下着姿で自分を晒し、語り合う若者たち。FBサイト「This is My Skin」

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This is My Skin offers a safe space for posters to cope with body image issues.
自分のカラダについて、本音で語り合える唯一無二の「安全な場所」。

ネットサーフィンの際、ひょんなことから「This is my skin」というFBサイトを見つけた。はじめて読んだとき、私は心のヒダをピッと摘ままれる、そんな感覚を味わった。

ある少女はこう語る。「私の背は高すぎで、胸は小さすぎ。なのに贅肉はあるべきではないところについているの。だからずっと自分のカラダが嫌いだった」
そして、少年は「13歳のとき、突然、顔中にニキビができた。何を塗っても消えない。人生の終わりだと思った」。

ここの若者たちは、苦悩の過去といま、自己否定してきた「みっともない」姿をパブリックにむけて発信する。匿名ではなく実名で。下着だけを身にまとい、顔も、素肌も、ありのままの”自分”をさらけだすのだ。

「見た目」の悩みは、些細か深刻か。

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 10代の頃は私自身も、“見た目”に悩まない日などなかった。だからだろうか、このウェブサイトをみつけたとき、心の機微に触れるものがあった。思春期のほろ苦い想い出たち…。学校の先生に「目つきが悪い」と叱られて以来、なんだか自分の目が異様につり上がっている気がして辛くなり、90年代半ば、世の中が全力で女優“広末涼子”を押していた時代だったこともあってか、生まれつき浅黒肌の私は「女の素肌は、純白じゃないと!」の世のプレッシャーがキツかった。鏡を見る度に気を揉んだ。だが、母はそんな私を鼻で笑っていたっけ。「別にその顔で女優になるわけでもあるまいし…、五体満足に生まれただけでも感謝しなさい!」と…。 

 他人からすれば「些細なこと」。だが、「見た目の悩み」は本人にしか分からないもので、とても深くてセンシティブ。後の人格形成にだって影響しかねない。だからこそ、彼らの、自分の見た目についてを書き連ねた文章は、思春期真っただ中のティーンが読んでも酸いも甘いも知った中年が読んでも、自分の経験と重なる「あ、」の瞬間がみつかるだろう。FBサイト「This is my skin(以下、TIMS)」の意図は何なのか。創始者のパトリックに話を聞いてみた。

「悩むことが“できる”」はひとつの才能だと思う

 カナダのエドモントン在住のPatrick Sullivan(パトリック・スリバン)。約2年前の2014年、地元のカフェのバリスタだった21歳の彼は、友人と「アート・プロジェクト」として、身近な人々のポートレイト撮影をはじめた。「バリスタとして美味しいコーヒーを淹れるのもいいけれど、ずっと、なにか、こう、人々の心に訴えかける、意味のあることがしたかった」と、当時のモヤモヤを振り返る。

 ヒラメキは突然だった。友人と「Body Acceptance(ボディ・アクセプタンス。自己受容。自分の心とカラダを受入れること)」について話す機会があったという。「たしか、セレブリティがスッピンをこぞってさらけだしていた時期。『ありのままの自分を愛そう』とかいってさ。僕らは『なんか一方的だな』ってそれに対して違和感があった。だって誰だって自分の見た目について悩みはあるだろうし、そもそも悩むのは悪いことじゃない。良くいえば“繊細”ってことだし、むしろひとつの才能だと思うんだ。なのに『悩むのはもう辞めて、ありのままの自分を愛しましょう』って強引じゃない?」。確かに、それはただ単純に悩みの対象に“目をつむっているだけ”にならないだろうか。

本当に容認されたいのは「みっともなさ」

 悩むこと自体が「ネガティブ=悪」みたいな世の中だからこそ、悩んでいる自分を「みっともない」と自己否定している人も少なくない。ニキビのことで悩んでいるなんて「みっともない」。友だちの誰よりポッチャリしてることをコンプレックスに思っているなんて「みっともない」…。悩みの種は世界平和や人権問題、地球環境でもなく、自分の「見た目」である。どんなに自分にとっては深刻でも、他人には「たかがそんなこと…」といわれそうで、なかなか打ち明けにくい。

