アート旋風を巻き起こせ!災難続きのウォール街から学ぶ再生力
金融の街、ローワー・マンハッタン。ウォール街のニューヨーク証券取引所を中心に金融関係の企業が集まっているエリアだ。生活感がなく冷たいイメージを持ち、人が寄り付きがたいこの場所にさらに試練は続いた。1993年の世界貿易センター爆破事件、2001年の同時多発テロ、2008年のリーマン・ショック、2012年のハリケーン・サンディですっかり街は静まり返った。しかし、その度に再生を繰り返してきた。さらに近年ではそのエリアに人が戻り、盛り上がりを見せはじめているという。それを陰で支えてきた人物とは誰か。そして、金融街をいかにして再生したのだろうか。
ローワー・マンハッタン。その歴史は17世紀まで遡る。オランダ人入植者が、先住民から24ドル(現在の価値に直すと12万円相当)の宝飾品でマンハッタン島を買い取ったことや、18世紀、独立戦争後にジョージ・ワシントンが初代大統領に就任したエリアとしても知られている。米国で最も歴史ある街にして、巨大な富が毎日取引される「お金の市場」で、世界的に見てもかなり特殊な場所だ。
19世紀に入ると、高層化のあおりでビルの谷間の狭い路地には日光が届かず、何となく重厚で沈鬱な雰囲気を帯びはじめる。グリッド法で幾何学的に美しく区画されたハウストン通り以北のパシッと遠近法が効いた未来への希望に溢れる街並とは対照的だ。さらに近代的な文化施設—オペラハウス、美術館、ブロードウェイ劇場、図書館などが次々にミッドタウンに建てられると、時代遅れなイメージがまとわりつく。かつては全女性の憧れだったメイデン・レーンの宝石店街も20世紀に入るとチャイナタウン方面に移転。一世を風靡したニューヨークの随一の老舗「デルモニコ・レストラン」からもめっきり客足が遠のいた。
さらに時代が進み、戦後になるとこのエリアは、株取引のほか何もない街で、ビジネス以外の目的でわざわざでかけてゆくような場所ではなくなった。第一、道幅の狭い古いストリートのせいで行きにくい。鉄道やバスの大きな終着駅がないのも災いしたかもしれない。昼夜間の人口差があまりにも大きく、店じまいが早い。街に生活感がない。
そんな単調な金融街に変化をもたらしたのが、ローワー・マンハッタン文化評議会(Lower Manhattan Cultural Council、以下LMCC)。1973年、旧ワールド・トレード・センターの完成と同時に発足した。商取引一辺倒の街をアートで活性化するのが目的。様々なアートプロジェクトをエリアのあちこちで展開したり、アーティストにエ リア内の手頃な制作スペースを提供したりしてきた。かつては、ワールド・トレード・センター内に本部があったため、2001年のテロ事件では、大きな痛手を被った。2012年にはハリケーン・サンディの直撃に活動を阻まれた。「ビジネス街でアート」という困難な課題をかかえながら、くじけずに活動を続けるLMCCの42年は示唆に富む。そのLMCC代表のSam Miller(サム・ミラー)会長に話を聞いた。
ある意味、街全体がビジネス中心である日本の都市中心部のコミュニティとローワー・マンハッタンは似ているといえます。こういう街は一般的に、商業活動が鈍くなるととたんに元気がなくなる傾向にありますが、貴評議会では、どのような方針で、地域コミュニティの活性化を図っているのですか?
S:「コミュニティ」とは地理的だけでなく心理的な結びつきでもあります。つまり、ある場所や考え方に一体感を覚える人たちが、お互いに引き寄せられて形成された集団、と定義できると思うんですね。そこで、中心になる大事な存在がアーティストです。これは、ニューヨーク市全体にいえることなんですが、アーティストは確実に再生や発想の原点になります。当評議会はそういう信念で活動しています。
貴評議会の発足は1973年ですね?
