第11話 70人のイスラム教徒と原爆資料館へ。追想する“あの日”と消えた友人、私がいま彼らを取材する理由|香川県モスク計画、祈りのルポ

香川県にゼロからモスクをつくろうと計画するインドネシア人ムスリムたちの、いざこざとどんでん返しと、そして愛と驚きに満ちた日々を追う。
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「香川県にモスクをつくろうとしているインドネシア人がいる」

その噂を聞いた数週間後、私は香川県のx市にいた。グループのリーダーと会い、家にあがったその日から、当初の想定よりもだいぶ重く、深く、そして親密に、計画の渦中に身を置くことになった。これは、香川県にゼロからモスクをつくろうと計画するインドネシア人ムスリムたちの、いざこざとどんでん返しと、そして愛と驚きに満ちた日々を追う現在も進行中のルポルタージュだ。

第10話は、ちょっと骨休めに、70人で宮島旅行へ。だけど案の定(?)事件は起こるし、はちゃめちゃに。そんな前回はこちらから。

原爆資料館で立ち現れたムスリムの葛藤

 バスに乗り、原爆資料館へ向かう途中、フィカルさんの電話が鳴った。ついに弁当屋からの着信があったのだ。電話の声は申し訳なさそうに謝罪している。どうやらやっと70人分の弁当が完成したので、原爆資料館の近くまで持ってきてくれるとのことだ。しかし、到着するのは15時くらいだというし、弁当を食べる時間などないだろう。まったく、いつ私の空腹は満たされるのだ。

 資料館に到着すると、フィカルさんは急いで待ち合わせ場所に、弁当を受け取りに向かった。「弁当はひとまずバスに置かせてもらって、そのあと資料館に行くわ」という。私は、待つのも面倒だったので、先に中に入ることにした。
原爆資料館も混雑を極めている。私にとってもリニューアル後は初の訪問だったが、内容の恐ろしさは若干薄まっているように感じてしまった。以前のものは、トラウマになるほどだったのに、社会はトラウマを排除しようとしているのか、というのが率直な感想だ。とはいえ、原子力爆弾の破壊力と地獄のような光景や悲劇は、しっかり伝わった。インドネシア人のなかには、嗚咽をするほど泣く人もいた。みんな神妙な顔で、悲劇を見つめている。

 私は混雑が嫌だし弁当を早く食べたいしで、足早に展示を見て、ロビーでフィカルさんを待った。30分後くらいに現れた氏は私を見つけるなり、「こんなの許せんよ! なんの罪もない人たちが、こんなことされるなんてひどすぎる! 日本人はもっと怒ったほうがいいんじゃないですか?」と言う。

「もう終わったことだし、日本人もひどいことをたくさんしたでしょ。ずっと恨んでいたら、また戦争が起きるし、忘れるのが一番だったんだよ」

 私の解釈では、同じ過ちを繰り返さないようにこの資料館は存在している。過ちとは原爆に限ったことではない。どんな方法であろうと、人が殺められること、戦争への問いを全人類に突き付けるために、ここは存在する。フィカルさんはこう続けた。

「まあ、そうやなあ。でも、あの写真見ましたか? どこかの、国会みたいな場所に政治家が集まって、拍手しているやつ。あれ、ほんまにほんまに腹立つね。許せんね。原爆の攻撃が成功したことを、みんなで喜んでるんやろ?」

 そんな写真があっただろうか? フィカルさんに頼み、その写真があるところへ連れていってもらった。彼が指さす写真は、確かに議事堂で政治家が拍手をしている写真だったが、カラー写真だし、国連の会議のようだ。これは核廃絶を目指すことが決まったときの写真だ。

「えー! そうですか。勘違いしてしまったね」という。「昔な、有名なテロリストを殺したやろ? その時も、政治家が拍手している映像をニュースで見たね。もちろん、テロリストはひどい人やし、イスラム教では人を殺すのは絶対に許されない行為やし、彼の考えにはまったく賛成できないよ。ムスリムへのイメージも、最悪になったしな。でもな、人を殺して拍手するのは、おかしいよ。その映像を見たとき、いやな気分になったんを思い出してしまったんや」

