のブロードウェイ俳優。彼は来院して以来、なぜだか俳優仲間をどんどん紹介してくれるようになって」。その俳優とは、『レント』の当時のダンスキャプテン。16年経った現在も定期的に来院しているという。
リンダ先生にくわえ、三人の助手は「忙しいときで一日25人から30人の患者を診る」。ブロードウェイ俳優だけでなく、テレビや映画関係者にポップスターなど、時間に不規則な患者が多いため「毎日たっぷり残業。時期によっては週末出勤もあるし、閉院後に鳴る患者からの電話やメッセージにあわせて対応することもあったり」
ブロードウェイ俳優たちは週におよそ8回の公演をこなす。一日のリハーサル時間は8時間、その後に本番を迎える。「彼らは才能を持って生まれたすばらしいパフォーマーで、彼らが演じるミュージカルは圧巻。でもその裏では、身体的にも精神的にも並々ならぬプレッシャーを抱えているの」。トニー賞(ミュージカル作品を対象に贈られる賞)の授賞式シーズンになると、俳優たちは、舞台以外にもテレビやイベント出演などで多忙を極め、通院はおろか、健康管理に割く時間すらない。そのため、リンダ先生は「ステージの楽屋に出張往診」もする。
「たとえば夜7時開演のショーだとしたら、6時には楽屋に到着。開演間近の俳優たちに一列になってもらって、免疫力を強化するビタミンB-12を次々に打っていくわ」。「これまでに何回楽屋を訪れたことがあるって? うーん…。数え切れないほどあるわね」。自らの意思で楽屋まで出向き、俳優たちから診察料は一切とらないという医者心
これが声帯。
「喉だけじゃなく“体”全体を診る。あとセラピストのように話を聞くこともね」
リンダ先生を訪問するブロードウェイ俳優たちはどんな喉のトラブルを抱えているのだろう? 「古い劇場は、ほこりが多く舞い、カビが生えやすい。この環境が、アレルギーや副鼻腔炎、声帯の疲れを引き起こす要因となる。演じる役柄や歌う曲によって症状は変わるけどね」。副鼻腔炎やアレルギー性鼻炎にかかると息がしづらくなり、最悪声が出なくなる場合もあるという。
診療の際は、喉だけでなく体全体を診るのがリンダ先生流。「声には、ビタミンの摂取量や日々の食事、つまり生活習慣が大きく影響している。あとはホルモンも。だから、たいてい体全体を診てあげる。多くの医者は、声帯だけを注意深く診てしまう傾向があるから、多くの診断が間違っているケースもある」。俳優、特に歌手には1年から2年ごとに診療を受けることを推奨する。
喉を酷使しがちな俳優たちへのアドバイスは? 「スチーム吸入器の使用(温かい蒸気を吸引することで症状を緩和させる)に、十分な水分補給、ビタミン補給のためサプリメント摂取も大事。でも、なにより喉を万全に整えるための秘訣は、『生活習慣を見直すこと』ね。ブロードウェイ俳優は20代前半の若者が多い。好きなものを食べ、飲酒も喫煙もたくさんする。役を演じる期間は決まっているのだから、その一定期間だけでも生活習慣を改善すること。役が終われば好きにしていいんだから」。若い彼らを診ることは、「母が我が子を育てるみたいよね」。
「私の診察の半分は、彼らの話を聞いてあげること。彼らの体調の異変に耳を傾け、質問をし、症状を深く探る。体のことだけじゃなくて、セラピストのように彼らの私生活での苦悩、抜擢された役柄、監督の愚痴、家庭の事情など相談役にもなる」。リンダ先生は、体だけでなく心のケアもしてあげる。
壁に飾られた絵画に、待合室の洒落たインテリア。病院っぽさを感じさせない、まるで高級スパのような内装にも理由がある。
「一般的な病院の内装って、辛気くさいじゃない?ただでさえ調子がすぐれない患者たちを、さらに病ませることはしたくないから」。
「正直、ミュージカルには興味がない」
世界トップクラスのブロードウェイ俳優を近い距離からケアするリンダ先生、ここで衝撃告白。「正直いうとね、ミュージカルには興味がないの」。
いままで観たなかで気に入ったショーを強いてあげるとしたら、『カラーパープル』『インディセント』『ブック・オブ・モルモン』、そして『ウィキッド』らしい。「俳優・舞台コミュニティは大好きなのに、ブロードウェイのショーやミュージカルとなると、あまり好きになれなくて。おかしいでしょう?」
ブロードウェイには疎いため、「最初のころブロードウェイ俳優の喉を診たときも、誰が有名で誰が新人かなんてわからなかったから、誰も特別扱いなんてせず、みんなを平等に診たわ」。医師のなかには、「こんな有名人が患者にいました」「彼彼女を診たことがあります」と有名人とのツーショット写真をトロフィーのように掲げる者もいるが、リンダ先生はしない。「ブロードウェイにはあまり興味ないし、人気俳優だからって特別な待遇なんてしない。俳優の喉を平等にケアする」。時として食うか食われるかの殺伐とした業界で互いに競争するブロードウェイ俳優たちにとって、有名・新人関係なく喉に救いの手を差し伸べる先生の距離感は心地がよく、何より信頼できるのだろう。
ニューヨークに「溢れるほどある」という耳鼻咽喉科医院。そのなかでも、なぜリンダ先生がブロードウェイ俳優にこんなにも人気なの? という問いには「I have no idea(わからないわ)」と苦笑いだったけれど。リンダ先生、答え、もうわかっちゃいましたよ。
Interview with Linda Dahl
Photos by Mitsuhiro Honda
Text by Yu Takamichi
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine