帽子界のダイアナ・ヴリーランド、Lola Ehrlich
世界中の有名ブランドがひしめくニューヨークきっての高級デパートメントストア、バーグドルフ・グッドマン。ここで商品が取り扱われることは、ファッションブランドにとって成功への登竜門であり、ステータスだ。そんな同店を20年以上に渡り顧客に持ち、今や日本をはじめ世界中の名だたるストアをクライアントに抱える超人気帽子デザイナーがいる。Lola Ehrlich(ローラ・エールリッヒ)、67歳。
人も羨む成功と業界の喧噪の中、惑わされずに自分らしいままで世界のファッションの中心地で確たる地位を確立してきた秘訣は、彼女の人生の隅々にあった。
審美眼は、お隣の“老女”から
ローラの人生は映画のようだ。1947年、オランダ生まれ。生まれて間もなく移り住んだパリで幼少期を過ごした。ヒッピーのように自由な教育理念を持つ芸術家の両親は、娘たちを学校にはやらず、自宅でのびのびと教育することを選んだ。今日の作品作りに生きる彼女の審美眼は、この頃の“遊び”を通して育まれたという。
「私たちが住んでいたパリ郊外の小さな村に、1930年代のオートクチュール・メゾンで働いていた老女が住んでいたの。学校に行かない私と妹は、ほとんどの時間を彼女の家で過ごした。美しい生地やリボンでいっぱいの箱があってそれを引っ張り出しては眺めて遊んでいた」と、フランス語まじりのアクセントで懐かしそうに当時を振り返る。
縫い物や編み物、刺繍など、後の帽子作りにつながる技術も、この老女から教わったものだ。
「今でも週末は、誰もいないアトリエで材料とあの頃と変わらずに一人遊びしながらおもしろい色や形を見つけるの」。シックなフェドーラも、懐かしい麦わら帽子も、彼女の手にかかれば、遊び心溢れるディテールをもってクラシックかつモダンな雰囲気を醸し出す。
「デザインをするとき、頭では考えない。素材が話しかけてくるのを待つの。目に心地よく映るものが本当に美しいものだと思うから」。圧倒的な自由に包まれて育った感性を、のぞかせる言葉だ。
「やっかいなお客さん」から、こだわりのデザイナーへ
21歳でアメリカ人の夫と結婚し、ロンドンに移り住むも26歳のとき夫が他界。若き未亡人となったローラは、新天地を求めニューヨークに移り住んだ。
「美しく気取った街より、ニューヨークのようなエネルギーとダイナミズムに溢れた街が好き」というローラ。以来、クラフトマガジンのプロジェクトデザイナー、ニットデザイナー、雑誌の編集者などの職を経、ファッションをモノ作りの視点から切り取る世界で活躍してきた。
多彩なキャリアについて尋ねると、「私って蝶々みたいなの。面白そうだと思ったらトライしてみる。だめなら必ず他の道があるから不安になる必要はないのよ」とひょうひょうと話す。そして「時にははったりも必要」だとも。「仕事のオファーが来たとき、できないことを聞かれても、いつもできると答えてきたわ。だって努力してすぐできるようになればいいんだもの。常識とほんの少しの賢さがあれば難しいことじゃない。自分への挑戦だと思っていつもやってのけてきた」
ローラを再び帽子の世界へと導いたのは、ニューヨークでできた帽子職人の友人たちだった。帽子を作ってもらうとき、ローラはいつも彼らの“悩みの種”だったという。
「50年代にヨーロッパで子供時代を過ごした私にとって帽子を身につけるのは日常だった。だから作ってもらうときも、このリボンは何ミリ大きくして、とか、色がちょっと違う、とか口うるさい客だったの。何が作りたいのかこんなにはっきりしているのなら自分で作ってしまおうと思って」と茶目っ気たっぷりに微笑む。
40歳になった当時、Vogue Knitting(ヴォーグ・ニッティング)の編集長としてキャリアの頂点を極めながら、Fashion Institute of Technology(ニューヨーク州立ファッション工科大学)の帽子作りの夜間コースにいそいそと通う日々。コースの3/4を修了したところで、「もう自分で帽子が作れる!」と確信した彼女は、コースをドロップアウト。仕事の引き継ぎを済ませ、退職から1週間のうちに自分の店をイーストビレッジに構えた。1989年冬、Lola Hatsの誕生である。
完売しつづける店でも、変わらない芯
オープン初日で店頭に並べた10数個の帽子は瞬く間に完売。次の日もその次の日も、同じだった。その評判が、ニューヨークきっての高級デパートメントストア「バーグドルフ・グッドマン」のバイヤーの耳に入るのに時間はかからなかった。同店での販売の話が持ち上がったとき、千載一遇のビジネスチャンスに飛びついたかと思いきや、ローラは乗り気でなかった。
「自分の店で一点ものの帽子を作っていたからホールセールには興味が無くて。それに7th アヴェニュー(ニューヨークのファッションの中心街。ショールームやデザイナーのオフィス、工場が建ち並ぶ)のごたごたは正直あまり好きじゃないのよ」と肩をすくめる。そんな彼女の背中を押したのは、「あなたは好きなものを作り続けさえすればいい。私たちがそれを売ってくるから」という、彼女のセンスに惚れ込んだバイヤーの一言だった。
バーグドルフでの販売がきっかけとなり、国内はもとより、ヨーロッパからアジアまで世界中から注文が殺到するようになる。時期を同じくして、高騰するマンハッタンの家賃が原因で、比較的家賃が手頃なブルックリン地区のスタジオに移転することを決意。これを逆にチャンスと捉え、増え続けるオーダーに対応できる大きな工場をアトリエ内に構えた。太陽が差し込む空間で、ミシンの音に包まれながら、総勢15名の職人たちが手作業で帽子を仕上げていく。マンハッタンのざわめきは、イーストリバーのはるか向こう岸だ。
せわしなくビッチで恐ろしいエネルギーが動いているファッションの世界で背筋を凛と伸ばして生きていく秘訣は何だろう。
「仕事にプロフェッショナルな姿勢で臨むのは当たり前。でもね、一方で私たちが作っているものはたかだか帽子なの。失敗したって人が死ぬわけじゃない。自分の失敗も成功もユーモアで笑い飛ばせば、いつも気持ちは穏やかでいられるのよ」と八重歯を見せていたずらっぽく笑う。
「それとね」とひと呼吸置いてこう付け足した。「いつも心がオープンでいること。そしてチャンスが飛び込んできたら、それを決して離さないことよ」。ローラのセンスから生まれた帽子たちは今日も世界中のファッショニスタのスタイルに華を添える。
「良い人生は1つだけ。自ら望み、自ら創る」と、伝説的ファッションエディター、ダイアナ・ヴリーランドはいった。ローラの、自由で挑戦することを恐れないスピリットが、既存の美の概念にとらわれず新しいスタイルを次々に開拓していったヴリーランドの孤高のエレガンスに重なり、本誌用にヴリーランドにオマージュを捧げた写真撮影を提案した。
撮影当日、「私なりのヴリーランド・スタイルで来たの」と、フェルトのガウチョ帽にフューシャピンクのコサージュをつけて待っていてくれたローラ。そして思わぬ秘話を教えてくれた。「Harper’s Bazaarでサラ・ジェシカ・パーカーがダイアナ・ヴリーランドを真似て撮った写真を知ってる?あの帽子、私の作品なのよ」。ファッションの神様のいたずらに、思わず笑みがこぼれた。
Photographer: Kohei Kawashima
Writer: Haruka Ue, Edited by HEAPS