28歳で、戦場カメラマンになった。
報酬がよいわけでもないうえ、死が常につきまとう。
シリアでは反政府軍と行動をともにし、撃たれないように祈りながら走った。
写真を撮って、毎回生きて帰って戦争を伝えてきた。
鈴木がシャッターを切ってきたその悲劇のなかに、
「しあわせ」の瞬間があった。
対極に思えるしあわせの意味を知ったのは、戦場でだった。
「しあわせってなんだろう」。
命がけの紛争地帯でおさめてきた光景から考える、
鈴木雄介の、戦場フォトエッセイ。
#002「なぜ戦場で写真を撮るのか」
アフガニスタン中央部の世界遺産バーミヤン渓谷にて、タリバンに破壊されたブッダの石像跡を眺める男性たち。
人に聞かれる事がある。
「なぜ危ないのにそんな所に行くのか」
聞かれなくても、誰もが思うことだろうと思う。
安全な日本で生まれ育って、日本社会に溶け込んでいれば確かに、わざわざ死ぬかもしれないリスクを負ってまで写真を撮りに行くことなどバカげているかもしれない。
なぜそこに行くのか。なぜそこで写真を撮るのか。
そもそも僕の最初の写真の入り口は、戦場だった。ファッションでも広告でもなく、ファインアートでもない。
ありのままでいて、自分自身では消化しきれないほど強烈な、ドキュメンタリーだったのだ。
足を失ってしまった彼は、サンダルを買うためのお金を集めるために鉄くずを拾っていて地雷に接触してしまったという。
アフガニスタン全土には、いまもなお1,000万個以上の地雷が残る。
元をたどれば、素朴な疑問がきっかけだったように思う。
学校教育を通じて、平和は大事だと教えられ続けてきた。
「平和は大事だ、戦争はしてはいけないんだ」とまるで受験勉強の暗記をするように言われる中で、僕は悶々としたまま平和が何なのかちっともわからず、リアリティを感じることはなかった。
そんな中で突然起こったのが、2001年の9.11。テスト勉強中だった僕は、教科書もノートもほっぽり出して、ワールドトレードセンターに旅客機が突っ込む光景に釘付けになった。その後、アメリカがアフガニスタンに侵攻し、イラク戦争に突入していく様を見て思った。
「本当に平和という物の意味を知りたいのならば、その対極にある戦争を知らなければならないのではないだろうか」
この世の物事はすべて「表と裏」の相反する出来事から成り立っている。その片一方だけを見ても、決してその物事の本当の姿は見えてこない。
そして、僕はたまたま好奇心が強かったのかもしれない。「自分の目で見たい」。とにかくその場に身を置いて、自分自身で見て感じたかった。
当時はまだ民間人がアフガニスタンに入るのが難しく、学生だった僕は知恵を振り絞って方法を考えた。結果、ある支援団体の一員としてアフガニスタンに潜り込むことができた。「百聞は一見にしかず」。この言葉は、その通りだった。
宮殿前には広大な多国籍軍の基地が広がる。
初めて目にした、戦争当事国のアフガニスタン。30年以上も戦争の中に日常生活がある国だ。見るものすべてが当時の僕には新鮮で衝撃的だった。
一国の首都だというのに、あちこちに崩壊した建物が並び、街中は完全武装した多国籍軍がパトロールする。手足を失った人たちや、小さな子どもを抱えた母親があちこちで物乞いをしていた。地雷がそこら中に埋まっていて、地元の人の案内無しには道から外れた所は怖くて歩けなかった。
マスメディアを通じて得られる情報と実際に現地で見聞きすること、感じることには大来すぎる差があった。
そこでの暮らしにショックを受けながら、僕はたまたま現地で出会った写真家やジャーナリストの影響で写真に興味を持ち、自然とカメラを手にしたのだった。いま思えば、二十歳そこそこの自分が体験した想像を超えた現実を、上手く消化してなんとか外に発散する方法が写真だったのかもしれない。これが、僕の最初の写真体験だ。
僕にとって写真とは、アートというよりも、自分が見た光景と、自分自身の感情を投影したドキュメンタリーだったのだと思う。
なぜいまになっても危ない所でも撮るのかと言われれば、誰かが危険を冒してでもやる価値がある、やらなければいけないと思っているからだ。
思い出して欲しい。 2011年に東日本大震災が起こったとき、世界中のメディアが連日現地から取材を続けた。その結果、現地で何が起こっているのかを世界の人たちが知る所となり、あれだけ多くの人的、物的支援に繋がった。もし報道がなければ、世界の人たちは日本で地震が起こったことすら知らなかったかもしれない。そうしたら、世界の人々にとっては何も起こっていないのと同じだ。多くの人が亡くなり、傷ついていても、誰かが声となってそれを伝えなければそれは起こっていないことと同じなのだ。
外国人の誘拐をビジネスとしてやる連中もいるので、援助関係者や報道関係者たちは常に誘拐の危険にさらされていた。
たとえ世界のどこかで、どんな大虐殺が行われていても、非人道的な事が行われていても、誰も知らない。それはとてつもなく恐ろしいことではないだろうか?
