METで広報として生きるということ

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The Metropolitan Museum of Art シニア・プレス・オフィサー / Naomi Takafuchi

世界最高峰の美術館「The Metropolitan Museum of Art」(メトロポリタン美術館、以下MET)でパブリック・リレーションズ(以下、PR)を担当している日本人女性がいる。今年11月で勤続22年のシニア・プレス・オフィサー、高渕直美だ。ベテランとして長年このポジションに就くが、採用面接では、ネイティブスピーカーではないがゆえ「採用は厳しい」といわれていた。芸術の街、ニューヨークで、彼女はいかにその逆境を乗り越え、その座を手に入れたのか。高渕の「ニューヨークで仕事を得て、生き残る術」に迫る。
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狭き門へのチャレンジ

「私にしかできないこと」を提案

 PRとは、組織が外部に向けて情報を発信する際に、より正確に、より理解を深めてもらうようにコミュニケーションを図るプロフェッション(職業)のこと。METでのPRとは、「どれだけ多くのメディアに露出し、どのように展示企画の面白さを伝え、どれだけ来場者を呼び込むか」という仕事だ。高渕はアジアンアート部門を含む4部門のPRを任されている。アート産業が盛んなニューヨークでは、連日どこかしらで、名高い美術館やギャラリーが新しい企画のプレスカンファレンス(記者発表会)を開いており、その日にちがバッティングすることも多いため、「メディアを集める競争は極めて激しい」と一般的にいわれている。

 
 現在、METのPR部には5人のパブリシストがいる。有名企業でPRの経験を積んできた優秀な人材が集い、ネイティブスピーカーが雇われるのが当然のポジションのため、誰もが高渕の採用と出世を不可能だと考えていた。採用が決まった後も「ネイティブではない」という同じ理由で「もし生き残れたとしても、シニアのポジションに就く(出世する)ことは、まず有り得ないだろう」と周囲からいわれたという。しかし高渕は、「そんなことあるもんか、と思っていましたよ」とひょうひょうと当時を振り返る。どんな逆境下でも、彼女は自身と向き合い「今、私にできること」「私にしかできないこと」を提案してきた。

「日本が勘違いされるのが悔しい」

コミュニケーションスキルの必要性を実感

 岡山県出身。幼少時に聴いたオペラに魅了され、中高一貫の進学校へと進むが、中学を終える頃には既にオペラ歌手になると決めていた。日本の大学で声楽を学んだ後、「メトロポリタン歌劇場の舞台を踏める一流のオペラ歌手を目指そう」と、米国インディアナの州立大学大学院に進み音楽部で修士号を取得した。しかし、「その頃には自分の実力がどの程度かが分かってしまって、オペラ歌手の夢には見切りをつけました」と語る。 

 今につながるPRへ転向するきっかけとなったのは、同じ寮に住んでいたカメルーン人の友人から「中曽根首相の人種差別発言について詰問されたこと」だった。1986年の俗にいう“中曽根首相の知的水準発言”は、マイノリティを侮辱したとして、米国内でセンセーショナルに報じられていたのだ。
「日本の首相の酷い発言を知っているか。あなた自身は、彼のこの発言をどう思っているのか」と聞かれた。「首相の発言は、ただデータに基づいただけのもので、特にマイノリティへの憎悪や差別を意図したものではない」と説明したかったが、「当時の私の英語力では、それを上手く伝えることができなかった」と振り返る。「日本語であればちゃんと説得できるのに…。こんなふうに自分の国が勘違いされていくなんて悔しい」

 自分の力のなさを痛感すると同時に、コミュニケーションスキルの重要さに目覚めた。そしてこの“事件”が契機となって、コミュニケーションスキルを磨いて「日米の架け橋になりたい」という第二の夢が膨らんでいったのだという。「私のいた大学はPR学科のレベルが高いと評判で。声楽の修士を取得したと同時に迷わずPRの修士課程を受験し直しました」とPRの道へ飛び込んだ。
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入念な下調べで面接に

「自分の価値」を証明

 修士取得後、「挑戦するならやっぱり世界の中心、ニューヨーク」とすぐさま移り住み、仕事探しに奔走。そんなある日、ルームメイトから「通訳を手伝って欲しい」と頼まれた。依頼された内容は、当時、METで行われていたあるプロジェクトに関するもの。そこで知り合ったPR担当の人に「スタッフの募集は行っていますか?」と訪ねた。すると、「ニューヨーク・タイムズに募集広告が掲載されているはずなので、そこから応募してみてください」というものだった。

 80年代後半〜90年代初頭の米国経済は長い低迷期の中でもどん底に当たるような時期。失業者が溢れていた。そのため、METのPR部なんて高学歴で経験を積んだ米国人しか採用しないだろうと思っていた」と振り返る。実際インターンになるのでさえ大変な倍率なのである。

 早速、履歴書を送り、面接のチャンスを取り付けた高渕。だが、面接官から開口一番に言われたのは「日本語ができる人の募集ではありません。あくまでも、PRのプロを探しています」という厳しいものだった。たとえば、仕事の能力を5段階で測れたとして、レベル3の米国人と、同じくレベル3の外国人であれば、当然米国という国にいる以上、市民権のある自国の人間があらゆる面で優先される。米国人ができる仕事を、わざわざ外国人に明け渡す必要など基本的にはないのだ。その中で生き残るためには、「なぜ自分がMETのPRに相応しいのか、“私でなければいけない理由”を証明するしかないと思った」と振り返る。

