回顧する男は、マーク・リーダー(Mark Reeder)。
イギリス人音楽プロデューサー、ミュージシャン。そして“音楽運び屋”。
冷戦時代、ベルリンの壁と秘密警察の手をくぐり抜け、
抑圧の東ベルリンへ禁じられたパンクロックを“密輸”した男である。
「壁の西側には色鮮やかなグラフィティが施され、東側では兵隊が銃を構え整列する」
人権、文化、金銭の価値、国民の一生、そして人間の尊厳を決定した
高さ3メートルの「ベルリンの壁」。
それを境に、西は「経済」「自由」「文化」のすべてが豊かに栄え、東はすべてに飢えていく。
それは「音楽文化」も同じだった。
命懸けの東から西への逃亡。厳重な検問を乗り越えねばならない西から東への越境。
しかし、マークは幾度となく壁をすり抜けた。
西から東へ極秘の“ブツ”、パンクを密輸、禁じられた音楽を東に紹介するため。
これは、かつて“音楽密輸人”だった張本人の回想録だ。
前回のエピソードでは、ベルリンの壁崩壊に向かい時代が前進するなか、規制緩和が進んだ東の音楽シーンやぼくがプロデュースを担当した東の人気バンドのアルバム制作秘話などを明かした。今回は、壁崩壊前夜、東にも欧米のミュージシャンが演奏しにやってきたことや東の者が殺到したデヴィッド・ボウイの“壁ギリギリ”コンサート(実際ぼくは現場にいなかったが)、ディー・ヴィジョンのアルバム発売前に起こった、世界史に残る大きな事件…。ベルリンの激動期を語っていく。
#009「ベルリンの壁崩壊前夜の奇跡ー ボウイが壁を背に向け歌い、平和の行進が街を扇動する」
1989年5月、ハンガリー政府がハンガリー・オーストリア間の国境を開放、鉄条網を撤去*した。この出来事は、ドイツ国民に大きな変化をもたらした。数百もの東の者たちがハンガリーの観光ビザを申請しはじめたり、友人が東欧に消えたかと思えば数日後に西側諸国に出現したなんて報告も日々耳にするようになった**。東は確実に崩壊しはじめ、混沌と革命の時代にさしかかっていた。予定されていた東ドイツ40周年パレードが、天安門事件のような惨事なるんじゃないか、という噂さえも流れていた。チェコ共和国は亡命を計る東ドイツ民を阻止すべく、ハンガリーとの国境を閉鎖せざるを得なかった。たいてい誰にでも、私財をなげうって亡命した知り合いがいる。東ベルリンには実に不穏な雰囲気が漂っていたが、ベルリンの壁が崩壊する気配はまだなかった。
*第二次世界大戦後、社会主義政権国家だったハンガリーにも、オーストリアの国境にベルリンの壁のように鉄条網が敷かれていた。しかし1980年代になると民主化運動が進み、1985年には、旧ソ連ゴルバチョフ書記長がペレストロイカ(改革)を掲げ、新思考外交を展開して緊張緩和を進めた。
**ハンガリー経由で西側に亡命できるかもしれないと、多くの東ドイツ国民が隣接するチェコスロバキア(当時)やその先のハンガリーに押し寄せた。
東では不協和音が流れる一方、音楽規制は徐々に緩和されていった。東は西のアーティスト、たとえば、ブルース・スプリングスティーンやローリング・ストーンズ、それにデペッシュ・モードでさえをも招待しパフォーマンスをさせていた。さらに東との国境に隣接する西ベルリンの国会議事堂(プラッツ・デア・レプブリック)前では、マイケル・ジャクソンやピンク・フロイド、バークレイ・ジェイムス・ハーベスト(英プログレバンド)のコンサートを催したのだ。
さらに87年、東ドイツのニュースはこう告げた「退廃的(デカダン)な身なりの若者たちが殺気立って国境付近に詰めかけています!」[1]。デヴィッド・ボウイが国会議事堂前(西側)でベルリンの壁を背に向け、ステージに立った*のだ。ぼくは現場にはいなかったのだが、何百もの東のファンたちが壁に殺到し、東ドイツ警察が出動、彼らの鎮静にあたったと聞いた。公の場で「壁をとり壊せ!」と叫ばれたのはこれがはじめてだった。
*1987年6月6日、ボウイは西側の壁ギリギリでコンサートを開催した。何千人もの東の者が国境(壁)に集まり、ボウイの姿が見えないまま必死で彼の歌声を漏らすまいと聴き入った。東にも向けられたスピーカーからは、名曲『ヒーローズ』も流れてきた。ヒーローズは、ベルリンの壁で落ち合う恋人同士を見て書かれた曲。曲を演奏する前、ボウイはドイツ語でこう叫んだという。「壁の向こう側にいる友人たちに私たちの願いを送ります(We send our best wishes to all our friends who are on the other side of the Wall.)」。東の若者たちは、ボウイと一緒に合唱した。このコンサートから1週間後、レーガン米大統領が旧ソ連ゴルバチョフ書記長に壁の取り壊しを申し入れた。
音楽の力はさらに大きくなる。89年7月、雨降りの土曜。西ベルリンでとあるデモンストレーションが遂行された。といっても、なにに抗議反対するわけでもない。150人のレイブミュージックファンが集い、“平和、幸福、パンケーキ(Peace, Happiness and Pancakes)”をモットーに愛と平和、自由を讃美し行進したのだ。その後も毎年行われることとなったレイブ・パーティー「ラブ・パレード」の誕生だ。
