#002「デヴィッド・ボウイがベルリンに移住。まもなくして、ぼくもベルリン行きを決めた」—ベルリンの壁をすり抜けた“音楽密輸人”

【連載】鋼鉄の東にブツ(パンク)を運んだ男、マーク・リーダーの回想録、2章目。
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「東ベルリンは、世界一入場規制が厳しい“ナイトクラブ”のようだった」

回顧する男は、マーク・リーダー(Mark Reeder)。
イギリス人音楽プロデューサー、ミュージシャン。そして“音楽運び屋”。
冷戦時代、ベルリンの壁と秘密警察の手をくぐり抜け、
抑圧の東ベルリンへ禁じられたパンクロックを“密輸”した男である。

「壁の西側には色鮮やかなグラフィティが施され、東側では兵隊が銃を構え整列する」
人権、文化、金銭の価値、国民の一生、そして人間の尊厳を決定した
高さ3メートルの「ベルリンの壁」。
それを境に、西は「経済」「自由」「文化」のすべてが豊かに栄え、東はすべてに飢えていく。
それは「音楽文化」も同じだった。

命懸けの東から西への逃亡。厳重な検問を乗り越えねばならない西から東への越境。
しかし、マークは幾度となく壁をすり抜けた。

西から東へ極秘の“ブツ”、パンクを密輸、禁じられた音楽を東に紹介するため。
これは、かつて“音楽密輸人”だった張本人の回想録だ。

***

#002 「デヴィッド・ボウイがベルリンに移住。まもなくして、ぼくもベルリン行きを決めた」

ハタチの夏、ぼくはパンクに飽きた。
そして夏盛りの8月、故郷マンチェスターを去った。ベルリンに向けて。

 ぼくが故郷を去る夏から遡ること、数年前。ある日、ぼくが働いていた英・マンチェスターのレコードショップに“パンク”がやって来た。それは、ザ・ダムド(ロンドン三大パンクバンドの一つ)のシングルで、立て続けにあのセックス・ピストルズのデビューアルバム『アナーキー・イン・ザ・UK』も入荷した。みんな口を開けば“パンク” “パンク”。パンクロック創成期だ。

 ぼくのレコードショップ(ちょっとガタがきた小さいヴァージン・レコード)は瞬く間に「パンクのメッカ」になり、ぼくはというと昼間から音楽を聴きにぶらぶらとやって来ては居座る一文無しのパンクキッズたちに目を瞑り(レコードを買うお金さえない彼らの気持ちは染みるようにわかっていたから)、セックス・ピストルズのセカンドアルバム発売日には、その“問題作”(エリザベス女王をコテンパンに罵ったレコード)を一日中売りさばいた。

 深紫の壁に銀の星の飾り、チューインガムと煙草の焦げ跡がこびりついた小汚いカーペット。お香のようなヒッピーの匂いが鼻先をかすめ、試聴用のヘッドフォンは壊れるか盗まれるか、のレコードショップ。そこは、“若者のほとんどがバンドの成功を賭け、支給された失業手当を楽器につぎ込んでいた街”マンチェスターの、音楽シーン中心地だった。そしてぼくの毎日はこの“小宇宙”を中心に公転していた。

MarkinSchapka
若かりし頃のマーク。

 同時期、仲間と地元のパンクバンドにも在籍していたのだけれど、ぼくはなにもパンク一筋というわけではなかった。入れこんでいたのは西ドイツ生まれの前衛的・実験的音楽「Krautrock(クラウトロック)」。Kraftwerk(クラフトワーク)やCan(カン)、Neu!(ノイ!)みたいなバンドが操るキテレツでプログレッシブなドイツの音をマンチェスターで“布教”しようとしてみたりもしたが、この手の音楽は、地元ではまあ売れなかった。