僕のような写真家は、いわば「橋」のような物で、何かが起こっている世界と、それを知らない他の世界とを繋ぐ役目だ。戦争を止める事は残念ながらできない。しかし、知ることが出来れば、それが何かのきっかけになるかもしれない。誰かが動くかもしれない。知ることなしには何もはじまらない。
僕だって人間だから、当然、恐怖を感じる。紛争地を取材した写真家の多くがPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかっている。自分が見たショッキングな光景が突然フラッシュバックしたり、夜中に悪夢にうなされるという話を、ベテランの写真家から聞くことがある。みな普通の人間なのだ。
それから、人の不幸を撮っているという自覚もある。カメラを向けるのが辛いときだってある。それはこういったテーマを撮るほとんどの写真家が一生自問自答することで、頭では理解できても、なかなか人情として受け入れるのは難しい。
それでも、人を説得するような力強い写真を撮らなければ、自分がそこに存在する意味はないし、それが自分のすべきことだと思っている。
欧米のジャーナリストが紛争地の取材中に亡くなると、母国ではヒーローになる。自分の命を懸けて、何がそこで起こっているのかを伝えようとした自己犠牲の英雄になるわけだ。
一方、日本では、「自己責任」という言葉が先行してしまい、なぜ彼らが危険を冒してまで現場に行こうとしたのか?何を伝えようとしたのか?という、本当に大切なことを議論する所までいかないのが現状だ。僕は、自分の命をかけても何かを伝えようとした人間の勇気と行動、献身は尊重されるべきだと思う。
戦争のせいで平和という言葉が程遠い国でも、その国の将来である元気な子どもたちを見ていると、少しの希望が湧いてくる。
我々大人たちは一体子どもたちに何を残してやれるのだろう。
でも、 僕は死んでヒーローになるのはゴメンだ。死んでしまったら何にもならない。しかし、 一度、紛争や貧困にあえぐ状況の人々を見てしまったら、ましてやそういう人たちと一緒の時間を過ごし、その姿を写真に写してしまったら、後に戻ることは難しい 。
たった一日、いや、一時間だけでも実際の戦場や、戦争に巻き込まれた人々の生活を体験したら、誰もがこんなことは起こってはいけないんだと、その苦しみが分かるだろう。しかし、誰もが行けるわけではない。
だから危なくても行く意思があって、なおかつ見た物事を記録できる技術のある僕らのような人間が行くのだ。
かつての素朴な疑問とシンプルで強烈な意思によって、僕は、撮影をし続ける。
▶︎#001「戦場の家族のこと」
▶︎#003「戦場の兵士たち」
▶︎#004「戦場の女性たち」
鈴木雄介 / Yusuke Suzuki
1984年、千葉県生まれ。東京の音楽学校に通っていたときに東南アジアやアフガニスタンを訪れ写真に興味を持つ。アメリカ、ボストンのNew England School of Photographyにてドキュメンタリーとヴィジュアルジャーナリズムを専攻。在学中より様々な賞を受賞する。
同校卒業後、地元紙やロイター通信でフリーランスとして活動後、ニューヨークに拠点を移す。
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