「僕らの国で、弾圧は続いている」早稲田のサイゼリヤで出会った難民たちの、メディアでは報じられない話 <後編>

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難民B「妻と娘がレイプされた男性」

 その男性は、「こんにちは」と一言。笑ってはいるが、仔細に観察すると皮膚が硬直し、目尻は下がりきっていない。

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難民B。

 彼は、40代のシャン人(ミャンマーの別の少数民族)。カチン人の嫁と娘と共に、ミャンマーの田舎町で穏やかな日々を送っていたが、ヤンゴン(旧首都)で行われた、政府へ民主化を訴えるデモに参加すると状況は一変。何度も身柄を拘束されるようになり、命の危険を感じて日本に難民として逃げることを決意した。もちろん家族をおいていくことについて悩み抜いたが、難民認定されると家族を呼び寄せることができるという望みにかけていた。

 だが彼が日本に去った後、今度は妻と娘が役人から呼び出され尋問を受けるようになった。そして、2人ともレイプされた。最後に妻と連絡をとったのは2012年の6月だという。「危ないから近くにある村に逃げる」という言葉を残し、そのまま音信不通になった。

「死んだのか、生きているのか、どちらかわからない。すぐにでも戻って探したいけど、戻ったら私の命が危ない」と彼は、うつむきながら声を絞り出した。か細く、抑揚のない声だった。

 絶望した彼は、駅のホームで投身自殺を図ったが、偶然そこにいた知らない日本人に止めてもらい助かったらしい。もしかしたらいま僕と話していることが奇跡なのかもしれない。

 強烈な内容に、絶句して思考停止に陥ってしまった。彼の目を見て、頷くしかなかった。無音になった僕らがすわってる空間に、周囲の席から暢気な笑い声ががかぶさってくる。偶然聞こえてきたのは、「●●くんイケメンだよねー」という隣の女子高生たちの会話。

 彼は、バッグの中から写真を取り出した。そこにはいまより7kgも太っていたころの彼と、幸せそうに微笑む妻と娘の姿があった。
 

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左上が難民B。

「いまはだいぶ精神的に改善されたと思います。でも、家族をみると、妻と子どものことを思い出します。もしみんなで暮らせていたら、娘がどんな成長をしているか、想像するんです。

ミャンマーは、表向きは変わっているけど、実際は問題だらけ。だから、私の滞在を認めてほしいです。難民申請がとおり、家族が見つかれば日本に呼び寄せられます」

 彼もまた焼き鳥屋で働いている。「いまでは仕事を覚え、必要とされていると感じるようになった」と、初めて表情を崩した。優しそうな父親の顔だった。

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難民C「生まれながら難民と呼ばれた女性」

 仕事ができずに無収入。いつ本国に強制送還されるか、おびえながら生活している難民もいる。

 彼女は30代のカチン人。「私は生まれつき難民なんです。親が有名なカチンの軍人。命の危険がいつもあるから、おばあちゃんと転々と逃げ回りながら学校に通っていた。ばれると通えなくなるから素性を隠しながら。それが普通だと思っていた」とさらっと言う。

 ミャンマーの一流大学を卒業し、企業に就職していたかなりのインテリだ。だが警察に身元をわられ、命を狙われるようになってしまい、日本へ逃げてきた。そして、生まれて初めて命の心配をせずに暮らせるようになった。

 だが、またもや困難は続く。業者にビザの用意を頼み日本へ移り住む手続きをしてもらったが、その業者があるミスをしてしまっていて、それに気づかずに生活していた彼女は警察に連行され、不法滞在外国人などを収容する入国管理センターに約6ヶ月間収容された。

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 彼女からではなく、以前他の元収容者に聞いた話なのだが、収容所は劣悪な環境で有名らしい。常に薄暗く、全面コンクリートの灰色の世界。外部病院に行く際は両手錠と腰縄付きが義務づけられるなど、人道的とは言えない対応がおこなわれている。体調不良由来の、死亡事件も時々発生するとも聞く。