S:はい。ワールド・トレード・センターができたときに、このエリアは商業だけでなく文化の醸成にも貢献し得ると確信したのです。アーティストが住みやすい街の条件は、家賃が安く、制作や発表のスペースがふんだんにあること。70年代当時のローワー・マンハッタンは、まさにそれを満たしていました。初期の活動資金は、当時のChase Manhattan Bank(チェース・マンハッタン銀行)をはじめとする金融機関が提供してくれました。
実際に活動をリードするような人物=インフルエンサーが地域内にいたのですか。
S:意外にも地元のレストランオーナーがリーダーシップを取ってくれました。ポウラカコス家というファミリーなのですが、先代のハリー・ポウラカコスは、70年代初頭にハノーバー・スクエアに最初のレストランを開けると、次々にこのエリアを中心に店舗を展開。どの店も、本格的な料理と深夜営業を売り物にしており、たちまちアーティストや先進的なビジネスマンの溜まり場になりました。今では、このエリアに、20件近くお店を持っています。それまではまともなレストランもなく、勤め人相手のおざなりの食堂だけでした。どれも閉店時間が早いので、夜になると死んだように活気が沈静してしまったのです。ポウラカコス家のおかげで、この地域も「年中無休24時間眠らない街」の仲間入りを果たしました。現在は息子のピーターが跡を継いでいますが、最近では「フィナンシェ」という上質なお菓子を提供するカフェのチェーンをローワー・マンハッタンで展開して、これがミッドタウンなど全市に広がっています。
こういう環境基盤ができた一方で、当評議会では、アーティストのための助成金や住居提供プログラムを拡充しました。これは、今でも私たちの活動の基幹です。重要なのは、アーティストと地域を密着させること。たんに彼らの制作支援をするだけでなく、発表の場を、オフィスビルのロビーやコンコースなど地域の随所につくったりします。特に、私たちのイベントは「無料」が身上。アートや音楽のプログラムで「無料」はなかなか大変なことですが、それこそがアートとアーティストを地域に根づかせる大事なポイントだと思って全力を尽くしています。
とはいえ、ミッドタウンやアップタウンと違い、ローワー・マンハッタンには、世界的に有名な美術館やコンサートホールがありません。必要ありませんか?
S:確かに専門ホールや大美術館はありません。しかし、私たちは、街全体を芸術発表の場と考えているのです。たとえば、19世紀にできたクリントン城(マンハッタンの最南端、フェリー乗り場に隣接する史跡。砲台のある砦)や国立アメリカン・インディアン博物館(かつての港湾税徴収所)など歴史的建造物は、すばらしいパフォーマンス・スペースとして利用できます。ウィンターガーデン(ワールド・ファイナンシャル・センター内のアトリウム)も、美しいコンサート会場になる。問題は、芸術を見せる「箱(建物)」ではなく中身です。内容とアーティストに重きを置きたいのです。ランチタイムのちょっとした合間に、パブリックスペースで、最先端の振付け師によるモダンダンスを「無料」で見せる。これが市民の意識にいかに大きなインパクトを与えるか、そこに私たちの関心があるのです。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件は、ローワー・マンハッタンにとって大きな損失でした。
S:はい。私たちはワールド・トレード・センターにあったオフィスを失いました。事件後は、しばらく、オフィスの場所も転々としました。それに、仲間であるアーティスト(ワールド・トレード・センター内のアトリエで作業中に被災)を失ったことが大きいです。今も彼を追悼するイベントや基金は続いています。
その後の立ち直りには苦労されましたか?
S:ローワー・マンハッタン復興支援の一環として2002年に「リバー・トゥ・リバー」と題する毎年恒例のフェスティバルを立ち上げました。文字通り、ハドソンリバーからイーストリバーまでのこのエリア一帯を巨大な会場に見立てて、音楽、演劇、ダンス、パフォーマンス、映像、アート、文学などあらゆる分野を紹介する「街の芸術祭」です。もちろん入場料はすべて無料。現在では、私たちが中核プロデューサーとなって企画を出しています。これが、テロ事件以降のローワー・マンハッタン住民に、新しい前向きなアイデンティティを植え付ける絶好のモメンタムになったのです。今ではリバー・トゥ・リバーがあるから、ローワー・マンハッタンのアパートに住みたい、ローワー・マンハッタンの会社で働きたい、ローワー・マンハッタンの学校に通いたい、ローワー・マンハッタンに遊びに行きたい、と考える人が増えてきました。これが私たちの提唱する「アートの再生パワー」ですね。
筆者も2001年のテロ事件発生時に、たまたまローワー・マンハッタンに居合わせて、恐ろしい巨大タワーの崩壊を目撃した。アメリカの夢と理想が目の前で崩れ去り「この街の復活はありえない」と落胆した。続く数日で世界中に拡散した終末的な画像のせいで「ローワー・マンハッタン」のイメージは徹底的に地に堕ちた。当時、空きビル、空きアパートが増えたのは事実である。あれから13年あまり。予想に反して街は99%再生した。表向きは、ワン・ワールド・トレード・センターの完成や9.11追悼施設の開館がクローズアップされているが、地域再生の陰の立役者は、LMCCのようなNPO団体、アーティスト、そしてこのエリアに愛情を注ぎはじめた住人たち、つまり地域の人々であることを忘れてはならない。
Writer : Hideo Nakamura