 無論、入念な下調べをして挑んだ。それだけに、高渕は強気な面接官たちの言葉にも怯まず、こう切り返した。「最近、日本を代表するデパートとご提携されましたね。現在、御社に米国と日本の両方の文化を理解しているコミュニケーションの専門家はおられますか。しかもバイリンガルの」。面接官は少し考えて「いいえ」と首を振った。そこへ高渕は「今、私たちの社会ではマーケティングやPRの必要性が急速に高まっています。世界に名高いメトロポリタン美術館であれば、なおさら私のようなバックグラウンドをもった人間が、今後必要になってくるのではないでしょうか?」と切り込んだのだ。

 すると、「確かに、その通りですね」と、納得の表情を浮かべる面接官。そして、高渕は二次面接でも同じようにアピールし、最終面接に進んだ。それから約2ヶ月後、同美術館から「月曜日から来てください」との連絡がきた。1991年11月、高渕はPRのポジションを手に入れ、未来への第一歩を踏み出すこととなった。こういった、自身のポジションを提案して採用されるケースは米国では一般的なこと。大学院で学んだPR方法は、自身の採用試験でも一役を買ったのだった。
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ネイティブでなくてもできる広報の仕事

「興味」を軸にした有益なコミュニケーション

 高淵が周囲に実力を知らしめることとなったのは、彼女が担当した小さな展示会だった。それは手一杯だった上司から急遽振り分けられた仕事。「会場も図書館の一角を展示スペースとして使っただけの、展示会と呼べるかどうかすら微妙なくらい小規模なものでしたが、持っている知識を駆使して、多数のメディア・カバレッジ(メディアに取り上げられること)を獲得しました」
「私の仕事は、できるだけ多くのメディアにコンタクトをとり、記者・編集の方々に展示会の情報を伝えて、取り上げてもらえるよう働きかけることです」という高淵の“広報”の仕事は、広告費を払って情報を発信する“宣伝”とは違う。

  
 PRが伝える情報の価値判断はメディアに委ねられる。そのため、「歴史背景や希少価値を伝えるだけでは『へぇ~』と言われて終わり、いかにして『それは面白い!』って思わせるかが成功のカギ。相手がつまらないと思えば記事にならないが、逆に、良いと思えば、カバーストーリーにだってなり得る」。

 事実、高淵の担当したその小さな展示会は、雑誌の表紙に起用されるなど、大きく取り上げられ大成功を収めた。「誰も注目していなかった展示会が、どうしてそんなに話題に?」と内部の人間はどよめいた。高淵は、有名アーティストの大きな展示会でなくても、広報の力次第でメディア・カバレッジは取れるということを証明したと同時に、ネイティブでなくても、広報としてネイティブ以上の仕事ができるということを証明してみせたのだ。これをきっかけに「恒例行事のクリスマスツリーの展示をはじめ、METを代表する大きな展示会を任せてもらえるようになったんです」と頬を緩める。
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「文化が違うと発想も違う」という現実

日本人としてのアイデンティティを意識

「常にベストをつくす」が信条の高淵。「仕事はエンドレス」だと語る。たとえば、プレスリリースを書いてメディアに送って、後は向こうがコンタクトをしてくれるのを待つ。「これで任務終了だと思えば、それでもいいのかもしれない」。そう前置きをし、「ですが、METで働きたいという人はごまんといます。大きなミスを犯したり、低調なパフォーマンスに終わるようであれば、私はポジションを失います」と静かに語る高渕。計り知れないプレッシャーを乗り越えるだけではなく、「これでよし」とせず、貪欲に仕事に向き合ってきたからこそ、今の彼女がある。

 しかし、翻弄されたこともある。「みんなで協力してチームの成果をあげましょう」という日本の文化は、分業制の米国人には馴染まず、黙って手助けをすると、自分の仕事を取られたと感じる人もいる。忙しくしているメンバーを手伝おうものなら、「あの人は暇なんだ」、ひどい場合は「余計なことはしないで」と怒られる始末。良かれと思ってやったことが仇になってしまう。高渕は当時、「なぜ、わかってもらえないのかが不思議でならなかった」と話す。文化が違えば、発想も違うということを痛感するたびに、「やっぱり私は日本人なんだ」と良くも悪くも自覚させられてきたという。そして、今は日本人としてのアイデンティティを誇らしくも思うと目を細める。

アジアンアートの人気と知名度を上げる

逆境を乗り越えることで新しい世界を切り開く

 今年の11月で勤続23年目。そんな高淵の今後の目標の一つは、自身が担当する「アジアンアート部門の人気と知名度を上げること」。一般的にみれば、アートの世界ではヨーロッパのものが断然、人気も知名度も高いが、「アジア人である私にとって、“アジア”というジャンルは特別なものです」。キュレーターたちには「アジアンアートの認知度をヨーロッパのレベルまでもっていきます」と、アジアのアートシーンの巻き返しをすでに宣言済みという。その言葉には一寸の揺るぎもない。それは彼女が、幾度も逆境を乗り越えてきたからこそ。「壁」を突破することで、新しい世界を切り開いてきたからだ。

 平日にも関わらず、今日もMETの門の前には長蛇の列。そして、午前10時の開門とともに人々が流れ込み、館内の静寂を破った。高淵はそれを見つめ静かに微笑むと、颯爽とした足取りで、群衆の中へと消えていった。高渕は今日も、人々の「興味」をつかみ、それを生かす有効なコミュニケーションをMETから発信している。
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http://www.metmuseum.org/

Photographer: Kuo-Heng Huang
Writer: Chiyo Yamauchi

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