 収監中、父がミャンマーでなくなったことを聞いた。小さい頃からの夢は家族みんなでゴハンをたべること。その小さな夢は、一度も叶わなかった。

 いまは、仮放免され外で暮らすことはできる。しかし、仕事はできないうえ、東京から外にでることも許可無しでは許されない。いつまた収容されるか、あるいは国に帰らされるかわからない。

 そんな彼女がよりどころにしているのは、将来への希望。

「私は老人を助けることが好きです。小さい頃からおばあちゃんに世話されていたし。だから、本当は日本で老人介護の勉強がしたい。私たちの民族に若者はあまりいないから、ミャンマーが平和になったらみんなの役に立てるように」。柔らかな口調で、思い出にひたるように、彼女はそういった。

「話を聞いてくれてありがとう」

 3人の取材も終わり、多忙なマリップさんは、次の仕事があると先に帰って行った。残った僕たちは撮影のために、サイゼリヤを出ることに。

 律儀に自分たちの食事代を支払おうとする彼らを制し、支払いをすませて近くにある神社へと向かった。神社の境内は急勾配の階段を上ることが必要で、荷物をたくさん持っていた僕が手間取っていると、当然のようにみんなで一緒に運んでくれる。

 境内に足を踏み入れると、雑音はシャットダウンされ、静謐(せいひつ)とした世界がたち現れる。ふと彼らの表情を見ると、緊張がとれていっているのがわかった。パゴダ(ミャンマー仏教の寺)を思い出します、と笑顔を浮かべていた。

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 カメラを向けると、緊張した様子を見せる。和らげようと声をかけると、シャイな照れ笑いをのぞかせ、彼らの純粋さと謙虚さがにじみ出ていた。 辛い経験がありすぎて語れないこともたくさんある、といった彼ら。今日話してくれたことも、ほんの表面にすぎないだろうが、それでもなお、こういった表情が作れることに驚く。

 無事に撮影が終了し、みんなとお別れをした。彼らはお辞儀をしながら「話を聞いてくれて、ありがとうございました」とお礼を言った。いや、感謝したいのはこっちだ。

7,586人中たった27人しか認められない日本

 彼らはこれから、どうなるのだろうか?日本における難民受け入れは、世界的に見て異常なまでに厳しいものだ。2015年、申請者は7,586人を超えたが、認定されたのはたった27人。ちなみに、2014年、イギリスでは認定者が1万人を超え、隣国の韓国では98人だった。認定されなかった場合、異議申し立てなどで何度か再挑戦することができるが、難易度はかなり高い。難民認定されないと、やがて強制送還や収容の対象となる。

 では規制を大幅に緩め、難民を大量に受け入れればよいの?と聞かれれば、僕は答えに窮する。それはもちろん危険を伴うだろうし、国の秩序を乱す行動を起こす人の流入に繋がるかもしれない。慎重に対応すべき、難しい問題であるのは間違いない。

 しかし、さっきまで僕の目の前にいた彼らが危険な存在になり得るとは到底思えない。きちんと向き合い、話を聞き、素の彼らを見ることができればそれは明らかだ。一片を全体のように伝える一部のメディアの影響で、難民=悪というイメージがつくり上げられようとしている現在だからこそ、偏りのない目を彼らに向けたいと思った。
 彼らが口を揃えて大好きだという日本という国と社会は、そして僕たち日本人はいったい彼らに何をしてあげられるのだろうか。
 彼らが去ったあと、境内に急に突風が吹いた。向かい風にふかれ、落ち葉が踊るように舞い上がっていく。もうすぐ春だなと思いながら、僕は高田馬場駅へと歩いた。道中、たくさんのミャンマー人らしき人たちとすれ違った。

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Photos by Jiroken
Text by Daizo Okauchi
Content Direction and Edit: HEAPS Magazine

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