真っ白なミンクのコートや粋な着物をサラッと着こなす。そんな凛とした佇まいに加え、メディア関係者から聞く、彼女の評判もすごかった。「津山さんはね、Facebookのマーク・ザッカーバーグにもインタビューした方なのよ」「共同通信社に19年勤められた敏腕記者さん」「ニューヨークを拠点に世界で活躍するトップクラスの日本人ジャーナリスト」
私が初めて彼女に会ったのは2012年の冬。「大御所」という勝手なイメージが先行し、その時は話しかけるのがためらわれた。だが、のちに、彼女が執筆したあるコラムを読み、その印象がガラッと変わった。
「ハーレムにある、一回10ドルのバーバーショップでヘアカット」という体験記。安かろう悪かろうの地元のバーバーショップが「お気に入り」というではないか。
記者の仕事は「事実を伝えること」。功名心や自己陶酔はご法度
化粧やネイルはほとんどしない。「けれど、着るものを考えるのは気分転換になるので、楽しんでいます」と朗らかに語る。取材の日、「久しぶりのお化粧をすると、顔に何かがのっかっているみたいで気になっちゃって」とはにかみ、何度か手鏡を覗き込んでいたのが印象的だった。
その日は、大統領選挙予備選のニューヨーク州投開票日から2日後の昼下がりだった。それまで、彼女のスケジュールは朝から晩まで取材一色。各候補者の演説に足を運び、何万人という人ゴミの中で、6時間以上も立ちっぱなしだった日もあった、という。帰宅後は、休む間もなくパソコンを開き、数時間でルポを寄稿し、日本へ送る。目を瞑ることができるのもつかの間。翌朝6時には、ラジオの生放送出演が待っている。
強靭な体力と技能と精神力を要する仕事であることは、言うまでもない。だが、津山は「大変だった」「疲れた」は決して口にしない。
長時間立ちぱなしで、足痛くないですか?、の問いには、「はい。昨晩は寒かったので、演説がはじまる頃には、足の感覚がなくなっていました」と返答。津山は仕事に関する質問には、一貫して、体験した「事実」のみを述べる。個人の感情は盛り込まない。それは、彼女の記事にも共通することだ。
「アメリカで起こっている事実を、正確に伝えるのが私の任務。それを知った読者やリスナーが、どう感じるか、受け取るかを操作したくないのです」。ゆえに、取材をするときも、伝えるときも、ニュートラルな視点でいるのだという。それは、心がけている、というよりは「もう染み付いていること。『行間でみせる(行間で見せて、読み取る相手の読解力に委ねる)』というのを、昔から先輩記者たちに叩き込まれてきましたから」
あの頃は、「そういう時代だったのです」
「先輩記者」とは、共同通信社時代の同僚を指す。津山が同社に新卒入社したのは1988年。男女雇用機会均等法が施行されてまだ2年という年だった。「同期40人中、女性はたったの3人」。最終面接で聞かれたのは「結婚しても、妊娠しても、この仕事を続けたいですか」「警察担当だと、死体を見ることもあるかもしれない。(あなたは女性だけれど)それでも平気ですか?」など、性差別的なことばかり。それでも、入りたい一心で、どんな問いにも「はい!と答えましたよ」と振り返る。
生まれは東京。育ちは鎌倉。文章を書くのが好きな文学少女だった。フェリス女学院で中高一貫教育を受け、国立東京外語大学のフランス語学科へ進学。「無菌室」のような安全な場所で、少女時代をのびのびと過ごした。
一方、「大学時代は、あまり真面目な学生ではなかったかも」と振り返るのは、授業に出るより、出版社でのアルバイトに勤しんでいたから。当時、一斉を風靡していた「女性週刊誌『an・an』の編集部で働きたくて」と、アポなしでマガジンハウスの総務部を訪れた。「アルバイトをさせてください!」。募集していません、と一蹴されるも、「君、『鳩よ!』なら募集してるけど?」と誘われた。『鳩よ!』(2002年廃刊)は詩の雑誌だった。
「それはもう地味の極みでしたよ。『an・an』とは大違い」。しかし、執筆を生業にする大人に接する機会を得たことや、知らなかった詩の世界の奥深さを学べたことは大きかった。「インターネットがなかった当時、生きた情報は、人に会ってお話を聞くことと、自ら経験することでしか得られなかったから」
タバコの煙で靄がかった社内で、1日200回の電話
入社後は、福岡に配属され、犯罪報道記者としてキャリアをスタート。「丁度、山口組が九州に攻め込んで、地元の暴力団との抗争があった時期でして」と、入社早々に暴力団関連事件を取材した。
メールもインターネットもない時代の記者生活。情報は「約50の警察署に1日4回、つまり200回近い電話をかける」ことで得ていたという。それが、いち早く情報を得る一番の方法だった。「事件、あるよ」と言われたら、その場で内容を聞き取り、ペンを握る。指定の文字数に合わせて、原稿用紙の最後のマス目にピタリと「。」を置くスキルも「できて当たり前のこと」だという。
できるだけ警察署に顔を出し、署の人に名前を覚えてもらうことも欠かさなかった。「ライバルは他社の同期の記者。彼らが週に2回通っていると聞けば、私は3回通った」。しゃかりきゆえに、残業は月に200時間を超えることもざらだった。
男性優位の記者生活は、辛いどころか「むしろ、得することが多かった」という。「ほら、どこへ行っても男ばっかりだから。女というだけで、社外でも社内でも、顔と名前を覚えてもらいやすいでしょ?」。機転を効かせてしなやかにその場に順応する力、それは津山が身をもって持って得た、処世術だ。
「“女性初”の津山さん」と呼ばれて。日本で出世か、ニューヨークで独立か
あらゆる意味で、いつも社内の「女性初」だった津山。2003年、ニューヨーク特派員の辞令を言い渡されたときもそうだった。「女性初の主要海外都市特派員」だと。
