クラフトビール・ブームを肌で体験したかったら、賑わっているパブに飛び込んでみるといい。例えば、アッパー・イースト・サイドにあるバー「The Pony Bar(ザ・ポニーバー)」。ここでは、日替わりで毎日20種類のクラフトビールを「生」で飲める。開店以来、提供した銘柄は1,000種を上回る。中ジョッキサイズで1杯6ドルと少し高めだが、酔っ払うためのバーではなく、ビールを味わうための場所と考えればリーズナブルだ。インテリアのセンスもサービスもよく、しかも親近感がある。
集うのは、20代前半から30代前半の若い人たちが中心。てっきり店の近所に住む羽振りのいい人たちかと思って声をかけてみたら「俺はブルックリン」「私はクイーンズ」「俺たちもクイーンズから」と意外にも遠路からわざわざ飲みにきている。「ここが、クラフトビールのラインナップでは一番だからだよ。いつきても必ず、新しい銘柄、聞いたこともないフレーバーがあるからね」
クラフトが生んだ、未体験の喉越し
今や、クラフトビールは、音楽や映画同様、「流行情報」の一部となりつつある。いかに、数多くのクラフトビールを飲み、知り、語れるか?これが遊び人、ニューヨーカーの新しい必須条件だ。クラフトビールの中でも、彼らが一番関心を寄せるのは、自分たちが暮らすニューヨークで生まれた銘柄。2013年は、ニューヨーククラフトビールの当たり年で、クイーンズに3ヶ所の醸造所が続けて誕生。同時に「New York City Brewers Guild(ニューヨーク市醸造所組合)」も結成され、「クラフトビール祭り」も開催されている。
禁酒法が生んだ「自由」への渇望
このクラフトビール・ブームの根幹にあるのは「なんでもやっていい。誰でもやっていい」という自由さに他ならない。まさに自由の国アメリカ的なのだが、その「自由」がいったいどこに由来するのか?
「Brewers Association(米国ビール醸造者協会)」が発表する資料によると、アメリカのビールは19世紀後半から下り坂に入った。宗教・政治上の理由から禁酒運動が南部を中心にじわじわと盛んになったためである。1887年の時点で2,011ヶ所あった醸造所は、1910年代には1,179ヶ所まで落ち込み、1917年、禁酒法の施行と同時にそのほとんどが姿を消した。1917年といえば、アメリカがドイツと戦った第一次世界大戦まっただ中である。当時、ビールメーカーにはドイツ系移民が多かったため、たちまちビールは「敵性飲料」とみなされ、醸造所は「非愛国的」のレッテルを貼られ、ビールのイメージはネガティブの極致に達した。
1918年に大戦が終わり、1933年に禁酒法が撤廃された後も、結局、政府はビール製造の規制を引き締めたため、小さな醸造所はどんどん潰れ、1970年代半ばには全米で89ヶ所を数えるのみとなった。かろうじて生き残ったのが「Budweiser(バドワイザー)」「Coors(クアーズ)」など一握りの大手銘柄。しかも、どこも同じような薄味のピルスナー系ばっかり。アメリカン・ビールの悪評判が世界中に知れ渡ることになる。
どん底からクラフトビールが復活した要因としては、1979年、時のカーター大統領がビール醸造に関する規制を緩和して個人による醸造も許可したことが大きい。さらに、輸入ビールのバラエティが増えた影響も多少はあるだろう。とにかく、今では、クラフトビールを中心に全米で2,538ヶ所もの醸造所が稼働しており、これは1880年代のレベルにまで持ち直したことを意味する。
職人技と豊かな経験がものをいうビール造りの伝統は、ひとたび断絶すると、復活に80年もの長い歳月を要する。現在、ワイン、蒸留酒、大手ビールが消費量、売上ともに右肩下がりなのに対して、なぜクラフトビールだけが、前年比9%増の急成長を続けているのか。それは、禁酒法と反独キャンペーンで手足をもがれたビール醸造に、ふたたび「自由」が与えられたからだろう。禁酒法のインパクトはそれほどに大きかった。
戦後30年余り、ビールとは巨大工場で大量生産されるものだけ、と思い込まされてきた。ビールの味は「これしかない」と信じて疑わなかった。他に星の数ほどあり得る様々な味わいのビールについては、目隠しをされてきた。それが、今、ビールの“創造性”が解放され、伝統がまさに白泡を立てて復興しつつある。
Photographer: Omi Tanaka
Writer: Hideo Nakamura
掲載 Issue 16