Jazz Trumpeter / Takuya Kuroda
日本人プレイヤー初、米国にあるジャズ最大の名門レーベル「Blue Note Records」と契約を結んだトランぺッターがいる。ブルックリン在住の黒田卓也(34)。JUJU、orange pekoe、ホセ・ジェイムズなどのアルバムのアレンジャー、プレイヤーとして参加し、ジャズのみならず、さまざまな音楽のジャンルで活躍している。来米して約10年。黒田は、ジャズの本場ニューヨークで自身のスタイルを確立しメジャーデビューを果たした。いかにして、世界の舞台に立つトランぺッターになり、新しい表現を生み続けているのだろうか
ジャンルを超えた多彩な色合いの音
今年の2月に「 Blue Note Records」からソロアルバム「ライジング・サン」をデビューした日本人トランぺッターの黒田卓也(34)。「Blue Note Records」といえばジャズ最大の名門レーベルである。1950~60年代にかけて、マイルス・デイビス、セロニアス・モンク、アート・ブレーキーら天才ミュージシャンがモダンジャズ史に輝く数々の名盤を残している。23歳で来米し、プロデビューして、わずか6年たらず、ジャズの本場ニューヨークで、黒田は花開いた。そして、ソロ活動以外にも、男性ジャズボーカルの新時代を切り開く気鋭の若手ホセ・ジェイズムの右腕としても注目を浴びている。確かなテクニックと研究熱心さに裏打ちされた流麗な旋律の発露はとどまるところを知らない。ジャズのジャンルであるビバップからモーダル、フリーに至る「ジャズの話術」を黒田は知り尽くしている。
ジャズに捧ぐ青春時代
黒田卓也は1980年、兵庫県で生まれた。音楽家の血筋ではない。中学1年生のとき、「年頃だったしスポーツするとモテるかな、と思って運動部に見学に行ったんです。だけど、なんか違いましたね」。同じ頃、5歳年上でトロンボーンを吹いていた兄の影響でブラスバンドに参加し、トランペットと出会った。練習を重ね、ビッグバンドジャズを演奏するうちに、“ラッパ”とジャズの面白さにどんどんはまった。同級生がポップスに熱を上げるのを尻目に黒田はジャズばかり聴いていたという。「当時はビッグバンドやっていたからか、明るくて、分かりやすくて、力強くてスイングしている音楽が好きやった。マイルス(デイビス)は、『大人のおつまみ』という感じで、中学生の俺にはカレーやハンバーグの方が魅力的でしたね」。トレードマークの大きなアフロヘアに、渋い声。その風貌からは想像がつかないほどの柔らかい物腰の黒田は、ジャズを熱く語り、時に冗談を交えながらリズミカルに話を展開し、笑いを誘う。表現は、彼のトランペットの音色同様、豊かだ。
やがて学校の部活だけでは飽き足らず、地元のジャズクラブに顔を出すように。高校卒業後は、地元の総合大学に進み、同じくビッグバンド部で活躍。全国コンクール初出場で10位の好成績をおさめた。その頃から、プロのミュージシャンを目指すようになり、20歳でボストンのバークリー音楽院のサマーキャンプに参加した。そこで、はじめて音楽的な教育を1ヶ月受けたが、人生を決定するような経験は、そのボストン短期留学の後、ニューヨークで起こった。
来米を決意させたショックな事件
ニューヨークの従姉のアパートに1ヶ月だけ居候を決め込んだ黒田。日中はセントラルパークとスタジオでトランペットの練習に励み、毎晩、深夜になると地元のジャズバーを回って「飛び入り歓迎」のジャムセッションに参加しては腕前を試す日々を送っていた。ある晩、楽器を持ってアッパー・ウエスト・サイドにある名店「Cleopatra’s Needle」に乗り込んだ黒田。ステージ上のプレーヤーたちはそこそこの演奏をしていた。「これなら俺も入れるな」。曲の終わり頃、参加の意思表示をしようと腰を上げたその瞬間、若手黒人プレーヤーが数人、どやどやと店内に入って来て、前の演奏者たちを押しのけるようにして強引に演奏をはじめた。
「よく知っている曲だったんだけど、彼らが何を演奏しているのか、耳が全くついていけなかった」。その技量を目の当たりにして、黒田はテーブルの上のトランペットをそっと隠した。「『お前、ラッパもってるやん。吹き』なんていわれたらあかんと思って、『俺は客やで。聴いとるだけよ』って顔しましたね」。きっともの凄く経験のある有名な人たちに違いないと思い、演奏後、おそるおそる全員の名前と年齢をきくと、「全員無名で、しかも19歳とか俺より年下でした」。その時のショックが黒田を奮い立たせた。
「あの時、“正しい人”の演奏をあそこで聴けてよかった。あれで、フンドシを締め直したんです。ニューヨークはこんなにもレベルの高いところなんや。ならば『挑戦してやろう』と自戒したわけです」。その後、黒田は名門校「The New School for Jazz and Contemporary Music」に入学した。そこには、あのライブハウスで驚くべき演奏をしていた黒人ミュージシャンが生徒として「全員いてびっくり。彼らと一緒に吹き合った4年間は、それはもの凄い量の練習をしたし、勉強にになりましたよ。それでも、自分が『イケてる』なんて思ったことは片時もなかった」と黒田は振り返る。