政治体制にも翳りがみえてきたのは確かだった。89年10月7日、カール・マルクス大通りで行われた東ドイツ40周年のパレードにも顕著にその兆しはみえた。これまでは国民のほとんどが参列していたパレードだったが、この年ばかり盛況ぶりを失い、閑古鳥状態。議事堂付近では、“Gorbi! Gorbi!(Gorbiはゴルバチョフの愛称)”と唱える群衆が、教会には新政党の代表たちの話を聞きに集まった市民たちが、アレクサンダー広場にはスターリンのような鋼鉄な態度を徹底していた東のトップ、エーリッヒ・ホーネッカーへの抗議運動を率いる人々が見受けられた。数日後、ホーネッカーは辞任することとなる。
明らかに時代が変遷期を迎えるなか、ぼくはというと、東のインディーバンド、ディー・ヴィジョンのアルバム制作をあらかた終えていた。最終ミックスをする前に休暇が欲しかったため、89年11月8日の晩、東欧への旅に出発していた。その翌日の11月9日になにが起こったのか知ったのは、10日後の道中でだった。ポーランドのクラクフで知り合った学生たちと遊び、チェコスロバキアで雪山のゲレンデ外にあるディスコでダンスし、ハンガリーでワインテースティングを嗜んでいるときに知った「ベルリンの壁、崩壊」。ぼくは、ヒトラーの死以来の、非常に歴史的に重要な事件を目撃できなかった。不思議なことに、この知らせを聞く前、旅で出会った誰もがこの大きな報せをぼくたちに教えてくれなかった。しかしこの事件を知ったからといって、西との電話回線がないため現場状況は掴めない。ぼくは友人たちと東欧旅行を続行することにした。
壁は、すでに崩壊した。ぼくがルーマニアからベルリンに戻ってきた頃、アミーガ(東ドイツ国営レコードレーベル)が大きな政変を経験していた。強硬な共産主義者たちがクビなり、アミーガが解体されていたのだ。新しく代表に就任したのはマティアス・ホフマンという男で、彼から「アミーガは“ZONG(ゾング)”に改名した」と聞かされた。そしてディー・ヴィジョンのアルバムはリリース続行だとも告げられた。
この大政変の真っ只中、アルバムは最終ミックスの段階を迎えていた。エンジニアたちは西のスタジオで制作したいと切望したので、ぼくたちはベルリン・アンハルター駅付近のスタジオで作業することにした。ここには最先端のミキシング機材が揃っていて、それはアミーガの“フランケンシュタインDIYレコードスタジオ”とは正反対だった。
このアルバムの名前はもう決めていた。『Tourture(拷問)』。ドイツ混乱期・大政変期に、アルバム制作で経験した困難(社会主義特有の限られた時間体制や電圧で音源とぶ、ドラムマシン“密輸”)だけでなく、東の者たちがこれまで経験してきた苦悩をも象徴する言葉だと思ったからだ。いま振り返れば、これは間違いなく歴史的な作品となった。アルバムは、選択の自由という賜物を与えられた何千もの東のキッズたちのサウンドトラックとなったのだ。彼らのほとんどは、オリジナル盤を持っていなかった。友人のアルバムを焼き増ししたり、レコード盤からカセットに落としたものをまたコピーしたり。若者たちのこの行為が、アルバムを格別な存在にした。そして東西が統一されたいま、このアルバムは“東”ベルリンの国営レコードレーベルが出した最後のアルバムとなった[2]。
次回は、いよいよ最終回。壁崩壊直後にぼくが開設したレコードレーベルからテクノレジェンドたちが誕生したこと、そして音楽に解放されたドイツ・ベルリンのミュージックシーンの発展、東西に分断されていた国を一つにしたテクノの軌跡について、話を締めくくる。
ベルリンの壁崩壊後、DIYクラブにて。これまでドラッグ未経験の東のキッズが、西のキッズも交え、一緒に“E(エクスタシー)”を体験する光景は、なかなか印象的だった
マーク・リーダー/Mark Reeder
1958年、英・マンチェスター生まれ。78年から独・ベルリン在住。ミュージシャン、プロデューサー、サウンドエンジニア、レコードレーベルの創設者として英独、世界のミュージシャンを育てあげる。
過去にはニュー・オーダーやデペッシュ・モード、電気グルーヴなど世界的バンドのリミックスも手がけてきたほか、近年では、当時の西ベルリンを記録したドキュメンタリー映画『B Movie: Lust& Sound in Berlin (1979-1989)』(2015年)でナレーションを担当。現在は、自身のニューアルバム『mauerstadt』の制作やイギリスや中国などの若手バンドのプロデュースやリミックス、執筆・講演活動なども精力的に行っている。markreedermusic(ウェブサイト)
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Writer: Mark Reeder
Reference: [1] [2] Reeder, Mark.(2015). “B BOOK: LUST&SOUND IN WEST-BERLIN 1979-1989”. Edel Germany GmbH
All images via Mark Reeder
Translated by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine