2年間の文脈の中に散らばる学びあいの軌跡
フィカルさんの祈りは続いた。立ち上がり、手のひらを上に向け、いつもより入念になにかをつぶやいている。そしてまたひざまずき、頭を地面につける。彼は大いなる祈りの宇宙の中にいる。私もその宇宙の隅っこで、彼をじっと見ている。
その噂を聞いた数週間後、私は香川県のx市にいた。グループのリーダー、フィカルさんに会い、家にあがったその日から、当初の想定よりもだいぶ重く、深く、そして親密に、計画の渦中に身を置くことになった。
この連載では、フィカルさんと仲間たちがさまざまな問題にぶち当たり、それでもめげず、時に迷走しながらも、モスクのために突き進む姿を追う。資金集め、物件探し、そのどれもが外国人の彼らには大難題だ。浮き彫りになる差別や偏見。仲間との不和。
地方都市で外国人が生きることはどういうことか? 信仰とは? なぜそこまでしてモスクを建てようとしているのか?
これは、香川県にゼロからモスクをつくろうと計画するインドネシア人ムスリムたちの、いざこざとどんでん返しと、そして愛と驚きに満ちた日々を追う現在も進行中のルポルタージュだ。
フィカルさんと出会って、1年が経った。その間に、私たちはお互いの悩みを相談し合う友人になった。だからジャーナリズムというよりも、友人とその仲間たちが夢を追う様子を記録したものという表現が近いかもしれない。
私とフィカルさん、そしてインドネシア人のムスリムたちとの出会いから今日までの約16ヶ月の道のりを、そしてその日々に私が目にし耳にし立ち会ってきた彼らのさまざまをレポートしてきたこの連載も、今回でついにひとつの章の完結へ。
第1話「出会いと、初めて足を踏み入れた日」はこちらから。
イスラム教とは、「複雑で機械的で、幻影に支配された時代に対する解毒剤」。第一次世界大戦開戦の前夜のナショナリズムの高揚と物質主義が膨張する時代、ユダヤ教の両親から生まれたジャーナリスト/著作家のムハンマド・アサドは、イスラム教にそう希望を見い出 した。
・
私にとってもこの2年間は多難な時期で、パンデミックの不安や恐怖に飲み込まれそうにも、何度かなった。そんな時、彼らの世界へお邪魔することで、「違い」に何度も助けられ、学びを得た。彼らの世界と日本社会を自由に往来する特権を持っていた私は、ラッキーだったと思う。その世界には現状をねたまず運命を受け入れる柔らかさがあり、浮足立つ世界とは対照的に、いつ訪れても変わらない価値観があった。日本という土地で他文化に順応しながらも、自分の軸を守る意志と柔軟性。困ったときに機能する富の分配が織り込まれた社会が生む善意の連鎖。義理と人情。信じる力を信じ、まっすぐに進む姿から、人間らしく脈打つ生命の律動が聞こえてきた。日本社会から消えゆこうとしているものが、そこにはあった。
同時に、私は自分の欠点と向き合わせられもした。捨てられない他文化へのステレオタイプ、孤独感や恐怖に縛られていること、嫌悪していたはずのコスパや効率性への信仰が自分にもあることや、それが他者との関係の希薄さに繋がっていること。感謝の気持ちや目に見えない物への畏れの欠如。また一方で、自分の価値観の狭さも痛感した。私はある程度許容される自由な社会という枠組みでの常識でしか、物事を感じられていなかった。
確かに私たちは信仰やしきたりなどからの解放を得て自由を信仰しているが、それとて自由という固定された精神を植えつけられているだけなのだ。私たちに広がる内面の宇宙は、ひとつの概念だけが収まるような矮小なものではない。わかりあえないとされるものの深淵にふれることで、私の内面はいくらでも拡張可能なのだ。
私が物思いにふける中、彼は祈りを終えていた。「ありがとうございました」と、深々とお辞儀をする。すっかり太陽は沈み、漆黒の闇が近づいてきていた。私たちは目を合わせ、訳もわからず思いっきり笑いあった。私は、彼の肩をポンポンと叩いた。彼も私の肩をポンポンと叩いた。
外に出るとフィカルさんの奥さんがいた。これからモスクの周囲に数軒ある民家に、菓子折りを持ち挨拶に行くのだという。私はその様子を遠くから見守った。対応した家人たちは、みな特に怪訝そうな表情も見せず、菓子折りを受け取り、かわりにみかんをくれた人もいた。
私たちは違う。でも、同じ理想を抱いている
モスクでフィカルさんたちが担うことのひとつは、ムスリムと日本人との懸け橋になること。フィカルさんは、本気でそう願っている。
これから日本国内のムスリム人口は、増え続けるだろう。日本を支える労働力は世間が思うよりも外国人技能実習生に依存していて、その状況は加速している。そこで重要になってくるのは、やってくるムスリムたちが日本に定住し、命を繋げていくことだ。2世たちは日本人として生き、社会からの反応をもろに受ける。多神教と一神教は水と油だという論調もある。その根拠はなにか知らないが、フィカルさんたちを見ていると、ムスリムと日本人というアイデンティティを共存させ、社会に溶け込んでいくのは、可能な気がするのだ。私には、彼らはアイデンティティの置き所を、触れることも、見ることもできない存在にゆだねることで、国家や民族などの些細な枠を捨てようとしているように見えた。
特に、インドネシアは、様々な宗教が混然一体となり、アミニズムやシャーマニズムが、ムスリムの中にも共存している。そして幸い、日本人とムスリムにおける関係の歴史は浅く、遺恨が少ない。日本政府は、第2次世界大戦前の1917年に起きたロシア革命の混乱から避難した、ムスリムを受け入れ、モスク建立の支援をおこなったが、その頃が本格的な日本人とムスリムの出会いだっただろう。「日本は、ムスリムが他国でマイノリティとして身の危険を感じずに生きられる、貴重な国」というフィカルさんはいうが、その歴史の浅さがいまのところポジティブに作用している。だからこそ、欧米などでは築けなかった関係性がこの国で生まれ、熟成されていく可能性がある。このモスクが、その礎のひとつになることを願うばかりだ。
そのために私たちはなにができるだろうか。現状、私たちはイスラム教に対し恐ろしく無知であり、多層的にバイアスがかかっている。無知は、少し間違えれば、暴走することがある。まずは私たちが彼らのグラデーションを知り、境界線をぼかし続けることが必要だし、ムスリムたちも日本社会に積極的に溶け込むことが重要だ。フィカルさんたちはオープンだが、日本人と距離を置くムスリムもまた存在する。しかし、これだけは忘れないようにしたい。私たちは同じ地平を目指し、学びあえるということを。
1400年前、ムハンマドは神からの啓示をもとに平和への道を教えに残した。誰もが等価値を持つ存在になり、差別や階級、恨みや憎しみがない世界をつくる方法を。
その夢を見ているのは、ムスリムだけではない。こには書ききれないほどの偉人、哲学者、アーティスト、生活者たちも時代の変遷とともに手法を変えながら、普遍の理想を追いかけてきた。私もまた、その不断の努力の延長線上で、同じ夢を見て筆を執る。
私たちは同じ夢を見ている。ただ、方法が違うだけなのだ。
まだまだ、神はフィカルを休ませない
モスクの物件を購入したニュースは、全国のインドネシアコミュニティに知れ渡った。溶接工がリーダーの小さなコミュニティが、たった6ヶ月ほどで、しかもパンデミックの最中に、2,600万円を集めた奇跡。その異例の成功に、驚きとお祝いの言葉がKMIKに届いた。そしてリーダーであるフィカルさんは、今度は各地でモスク建立を目指すムスリムたちから相談を受ける立場になった。ある日、フィカル家の応接間に愛媛のインドネシア人ムスリムコミュニティのリーダーや中心メンバーが教えを請いに来た。リーダーは女性で、大学の教授として日本で暮らしている。その他のメンバーは、まだ若い留学生のようだ。
2年前、私はこの場所でフィカルという男、そしてインドネシア人コミュニティの宇宙に一歩足を踏み入れ、突入した。あの時「人前で喋ると手が震える」と言っていた溶接工が、堂々とエリートたちへ経験や方法を伝えている。
Photo by Shintaro Miyawaki
まだ追いはじめて間もない頃。フィカルさんが自宅に招いてくれた。
数日後、モスクに行くと、1階の床が水浸しになり、泡だらけになっていた。数人のインドネシア人がモップをもってかけまわっている。その日はKMIKのメンバーが主体となり、建物の床や壁、トイレ、窓をきれいに掃除をしていた。
呼びかけもしていないのに、40人くらいは掃除に参加していたであろうか。幸福な時間が流れていた。掃除でさえ楽しんでいるようだった。プトラ君も、アルムも、アディさんたちも、晴れやかな顔で窓を拭いたり便所掃除をしている。こんなに解放感がある掃除の風景は初めて見た。会う人会う人が、握手をしたり、抱きあい喜びを共有している。
・
そして、お祈りの時間をむかえた。フィカルさんは、いつもの巨大なブルーシートを広げた。すると部屋の大きさにぴったりだったので「この建物はモスクになるためにあった。運命だわ」 と私が言うと、笑い声が起きる。皆トイレやキッチンの水場で順番に体を清めているが、いつもより心なしか、焦っているように見えた。早くお祈りしたいという思いがそうさせているのだろう。
先頭に立つ若い男がアザーンを歌う。あまりの美声に誰かと確認すると、農家のワディン君だった。いつもは頼りなさそうなナイスキャラの彼だが、アザーンは超絶的に上手だ。
2年前、初めて見た集団での祈りの時と同じように、みなが数列に並んだ。高揚感をおさえきれない様子で、うつむいて言葉を発するときでさえもつい笑顔になってしまっている人もいた。浮足立つ祈りの現場が、彼らがどれほどこのモスクを待ち焦がれていたのかを、物語っていた