「せっかく『みっともない』と悩んでいる、いや悩めているんだから、その苦悩を一人で抱え込まずにパブリックに発信してみてはどうか」。この発想から「誰もが安心して自分をさらけだせる場所」を創ろうと思ったという。

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 パトリック自身も「何か、意味のあることがしたいのに、何がしたいの分からず悩んでいた自分」をみっともない、と思っていたと明かす。他人は「大丈夫だよ(=悩むのなんてやめなよ)!」と元気づけてくれたが、それよりも「どんなに考えても、ダサいアイデアしか出てこないみっともない自分」を受入れることに価値を見いだした。ある意味の「開き直り」の術とでもいおいうか。開き直ってこそ、開かれる扉があると説く。

と、そこまでは腑に落ちるのだが、気になるのは、なぜ「下着姿」である必要があったのか。

実名を明かし、下着姿になる理由

 投稿者は実名を明かすだけでなく、ポートレイト写真は「下着姿であること」をルールにした。それはなぜか。

「世間が『完璧』と賞賛する美の基準とは異なる、痩せすぎや太りすぎ、フサフサの体毛、バースマークや自傷行為の….、そういうのがあるのが、僕らの本来の姿。それについてせっかく苦心したことやどう向き合ってきたか等の心の内をさらけ出すのだから、服を着てカラダを『隠す』のも『盛る』のも違うと思ったんだ」

 もちろん、出演してきた人たちは「自らの意志」でのみ参加しているという。「『出演したい』と連絡をくれた人のみを取材しており、こちらから「出てくれませんか」と懇願したことはありません。直接取材できない他国や遠方からの志願者からは、自撮り写真も受け付けています」

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 だが、“普通の子”が、バブリックで下着姿になり、悩みや素直な感情をさらけ出すというのは、やはり希有なこと。彼らの無防備な立ち振る舞いは、見る者の欲望や潜在意識、溜めていた感情を刺激し、「自分にも何か言わせろ」と多くの雑音に見舞われることも多いのではないか。
「事実、性的なモノとして捉える人や、攻撃的になる人、意図的に雰囲気をブチ怖そうとするも少なくないですね」

もちろん誹謗中傷もある

 This is my skinの目的は「自分をさらけ出せる安全な場所」。安全性を保つために、管理人として、主に以下のルールを設けているという。

– 出演者は18歳以上であること
– ヌード、女性のトップレスは禁止
(※一部のフェミニストからの批判も受けたが、10代の学生、もしくはそれ以下の年齢でもアクセスできる環境にするため、この方針を貫くことに)

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 また「投稿者を傷つける不適切なコメントにはフィルターをかけさせていただいています。そのかわりに、といってはなんですが、「なぜ、あなたはこの投稿に対してネガティブな感情を持ったのか」を必ず聞くようにしています。まぁ、大抵、返事はいただけないですけれどね」とも。管理に手間ひまをかけていることをうかがわせる。

 無人島に一人でいれば、ぽっちゃりだろうがガリだろうが、はたまたノッポでもチビでも悩むことはない。人は社会の中で生き、周囲の目があるから悩むのだ。それを個々が乗り越えていくため、また、世の中の意識を変えるために、「やっぱりポートレイト写真は下着姿にこだわりたい」という。

 自分の言葉で話し、強くも特別でも完璧でもない素の「個」を晒す。これを「タブーではなくポジティブなものにかえていきたい」とパトリック。「みっともない自分をもさらけ出すのは勇気のいること。ゆえに、閲覧する人の中には自分には持てなかったその勇気に心を揺さぶられる人は多いはず。また、心の準備が出来ない人を苛立たせもするでしょう」。反応の針がどちらへ振れるにせよ、TIMSは接した者を触発し、解放してしまう力を持っている。無論、支持するのも拒否するのも冷笑するのも自由。ただ、そこで出会うのは自分自身だと肝に銘じておきたい。

FB This Is My Skin
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Photos Via This Is My Skin Team
Text by Chiyo Yamauchi

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