 そうやってぼくは大人になり、やがて時は流れ1978年、ハタチの夏。ぼくはパンクに飽きていた。自分の中で聴き尽くしたなという感じがした。

 仕事もバンドもすべて投げ打って「ベルリン」に行きたい。その思いは強くなっていった。なぜかって? さっきあげたように、ぼく自身が元よりドイツ音楽に傾倒していたというのもある、が。でも無意識にぼくに影響を与えたのは、少し前にベルリンに移住したあの「デヴィッド・ボウイ」だ。
 彼はアルバム『Low(ロウ)』(1977年)をベルリンでレコーディングし、名曲『Heroes(英雄夢語り)』をドイツ語でも歌った! それはとても画期的なことだったといえる。なぜって、それこそがみんなの「ベルリン」のイメージを変えたから。ドイツは“敵国で冷戦最後の砦”、ベルリンは“共産主義と資本主義に分断された政治的な街”だとしか思っていなかった英国人の頭に、「ベルリン=音楽の街」というイメージを実に自然と植えつけたのだ。
 
「ぼくの目的地はベルリンだ!」。気持ちがベルリン一色に染まっているぼくに反比例するように周りの反応は冷めたものだった。「なんのためにベルリンに行くんだ?」マンチェスター・パンクシーンの先駆者(そして、ピストルズをぼくらの地元に招聘したことでも有名な)バズコックスのピート・シェリーは、そうためらいがちに尋ねてきた。両親もご近所さんも首をかしげる[1]。でも唯一、あの伝説のポストパンクバンド、ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスだけがぼくのベルリン愛に同調したらしく、「俺も行きたい。ブランデンブルグ門をこの目で見てみたいね」と“歴史マニア”らしい発言をした。

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ジョイ・ディヴィジョンのメンバー、マネージャーと。
左から2番目がイアン・カーティス、中央奥に座っているのはマーク。

 そんなこんなでヨーロッパ横断の鉄道切符を手に、ぼくはマンチェスターを出発した。ケルンやデュッセルドルフ、フランクフルト、ミュンヘンを周り、小汚く煤けたハンブルグまで行き着くころには、道中で出会う人々の“常套句”には慣れていた。「なぜベルリンに?共産主義の東側にあるし、いつ第三次世界大戦が起きてもおかしくないキケンなところだぞ」。ベルリンに対する負のイメージが膨らめば膨らむほど、俄然興味を持った。ぼくはそういう質(たち)なのだ。
 
 結局、ハンブルグからベルリン行きの列車に乗るはずが、最終の一本を逃し、駅員に教えてもらった通りヘルムシュテット(西ドイツ側からベルリンに入る最西端の地)からヒッチハイクをすることに。運よく、「乗れよ」とドアを開けてくれたヒッピー風の男のフォルクスワーゲンに滑りこむと、車はぼくが行き先を告げる前に西ベルリンへと向かっていた。

ベルリン、スパイ映画とネオンの詩

 文字通り何もない無人地帯をしばらくずっと走っていくと、やけに眩く点灯した検問所に差しかかった。東ドイツの国境だ。ここではすべての車が止められ、何か不審なモノ(者)が潜んでいないか、トランクやボンネット、車体の下まで隈なく検査される。まるで、スパイ映画のような世界。ぼくが差しだした書類に、油ぎった髪にニキビ面の国境警備隊が目を通す。そして東ドイツの通行査証が押印されたパスポートが手元に戻ってきた。

 検問所を後にする。光がぼんやりと遠のき、車窓をかすめるのは、文字通り真っ黒の闇だけになった。「なんで西ドイツから男たちがベルリンへ押し寄せるか知っているか?そりゃ、“兵役を免れるため”だ」。フーベルトと名乗る運転手のヒッピーはそう教えてくれた。ベルリンの男たちは兵役逃れできるらしい。

 続けて彼は、ベルリンで泊まるところがないぼくの心を読んだかのように「今晩はどこに泊まるんだい?」と聞いたかと思うと、次の瞬間には、合鍵をくれた。彼の取り壊し予定のアパート(もう住んでいるのは彼しかいなかった)に“解体業者が来るまで”いてもいいと言って。
 カーステレオから漏れ出る混線したラジオの雑音とアウトバーン(*)の上で車がタイヤを軋ませる音。奇妙な“協奏曲”を奏でながら、時速100キロの車は西ベルリンを目指した。