生活のための他流試合に全力投球
充実した大学生活。トランペットの技量も格段にアップした。本当の苦労がはじまったのは、卒業後からだった。とにかく仕事がなかった。「金さえもらえれば何でもやりました」。ゴスペル、サルサ、アフロビートなど他ジャンルの仕事も積極的にやった。ブロンクスのゴスペル教会は、わずか75ドルの報酬だったが毎週通ったおかげでゴスペル音楽の本当のあり方が分かった。一方、アフロビートバンドでは、ビートの出し方が分からず面食らった。「ジェイムス・ブラウンとアフリカンリズムの融合だって説明されたけど、どうしても『はまらない』感があって。たとえば、ものすごい江戸弁の人たちに囲まれて俺だけがべたべたの関西弁しゃべってるような感じでしたね」
しかし、やがて彼らのリズム感覚が分かってくるにつれ、それは黒田に「音楽言語」の一つとして身についた。ジャズ以外の分野でも最高レベルの音楽が結集するニューヨークである。生活のためだったが、思いのほか、自分の音楽表現の幅を広げるのに役立つことになった。
ホセ・ジェイムズとの出会い
ジャンルを越えてがむしゃらに音楽を追究していた頃、大学の同級生を通じて、国内外で絶大な人気を誇るジャズ・シンガー、ホセ・ジェイムズと知り合った。ちょうどアルバムの制作中だったホセは、黒田にトランペットでの参加を依頼した。「後で知ったんですが、ホセはいつもテナーサックスを起用する。『トランペットなんか絶対使わない』って言い張っていたそうなんです」。しかし、黒田のトランペットを気に入り、その後もホセが関わる音楽制作に何度か誘われた。こうして、お互いの音楽性の接近を意識しするようになり、二人のケミストリーはさらに深まった。そして、3年前、ホセが正式にトランペッター黒田卓也をバンドメンバーとして迎え入れた。
その後、しばらくして、ホセが黒田にソロアルバム制作の話を持ちかけた。ホセ自身がプロデュースするというのだ。「以前から俺のライブも観に来てくれていて、俺はタクヤのファンなんや。お前はもっと前に出なあかん、っていわれて」。レーベルはホセと同じ「Blue Note Records」。千載一遇のチャンスが巡ってきた。当然、二つ返事で「Yes!」のはずだったが、黒田は即答できなかった。
アルバムの録音には、ホセのバンドメンバーを使うのが条件だったからだ。「本来の筋として、ずっと一緒に音楽をやってきた自分のバンドで録音したかった。でもホセは、そこは譲れないという。悩みましたよ」。結局、ホセの「いいものをつくるため」という情熱に押し切られたが、自分のバンドのメンバーにはなかなか切り出せず、一人ひとり、個別に説明して回った。だが、意外にみんなカラッとしていて、ひがみもねたみもなく、全員が幸運を祝福し応援してくれた。今、黒田は、その時のホセの判断を評価し、信頼を置いている。ホセとの出会いは、ソロトランぺッターとして黒田に光を当てた。
ジャズでストーリーを奏でる
ニューヨークが秋めいた頃。東京で開催されたJUJUのステージに参加した黒田。レーベル契約後、はじめての日本ツアーを終えニューヨークへ帰国した。東京では目まぐるしくも充実した時間を過ごしたと、晴れ晴れとした顔を見せた。「でもやっぱりニューヨークは落ち着きますね。ここにいるとすごくシンプルに過ごせる。寝食か音楽か。それしかないんですよ」。時差ぼけをものともせず、いつものように、ブルックリンの小さな自宅のスタジオで今日もトランペットを吹く。
新しい表現やスタイルを常に模索しながら成長する音楽。それがアメリカが生んだ近代音楽、ジャズである。ジャズには技法と作法があり、歴史と計り知れない量のジャズの「言葉」がある。優れたジャズミュージシャンであるためには「言葉」やジャズで「語る内容」をいかに沢山知っているかはもとより、それをどういうセリフ回しで表現するかが問われる。トランぺッター黒田卓也が日本人で初めて「Blue Note Records」からソロアルバムを出すことができたのは、同レーベルに居並ぶ先達同様、黒田がジャズという言葉を使ってストーリーをどう語るかを知っているからではないだろうか。低く響くトーンで、関西弁のユーモアも交えて次から次に語られる彼のストーリーに耳を傾けるうちに、その独特な語り口と、彼のトランペット・サウンドが重なる。この先も黒田は「言葉」を増やし、新しい表現でストーリーを語っていくのだろう。
takuyakuroda.com
Photographer: Koki Sato
Writer: Hideo Nakamura
Album Cover Photo by Hiroyuki Seo