それからしばらくして、3月の下旬にアディさんが帰国する前に送別会もモスクで行うことができた。アディさんは最後のスピーチで涙ながらにこう言った。「本当にモスクができてよかった。私はずっと忘れません。そしてみんなにお願いがあるのですが、これからモスクを維持するのは大変なので、お兄さん(フィカルさん)のことを、信じて、応援してください」
その時、参加者の全員が涙を流していた。もちろんフィカルさんもだ。初めてのモスクでの寄合の理由は、友人を送り出すことだった。初めてのラマダンの月は夜になると集合し、みんなでご飯を食べた。宗教的なことを語るのでもなければ、なにか企てをするためでもない。ただ食事をわけあい、空腹を満たす喜びを共有していた。
モスクの物語は、やっとはじまったばかりだ。この原稿を書いている2022年の3月。まだ内装工事は完了していないので、正式にオープンはしていないが、祈りの場としては機能していて、みんな自由に出入りしている。トイレ、水回りなど直さなければいけない箇所がたくさんある。ここではまだ詳細はかけないが、フィカルさんはいま、また新たなトラブルに巻き込まれ、頭を悩ませている。まさか、物件購入した後にさらなる困難が待ち受けているとは、私も想像していなかった。
これからも、このモスクから様々な課題も見えてくるだろう。日本で身をうずめることを決めた移民1世がつなげた次世代は、日本社会で、イスラム教徒、移民の子ども、日本人という多層的なアイデンティティを抱え生きていく。彼ら自身からも、様々な言論や意見がでてくるだろう。それも含め、このモスクでどんな出来事が起きていくのだろうか。まったく予想できない。
しかし彼はきっとこう言う。「お祈りしとけば、大丈夫や」と。だから、大丈夫なのだろう。多分…いや絶対に。
まだまだ神は、この男を休ませてくれなさそうだ。私たちの関係も、友人として、取材者として、続いていく。多分、私の役割はそれなのだ。
これにて本連載は一区切り。約2年にわたり、ご愛読ありがとうございました。
今後も折々に「それから」についてを出していければと思っています。
執筆者である岡内大三からのメッセージと、そして本連載の書籍化のお知らせです。
連載開始前、「私みたいな普通のインドネシア人の話を、誰が読むんですかね?それに、ムスリムの印象よくないし、悪口言われませんかね?」とフィカルさんは心配していましたが、いざはじまると読者様からのポジティブな反応が多く、フィカルさんも私も、勇気をもらえました。モスクが完成するかどうかわからないままの見切り発車でしたが、そういった反応がフィカルさんの原動力の一つになったのは間違いありません。その意味でも、みなさまに感謝の気持ちでいっぱいです。とはいえ、本文にも書いた通り、これからどう運営していくかがフィカルさんたちにとって、大切なこと。スタートラインに立ったにすぎません。
彼らがモスクを通じ、どんな人とつながりを持ち、どんな活動を彼らがしていくかを今も追っていますが、次々とドタバタな事件が起きています。日本社会と相互に信頼関係を築くことの難しさを感じることもありますが、しかし、最終話で書いた「学びあえる」という視点を持つことが、すべての土台になると考えています。
モスク建立後も違った側面から彼らの力強さを目のあたりにしているので、そのあたりの記事を不定期にHEAPSで書いていく予定です。
これからも暖かく見守っていただけますと幸いです。
そして、本連載を加筆修正しての書籍化が決定しました。
2023年1月26日に、晶文社から発売予定です。
――在日ムスリム奮闘記 岡内大三 著 四六判並製 288頁 定価:1,980円(本体1,800円) 978-4-7949-7350-4 C0036 〔2023年1月26日発売予定〕
連載では書ききれなかった、ムスリムたちの悩みや日常、フィカルさんのバックグラウンド、KMIKメンバーの素顔、また学びあいの視点と異文化共生についてを掘り下げています。書籍を通じて、可視化されづらいムスリムたちの個性が多くの人たちに届くことは意義のあることですし、ムスリムではない移民やマイノリティとの共生を、私たちが考えるきっかけになってほしいと書き進めました。コロナ以降、様々な分断が起きている今だからこそ、読んでほしい本になったと思っています。書籍化に関し、フィカルさんも喜んでくれています。これも皆さんの応援があってこそです。改めて、お礼を言わせてください。
予約受付もはじまっているので、晶文社のサイトから情報をチェックしてください。
こうご期待!
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
(some are captured from a video by Shinsuke Inoue)