(*)ドイツの速度無制限道路

5 ErichmayDay
東ベルリンで行われたメーデーのパレード。カメラのシャッターを押した直後、マークは秘密警察2人に取り押さえられ、尋問された。
写真には、ドイツ社会主義統一党書記長、エーリッヒ・ホーネッカーと閣僚評議会議長(首相)、ヴィリー・シュトフの姿がある。

 3時間ほど経っただろうか。ケバケバしいほどのネオンが目に飛び込んできた。車はすでに西ベルリンを走っていたのだ。スパイ映画で何度も見た灰色がかった“ベルリン”が、こんなにも明るいなんて! ぼくは心底驚いてしまった。

 車はようやくアパートに着いた。その建物は、戦争の爪痕がくっきりと残る“弾丸の穴だらけの代物”で、これには、ああイメージ通りのベルリンだなと思った。でも中は見事に立派、4メートルはあるかというほど高い天井、寄せ木張りの床、白い大理石の浴室にバルコニー付きときた。マンチェスターの公営団地から来た者としては、まるで宮殿だ。寝床を整えてもらい、ぼくは目を瞑る。がらんどうのアパートにフーベルトの「おやすみ」が響いた。

 そして翌朝迎えたベルリン初日。この日、朝っぱらから「やはりベルリンは只者じゃなかった…」と心打たれる出来事に遭遇する。それは次回話すことにしよう。

#003「東ベルリンに恋に落ちた。そして、“カセットテープ密輸中毒”になった」
カセットテープの密輸に成功(ただしどこに隠したかは教えられない)

マーク・リーダー/Mark Reeder

MR_LOLA6004x_1428のコピー

1958年、英・マンチェスター生まれ。78年から独・ベルリン在住。ミュージシャン、プロデューサー、サウンドエンジニア、レコードレーベルの創設者として英独、世界のミュージシャンを育てあげる。
過去にはニュー・オーダーやデペッシュ・モード、電気グルーヴなど世界的バンドのリミックスも手がけてきたほか、近年では、当時の西ベルリンを記録したドキュメンタリー映画『B Movie: Lust& Sound in Berlin (1979-1989)』(2015年)でナレーションを担当。現在は、自身のニューアルバム『mauerstadt』の制作やイギリスや中国などの若手バンドのプロデュースやリミックス、執筆・講演活動なども精力的に行っている。markreedermusic(ウェブサイト)

〜UKロック好きのための余談〜

マンチェスターのレコードショップ店員だった頃のこと。ある日、常連客の地元DJ、ロブ・グレットン(Rob Gretton)が「昨晩、世界で一番かっこいいバンドをみた。俺、マネージャーになりたい」と興奮気味に言ってきた。「Joy Division(ジョイ・ディヴィジョン)」というバンドらしい。さらに同じ日の晩、トニー・ウィルソン(*)もやって来て「世界で一番のバンドを見た」と面食らった様子で口走った。やはり「ジョイ・ディヴィジョン」だというのだ。
音楽業界の“耳が肥えた”二人が太鼓判を押すバンドがどうしても気になり、ついに彼らのショーを見に行ったのだが、目を疑った!だって、それはぼくの同胞、イアン・カーティスのバンド「Warsaw(ワルシャワ)」だったから!イアンはぼくのレコードショップの常連客で、昔からよく音楽や神話、歴史、陰謀説の話に耽った馴染みの仲。普段はおとなしい彼がステージでは自由に暴れまくっていた。その後も交流は続き、ベルリンに越してきたぼくの元に、イアンから1枚のカセットテープが届いた。それはあの伝説のファーストアルバム『Unknown Pleasures(アンノウン・プレジャーズ)』の原型だった。

(*)マンチェスターの音楽ムーブメント「Madchester(マッドチェスター)」を巻き起こしたファクトリー・レコードのオーナー。テレビ番組の司会も務める地元音楽シーンの顔役で、シーンの中心地・ナイトクラブ「Hacienda(ハシエンダ)」もオープンした。

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Writer: Mark Reeder
Reference: [1]Reeder, Mark.(2015). “B BOOK: LUST&SOUND IN WEST-BERLIN 1979-1989”. Edel Germany GmbH
All images via Mark Reeder
Translated by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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