 展示を見て、私はかつてここにいた生活者たちの地獄のような苦しみと無念を思った。フィカルさんもそういう想いで見ていたと思うが、同時にまた違う恐怖ともリンクしたのかもしれない。憎悪の矛先が、いつ自分たちに向かってくるかわからないという恐怖だ。

 その恐怖はある1日を境に、彼らの中に明確に芽生え、根付いたままでいる。そう、9.11だ。ムスリムが世界の敵になった日。
 この日は私にとっても大きな転換となった。私は、あるムスリムの友人を思い出した。彼との別れが、いま私がフィカルさんたちを取材している理由なのだ。少し、その話をしたい。

イギリスで迎えた9.11と、消えた友だち

 私はその頃、イギリスの田舎町にある国際色豊かな大学の寮で住んでいた。いまでも克明に、あの日のことを覚えている。薄暗いリビングにあるブラウン管のテレビを、インド人のサラ、ケニア人のデビッド、中国人のジェフ、スペイン人のペドロ、イングランド人のベン、パキスタン人のアブで、見入っていた。何度も繰り返される、飛行機が巨大なビルに吸い込まれる瞬間の映像を、私はまるで映画のような、現実味のないものとして受けとっていた。

 しかし、イスラム教徒が身近にいるヨーロッパやアフリカ、インドで生まれ育った彼らには、他人事ではなかった。このなかで唯一ムスリムでパキスタン人のアブは、私の席の前でピクリとも体を動かさずに、座っていた。アブは坊主頭にくりっとした目の、物理を専攻する優秀な男だった。彼はサッカーを愛し、特にリバプールのチームを熱狂的に応援していた。私がこの寮に越してきてから最初に話しかけてくれたのもアブだったし、中田のファンだという彼とはサッカーの話をよくした。気のいい、よく笑う青年だった。

 ニュースでは、眼鏡をかけたコメンテーターが感情的にしゃべり続けていた。私たちは、無言を貫き、ピクリとも動かなかった。感情をできるだけ表に出さないように、まるで時が止まったかのように、悲しみに暮れるアメリカ人のへのインタビューを聞いていた。その直後、アメリカ国旗を燃やし、踏みつけ、半狂乱で喜びの声をあげる集団が映った。アラブのどこかの国の映像だった。

 誰かが急いでテレビを消した。私以外が全員、無言で立ち上がり、一言も声を交わさず、目もあわさないまま、各自の部屋へ戻っていった。多国籍多宗教の友人たちが暮らす小さなコミュニティのなかで、どうすれば波風が立たないか、誰もがニュースを見ながら考えていたのだろう。彼らの振る舞いは、イスラム教に無知であり国際問題と縁遠い島国から来た私に、強烈な衝撃をあたえた。あまりの情報量がのしかかった重い沈黙は、私から立ち上がる気力を奪い、複雑にもつれた歴史の糸がこの世界に存在する事実を、私に突きつけた。あの悲惨すぎる現実を見て、悲しむ人と喜ぶ人が、この世界に同時に存在すること。ニュースに映るアメリカ人への感情移入はできたが、アメリカ国旗を燃やした人々がどんな心情や過去をもってあのようなことをしたのかは、その時の私の未熟さでは、理解がまったく及ばなかった。

 やっと自室に戻る途中、ある部屋からすすり泣く声が聞こえてきた。アブの部屋だった。私は少しでも慰めたくてノックしかけたが、思いとどまった。あの時、席を立ったみんなが貫いた無言の意味を、大切にしたいと思ったのだ。しかし、いま思えば、それは大きな間違いだったかもしれない。

 次の日から寮の友人たちは、なにごともなかったかのように日常を取り戻した。アブにも、誰もがいつも通り接していた。だがそれからの数日間、彼の部屋の前を通ると、なき声が聞こえてきた。

