ギャングがたどった国道「ルート66」逃走、運び、食の道—Gの黒雑学(番外編)

【連載】米国Gの黒雑学。縦横無尽の斬り口で、亜米利加ギャングの仮面をぺりぺり剥がし痛いところをつんつん突いていく、三十四話目。
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書籍化もあったことだし…、せっかくなので久しぶりに、追加をひとつ。今回は北米大陸を東西に横断した、旧国道「ルート66」に注目。「アメリカのマザーロード(母なる道)」と呼ばれ、さまざまなカルチャーや歴史を生み出してきたこの大きくて長い道に沿って、近代ギャングたちの轍を辿る。

▶︎1話目から読む

「アメリカを横断する1本の道。ルート66、ギャングとの歩み」

道があれば人が通る。物が移動する。そして、金が動く。離れた土地の産業と文化を繋ぐ手段として、そして何にもない広野に生命を吹き込むものとして、道は、文明の発展や経済の興隆を築く礎になる。

「ルート66」も、そんな、文化や経済を切り拓いた道だった。1980年代に廃線となってしまった国道で、シカゴからロサンゼルスまでを繋ぐ4,000キロの道。特にアメリカ西部の発展を促進した、重要な国道だった。観光需要の高まりにより、沿道にはモーテルや各種ショップが建ち並び、ドライブスルーの設置やマクドナルドの登場など、ファストフード産業の盛り上がりも起こった。

ただの道をなぜそんなロマンっぽく話すのか、と思うかもしれないが、どうしてもルート66に特別な感情を抱かずにはいられないファンも多い。それは、ルート66が、自動車の発展とともにみんなのロードトリップの舞台となったから。小説『怒りの葡萄』のなかで名付けられた「マザーロード(母なる道)」に郷愁を覚えるから。二人の若者が冒険を求めてハイウェイを突っ走るロードムービー『ルート66』に憧れを抱いたから。ピクサー映画『カーズ』で描かれたルート66の「古き良きアメリカ」にノスタルジーを感じた若い世代もいるかもしれない。

廃線後も、アメリカのメインストリート、マザーロードと愛されるルート66。「アメリカにとってルート66は、ニューヨークでいう“ブロードウェイ”のような道です」と、本連載の重要参考人、アメリカン・ギャングスター・ミュージアムの館長さんも話す。

逃走の道

 朗らかな印象のルート66と、極悪のギャング。いったいどう関わっているのか。

 最初のキーワードは「ロードギャング」だ。1927年に国道に指定されてから、舗装工事がはじまったルート66だが、その2年後に起こった世界大恐慌の影響で、工事は中断される。その後33年に再開され、何千もの失業した男たちが工事へと戻ってきた。彼らロードギャング(道路工事作業者を指すスラング。本物のギャングではない)たちは、汗を流し、38年に完成する。ルート66は、“ギャング”の手によってつくられたのだ…(繰り返すが、本物のギャングではない)。

 正真正銘のギャングとの関わりは、大恐慌時代に見つけられる。“世紀の犯罪者カップル”として、カルト的な信者もいる「ボニー&クライド」が、車で逃走しながら銀行強盗を繰り返してきた舞台が、ルート66だった。ボニー・パーカー(女)とクライド・バロウ(男)の手口は巧妙だ。クライドが店や銀行に押し入り金を奪い、道中で盗んだ逃走用の車(多くの場合、当時パワフルなエンジンでならしたフォード社の乗用車「フォードV8」)で待機するボニーが車を出す。州をまたいで警察が追跡できないという決まりをいいことに、車で州をビュンビュン越えていったのだ。34年に警察によって射殺されるまで、13の殺人と強盗に手を染めた。

 逃走の道、としてルート66を使ったのは、ボニー&クライドだけではない。「社会の敵ナンバーワン」との異名をもち、映画『パブリック・エネミーズ』で、ジョニー・デップが演じたことでも話題になった銀行強盗ジョン・デリンジャーもだ。彼は、共犯者ハリー・ピアポントと銀行強盗を繰り返し、ルート66経由で逃走したことも記録されている。デリンジャーに関する小話として、館長さんはこう話す。「銀行に押し入った際、そこにいた人のなかにはデリンジャーにお金を差し出す客もいました。すると決まってデリンジャーはこう言います。『俺は人から金は奪わない。銀行から奪うんだ』」。

 そのほかにも、20世紀で最大の警官殺害を犯してしまったコソ泥3兄弟、ヤング・ブラザーズや、密造酒の製造や武装強盗で悪名を流した“マシンガン・ケリー”なども、法の手から逃れるためルート66を走らせたギャングたちだ。ちなみに、大恐慌時代のギャングたちは、政府から「パブリックエネミー(社会の敵)」と呼ばれ、政府や銀行など大きな組織と敵対していた。その頃大恐慌時代の貧困と不況にあえいでいた市民たちには、英雄のようにもてはやされたそうだ。

運びの道

 ルート66を逃亡のルートとして使ったギャングもいれば、“ハコビ”のルートとして活用したギャングもいる。禁酒法時代のギャングたちだ。過去に連載でもなんども登場したアル・カポネは、ルート66の東端イリノイ州シカゴを拠点としていたことから、シカゴとミズーリ州セントルイスを結ぶ道路を経由して、密造酒を運搬していたという。それこそ当時のイリノイ州にある各酒場や道沿いのバーには、有名なギャングと彼らの逃走にまつわる逸話があり、いまでも言い伝えられているらしい。

 1920年代には、イリノイ州エリアのルート66の舗装工事が終わっていたらしいが、一説によると、それはカポネらシカゴの組織犯罪がロビー活動をおこなっていたからだという(政治家たちに働きかけ舗装を完了し、いち早く、密造酒の運搬ができるような道にしたということ)。そのエリアのルート66沿いのビジネス(ワイン農園から、競馬場、自動車販売所まで)は、カポネと何かしらの関係性があったというから、彼の影響力がまざまざと思い知らされる。

食の道

 さて、シメくらいは“おいしい”ものを。アメリカのロードトリップといったら、レトロな看板を掲げて誇らしげなダイナーが欠かせない。アル・カポネの行きつけだったのが、イリノイ州にあるダイナー「ルナ・カフェ(Luna Cafe)」。ルート66が開通する2年前には、すでに開店していた。年季の入ったネオンの看板に質素な外見という、いかにも田舎ダイナーの外見をいまでも保持しているルナ・カフェだが、当時カポネは、このエリアのギャングたちを訪ねる用事がある際、大都市シカゴから車で運転し、このカフェで落ち合っていたといわれている。カポネのお気に入りだったかどうかはわからないが、ここの人気メニューは、ホームメイドのトーストしたラビオリだ(聞いただけで舌をやけどしかねないくらいのおいしさが)。

 もう1軒。1929年から営業を続けるミズーリ州の「エルボー・イン(Elbow Inn)」。シカゴから逃れてきたマフィアの隠れ蓑として有名だったとされる店だ。ハーレー・ダビットソンのバイカーたちもたむろする掘っ立て小屋のような荒々しい外観のバー兼レストランだが、名物はバーベキュー。バーガーとスモークチキンウィングスがキラーメニューだそうだ。じゅるり。
 
 コロナ禍以降、重要参考人である館長さんとの密会が滞りがち(電話での密告を希望したのだが、やはり会わないと教えてくれないとのこと)だが、これからも時々一度の探りを入れてみて、気が向けば番外編をだしていきます。乞うご期待……………………..はあんまりせず。あしからず。

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Text by HEAPS
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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