ニューヨークのミュージシャンたちはこう口を揃える。「ギターの不調は、アイツに相談すれば間違いない」。
「King of Guitar Repairs(キング・オブ・ギター・リペアーズ)」と評判の噂のギターリペアマンの名は、Farhad Soheili(ファルハード・ソヘイリ)。
ブルックリンの北端グリーンポイント地区にある彼の自宅兼作業スペースを訪ねてみると、この日も彼はエレクトリックギターと向き合っていた。「作業部屋」こと、糸のこや工具たちが雑多に並ぶ10畳ほどの部屋は、まるで図工室のよう。ここで、一週間に25本から多いときには40本ものギターの不調を直す。
「直せないギターはない」。SUB POP(サブ・ポップ。*米国のインディペンデント・レコード・レーベル)のキャップをかぶった彼は「キング」の名にふさわしい職人魂を持ったリペアマンである。
30歳、ミュージシャンの苦悩。
もともとは、ギターを「直すプロ」ではなく「奏でるプロ」だった。「ギターで食えるようになりたい」。熱い想いを胸に、カリフォルニア州の小さな町からニューヨークへやってきたのは2007年。26歳のときだった。いくつかのバンドを組んで、レコーディングして、定期的に米国各地のヴェニューをまわるツアーを敢行。”いわゆる”インディーバンドの王道を歩んできた。
だが、いまから5年ほど前のこと。「30歳を目前にしていた頃だったかな。それまで続けてきたバンド活動に嫌気がさしてしまったんだ」。
潮時だ、と頭ではわかっていても、情熱を注ぐものを失うのは怖かった。
「他に仕事を探そうか、とも迷ったんだけどね、バーテンダーとかウェイターとかさ。けれど、続けられる気がしなかった」。
自分が続けられる仕事とはなにか。「考えてみると、ギターを演奏したときよりも、直してあげたときの方が、本当に人に喜ばれている気がした。それに、自分もステージに立つよりも、自分や人のギターのセットアップやスタジオワーク、つまり裏方の仕事の方が性に合っていた」。彼はこの気づきを機に、ネジを巻き直した。「だったら、いまやってる裏方の仕事を本職にしよう」
14歳の無謀な挑戦。安ギターをいじって、300万円相当の音色に。
「20歳になる前から、自分のギターはもちろん、仲間のセットアップもよくやっていた」という彼。ギターのテクニックだけでなく、セットアップ(調整)の技術も独学で磨いてきた。理由は「特にない。単純に好きな作業だったから。あと、それなりに自身もあったしね」。
そんな彼が、”自分のギター”を手にしたのは、14歳のとき。
母親に買い与えられた偽物のフェンダー・ストラトキャスター(エレクトリックギターの機種)が、「とにかく、気に入らなかった」。若造なりに、アマチュアなりに、理想のギター像というのがあったからだ。
「僕が欲しかったのは本物のフェンダー・ストラトキャスター」。300万円近くするそれの崇高なる存在感や音色に、なんとかして近づけたい一心で、「改造を試みるようになった」という。だが、弦の張りや、ネックの反りを調整してみるも、なんか違う。
「知識もないのに、いじりまくっていたら、当然壊れてしまったわけで。修理に持っていって、直してもらったら、またいじって。壊して、いじって壊してを繰り返していた」。
「安ギターをなんとか、300万円相当の”本物”に近づけたい」という14歳の無謀な挑戦。だが、その副産物は大きかった。なんども修理に出すうちに、リペアマンとの距離も縮まり「どこをどうやって、直したのか」を見聞きし、ギターの構造や調整、リペアの基本的なノウハウを身につけたという。「あとは独学」。18歳になる頃には、フレットの擦り合わせ、 ナットの溝切り、指板修正、さらに、より複雑な専門知識を習得。
とはいえ、当時、前のめりに学んだのは、あくまでもミュージシャンとしての「音へのこだわり」と「好奇心」があったから、に過ぎない。リペアマンになろうと考えたこともなければ、無将来のために学んでおこうなどという計算高さもなかった。
一方で、プロのギタリストを目指していなければ、リペアマンとしての知識も身についていなかったのも事実。5年前、ミュージシャン生活に行き詰まりを感じたからこそ「リペアマンとしての道がみえた」という。
描いた夢と叶えた夢。カタチは違えど、幸福感に揺らぎなし。
ビジネスとして軌道に乗せるために、最初の2年は「1日12時間以上、無休で働いた。カラダを張っていた」と自嘲する。クライアントの家まで、地下鉄で片道45分以上かけてギターを引き取りに行くこともあった。「できるサービスは全てやった。しかも、他の誰よりも安価でね」。身を粉にしたのは、「それを継続することでしか、結果はついてこないと思ったから」。
「いい仕事を地道に続ければ、評判はついてくる。値段を交渉するのははそれから。少々、値上げしても、代金以上の価値を感じてもらえれば、理解を得られる。さらにはリスペクトも得られる。そしたら、もっと依頼が増える」
いま、彼が手にする「信用と評判」は、この信念の賜物だ。まさに、継続は力なり。今では忙しい時は、一週間に40本ものギターを直す、という。ざっと計算して、1日5本以上のペースで修理していることになるが、さすがに「40本が限界」と、最近、2人のアシスタントを雇ったそうだ。次なる目標は「オリジナルのギターブランドを作ること」。今年中にはラウンチ予定と語る。
ビジネスとしての成長もそうだが、リペアマンとしての個人の成長に対する喜びはひとしおのようだ。「2年前は6時間かかった修理も、今は1時間半でできる」と語ったときの誇らしげな表情が印象的だった。
ニューヨークへきて、約10年の月日。「ギターで食えるようになりたい」の夢は、当初描いたカタチとは違うカタチで実現した。苦しい時間の後にくる幸福。それは、苦悩なしの幸福よりも味わい深いのかもしれない。「この仕事は天職だ」の声は、ひときわ明るかった。彼は今日もあの西日の差す部屋で、夕日を背中に浴びながら新たなギターと対峙しているに違いない。
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Photos by Kohei Kawashima
Text by Chiyo Yamauchi