 彼は一度だけ、リビングでみんなに見えるようにお祈りをした。なぜそうしたのか私にはわからないが、それは初めて見たムスリムの祈りの現場だった。いま思えば、あの祈りは何かの決意だったのだろう。アブは、祈りにどんな思いをひそめたのだろうか。

 10月頃、一時的に私は寮を離れた。ケンブリッジとロンドンでしばらく過ごし、ひと月後に寮へと戻った。すると、アブは寮から消えていた。大学からも消えていた。誰に聞いても、その行方や消えた理由はわからなかった。当時SNSのない時代、それはほぼ永遠の別れを意味していた。

 私は強いショックを受けた。あの時、慰めるべきだったのではないだろうか。それができたのは、イスラム教と縁遠い国から来た私だけだったのではないだろうか。この一連の出来事は、あまりに多くの問いを私に突きつけた。
 同じ人間なのに、同じものを見て、なぜ感じ方がかわるのだろうか? なぜ人を殺める行為が立場によって正当化されるのか? なぜ人は差別をするのか? 

 私は当時、イギリスで差別を受け続けていたが、やがて私の中にもイギリス人への憎悪が芽生えてしまうのかもしれないと思うと、怖くなった。他文化との共生とは、自分との闘いなのだ。アブが消えたとき、私はそれを確信した。私は、それに打ち勝つことができるのだろうか? そんなことを考え続けたが、答えがでることはなかった。

 それから19年後の2020年の11月。私はイスラム教徒たちとともに原爆資料館を訪れているのだから、人生は不思議なものだ。




やっと手に入った弁当。私の決意と彼らの未来

 さて、いろいろと思い出し考えると、余計お腹がすいた。ちょうど資料館の出口の前にフィカルさんがいた。彼は申し訳なさそうにビニール袋を渡してきた。中には弁当が入っている。白米と焼いた鳥肉、それだけの簡素なものだった。

「やっと弁当が手に入ったね。ごめんね」とフィカルさん。「なんでこんなに遅くなったんかな?」と聞くと、遅延の理由は「家庭用の炊飯器が1個しかなくて、1度に5号分の米しか焚けないので、時間がかかった」とのことだった。私は唖然としたのだが、フィカルさんが「もっと大きい炊飯器を買ったほうがいいよ! って言ってやったね。でも、まあしょうがないね」と納得しているのにも、唖然とした。それより、前日から仕込んどけよと思うのだけど。ほんと、なんなんだこの旅行は。

 そんなこんなで、もうX市へ戻る時間を迎えていた。すっかり運転手とフィカルさんたちは仲良くなっていて「すごいドライビングテクニックですねえ」と褒めたたえている。私は、冷えて味気のない弁当を食しながら、またアブのことを思い浮かべていた。2001年からも悲劇は何度も繰り返し起き、ムスリムの置かれる立場は厳しくなり、それによる固定観念がさらに強固になっている。彼はいま、何をしているのだろうか。

 ニュージーランドにいた頃、仲良くなった留学生のサウジアラビア人たちは口をそろえ「あなたたちが、私の宗教を悪いものだと思っていることを知っている」と、寂しげに言った。16歳の少年もいた。彼らも、固定観念に苦しんでいた。ムスリムであり、個人でもある、友人たちの顔が浮かぶ。私自身もまた、固定観念と闘いながら、いまフィカルさんや仲間のリアルな姿を追っている。

 戻ったら、また募金活動がはじまる。あと1,110万円。かなりの高額だが、もうゴールは少し見えてきている。彼らの軌跡を、最後まで見守ろう。そう思いながら、弁当を完食した。


次回、フィカルさんが最後の一手をくりだし、目標金額に達する。ついに、物件購入の契約書にサインへ。その過程で、なぜフィカルさんがここまでモスク建立にこだわるのか、新たな理由が見えてきた。フィナーレは、もうすぐそこだ。

Text and Photos by Daizo Okauchi
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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