だが、一部の男性記者は、さすがにこの異動には嚙みついた。「あの時は、嫉妬されましたね。なんで、わざわざ女を行かせるのかと」。
経済部に属していた津山の仕事は、ニューヨークの為替と株の変動状況を、いち早く正確に日本へ送ること。週5日、朝8時から深夜0時まで、調べて書いて、調べて書いて、を繰り返した。問答無用の激務であるが、この仕事は「そういうものだ」と理解し、疑問は感じていなかったという。
しかし、渡米から約2年経ったある日、目の覚める事件が起きた。同僚の先輩が社内で突然倒れ、脳出血で急死。悲しみと恐怖が同時に彼女を襲った。「あとで気づいたことですが、その時残された私たちはPTSD(心的外傷後ストレス障害)でした」。午後になると、過労で意識が朦朧とする日々。「このままだと、次に倒れるのは私かも」。
「迷いました」。東京への異動辞令。帰国する飛行機の中で、通信社での昇進を狙うか、それともニューヨークに残るかということを、真剣に考え始めた。今後、本当にやり続けていきたいことは何か。熟考すればするほど、明確になったのは「経済だけではなく、この街の人々や文化の奥深さ、活気をもっと日本に伝えていきたい」という想いだった。帰国してすぐ、津山は退職届を出した。
フリーランスだからこそ、会えた人、できた仕事
07年に独立し、津山は再びニューヨークへ戻った。それまで以上に「より広く、アンテナを張るようになりました」。津山は毎朝、米紙『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントンポスト』、英紙『ザ・ガーディアン』、日本の『毎日新聞』と、数社の新聞に「時間があれば2時間かけて」目を通す。
独立後は、『AERA』『週刊ダイヤモンド』などにアメリカの政治、経済、社会情勢について幅広く執筆。過去には、ユーチューブの創業者スティーブ・チェン氏、フェイスブックCEOのマーク・ザッカーバーグ氏にもインタビューしてきた。
また、昨年は『AERA』に寄稿したノーベル平和賞を受賞したパキスタン人の少女、マララ氏にインタビュー。今年は日本を代表する音楽家、坂本龍一氏へのインタビュー記事も好評を得た。そして、今年は、米国の教育をテーマに取材を重ねた著書「教育超格差大国アメリカ」を出版。年内にさらにあと2冊の出版が決まっている。
津山が取材する相手は、起業家、人権運動家、音楽家、と多岐にわたる。これは「フリーになっていなければ、できなかった仕事」だという。通信社では、経済部所属である以上、経済のことだけを書くのが仕事だった。「もし、あのまま会社員を続けていたら、坂本龍一さんにお会いすることはなかったでしょうね」
記者の本懐を遂げると、時給はマクドナルド以下かもしれない
「いまも、自分のインタビューのスキルは確実に伸びていると思います」と津山。昨年よりも今年の方がいい仕事ができる、と自信を見せる。英語は、彼女の母国語ではない。だからこそ「練習すればするほど、上達する」と、取材準備に余念がない。常に自分の限界に挑むストイックな姿勢は、トップアスリートさながらである。
たとえば、取材時間は「わずか25分」と限られていたマーク・ザッカーバーグ氏やマララ氏のインタビューでは、短い時間の中で、どれだけ他のメディアがまだ取り上げていない情報を引き出せるかが腕の見せどころ。「取材前夜は、ホテルを借りて、インタビューの予行演習が欠かせない」という。1秒たりとも無駄にしない、スムースな進行をシュミレーションする。なぜなら、「一瞬でもつっかえたら終わりです。合同インタビューなんかですと、その瞬間に他の記者が割り込んできますから」。
妥協がないのは、日本語での取材のときも同じだ。坂本龍一氏のロングインタビュー前には、「彼の本を10冊以上は読みましたし、彼の音楽を知るためにCDも購入して聴き込みました。あと、彼がプロデュースを担当した大貫妙子さんにもお話を伺いに行きました。そのために彼女の本や音楽にも触れて…」。
「時給にしたらマクドナルドで働くより低いかも」とも自嘲する。そのくらいの時間をかけて膨大な資料の収集や関係者へのききとりを通じて事実を探り明るみに出している、というのは本当の話だろう。
しかし、仮に「時給にしたら…」という思いが頭をよぎったとき、彼女はどうやってモチベーションを保ってきたのか。理想と現実との落差に絶望することや、不満を覚えることはないのか。
すると彼女は「鋭い質問ですね」と微笑み、こう返した。
「結局、妥協ができないのが自分ってことなのかもしれませんね」。
いくら謙虚でも、不満を覚えたことはあるかもしれない。しかし、だからといってモチベーションを下げることも、妥協することもない。いや、”できない”のが、津山恵子という人間なのかもしれない。
将来を約束されていた会社員記者、というキャリアを手放して飛び込んだ「ニューヨーク在住ジャーナリスト」の世界。そこは、宝に溢れていた。新たな気づきと発見の連続。一つの仕事が、次なる仕事へと繋がっていく感覚。トップジャーナリストという手にした立場の重みとその自由。「自分とはまったく違う人生を歩んできた方々と、一緒に仕事をし、体験する。それは、とても恵まれていることだと思います」。ジャーナリズムを天職と心得て励む。自ら切り開きたどり着いた崇高なるその世界で、彼女は「気づきと学びの幸せ」をいまもこれからも嚙みしめ続けていくに違いない。
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Photos by Kohei Kawashima
Text by Chiyo Yamauchi