「宗教・政治戦争、勝手にしやがれ!」紛争地帯で中指立てたパンクス、90’s DIYパンクシーン

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ベルリンの壁だけではなかった。ひとつの街を、思想が、宗教が、分断してしまう壁は。
北アイルランドの首都、ベルファストにも「壁」があった。カトリックとプロテスタント系住民を隔てる物理的な壁は、両者の心理の隔たりをも構築した。しかし、人種や宗派、政治派閥、すべての壁をぶち壊した市民がいる。パンクスたちだ。

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“WARZONE(紛争地帯)”に存在したパンクシーン

 ロックバンドU2が「僕らはいつまでこの歌を歌い続けなければならないのだろう」(“Sunday Bloody Sunday”)と叫び、ジョン・レノンが「アイルランドはアイルランド人のものだ」(“The Luck of the Irish”)と弾き語る。彼らが歌っているのは、北アイルランド紛争のこと。

 現在でもイギリスに属している北アイルランドには、宗教を引き金にした複雑な歴史背景がある。1920年代より、多数派プロテスタント系住民が少数派カトリック系住民を支配し、差別。60年代に入ると武力衝突は激化*し、70年代初頭にはカトリック系住民とプロテスタント系住民の居住区をわける壁「ピースライン」が築かれた。さらに、72年にはデモ行進するカトリック系住民を英国軍が銃撃し、死者を出した「血の日曜日事件」など、30年間で約3,500人の命が奪われた。98年に和平合意(ベルファスト合意)が結ばれ紛争は終結したが、未だにイギリスやアイルランドでは「ザ・トラブルズ(厄介事)」として人々の記憶の中に止まっている。

*迫害を受けて少数派カトリック系住民は、イギリスからの分離・南北アイルランドの統一を訴える。60年代に入ると武力を行使したアイルランド共和国軍(IRA)によるテロ、それを鎮圧する北アイルランド警察・イギリス軍が激しく衝突した。

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ただね、“あそこ”に一歩足を踏み入れれば、プロテスタントでもカトリックも関係なかった。ユダヤ教徒でも火星人でも何者でもよかった。パンクが好きで、隣で肩を並べる変わり者たちと通じ合うものさえあれば、どこの馬の骨であってもよかったんだ」。そう回想するのは、北アイルランド出身の写真家リッキー・アダム(Ricky Adam)。ベルファストがまだ紛争地帯だった90年代、誰をも受け入れる地元のパンクシーンを写真に焼きつけた。

「暴力や宗教、偏見、性差別、派閥主義に中指を突き立てていたんだ」

 リッキーがいう“あそこ”とは、ベルファストの中心街にあったユース・コミュニティベニュー「ザ・ワーゾーン・センター(The Warzone Centre、以下ワーゾーン)」のことだ。地元のパンクスたちによって86年に設立、運営。当時、熱を帯びるレイヴシーンとともに興隆したパンクシーンの震源地であり、ヨーロッパのDIYパンクシーンの重要な存在でもあった。

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 パンクバンドたちが入れ替わり立ち替わりシャウトするステージのほかにも、カフェ、スクリーンプリント工房、写真の暗室、レコーディングスタジオまであり、「ポジティブでクリエイティブなスペースだった」。さらにオールエイジベニュー(年齢制限なし)だったため、年端のいかない子どもを連れてくるパンクスもいた。街中にフェンスが張り巡らされ、英国軍がパトロールする異様なベルファストの日常にあった、これまた違った意味での異様な空間だった。

 地元バンドでプレイし、ローディーとしてもワーゾーンに出入りするパンクキッズだったリッキー。カメラを拾いあげ自分のコミュニティにレンズを向けた彼は、そこだけまるで紛争休戦状態だったワーゾーンをこう表現する。「暴力や宗教、偏見、性差別、派閥主義に中指を突き立てた。セクシュアリティや女性権利、動物の権利などについて討論する“演説台”を用意したんだ

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宗教戦争、政治闘争「勝手にしやがれ」

 ベルファストの地元バンドは紛争へのわだかまりを歌にし口角泡を飛ばした。「私たちはカトリックでもない。プロテスタントでもない。アイリッシュでもブリティッシュでもない。私は私。政治なんて糞食らえ、宗教なんてどうでもいい。自由になるんだ

 パンクスたちはマイノリティだった。奇抜な格好をして街を歩くと野次られる、正真正銘のアウトサイダーたち。宗教戦争、政治紛争以前に、社会のはみ出し者だった。だから、「北アイルランドでパンクであることは、それだけである意味“政治声明”だった」。政治派閥にも宗派にも属さない。メインストリームの政治や視野の狭い考えを拒否し、どんな旗にも靡(な)びかない。パンクスたち集団独自の秩序と自治、異端と自由が織り混ざったパンクという名の政治だ。

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 ワーゾーンのステージでは、ポリティカルなハードコアバンドや前衛的なアートパンクバンドなど地元や英米のバンドが毎晩はち切れんばかりのアンプを鳴らした。200人以上で込み合う晩もあれば、寒い冬の雨の水曜の晩は、たった10人のオーディエンス。いずれにせよ、どんなバンドも客はアツく迎えた。「時に、言葉や歌詞よりもドラムのひと叩きやヘビーなギターリフの方が雄弁なんだ

パンクが“必要”だった街

 ワーゾーンは、紛争を生きたパンクスたちの逃避だった。街のどちら側からやって来たとしても関係ない。なんの質問も問われない安全地帯だった。

「あるパンクバンドはこう言った『なぜ北アイルランドでパンクが花咲いたかって、それは“必要”だったからだ』。ワーゾーンは、暴力や戦争に対して“ファック・ユー”とブルドーザーのように紛争時代を突き進んだから

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 和平合意から20年。現在は武力闘争はないものの、壁は負の遺産としてそびえ、観光客の足を止めている。一方で、かつてに比べ小さくなったパンクシーンだが、紛争時代の安全地帯・ワーゾーンはいまでもDIYベニューとして健在で、街を動かすクリエイティブフォースとなっている。

 パンクを青臭いサブカルチャーだ、と片付けることもできる。パンクを単なる音楽ジャンルの一派だと見なすこともできる。しかし、無法に血の流れるベルファストのような紛争地帯では、自分自身の政治や宗教にせざるを得ないパンクがあった。故ジョー・ストラマー(パンクバンド、ザ・クラッシュのシンガー)の少し手垢のついた言葉だが、つまりこういうことだ。「パンクはスタイルじゃない。アティチュードだ

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Interview with Ricky Adam

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Ricky Adam/ Belfast Punk
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Photos by Ricky Adam
Text by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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