「なんで続けるかって?絵が売れねえからだよ」「有司男と結婚したのはね、アートのためなのよ」。そう言うのは、ブルックリンのダンボに住み続ける芸術家夫妻、篠原有司男(しのはらうしお)と篠原乃り子。話題を呼んだドキュメンタリー映画「キューティ&ザ・ボクサー」(ザック・ハインザリン監督)の主人公だ。 エリート街道を進み日本で名を馳せるも、ニューヨークに来て鳴かず飛ばずの有司男。初の個展は、渡米20年目だった。乃り子は、アーティストを夢見て19歳という若さで渡米するも、有司男との結婚でアートどころかアル中の夫と生まれた幼子の世話で波乱の嵐。 それでも己のアートを求めることをやめられない、 いわばアートに人生を狂わされ続けた夫婦の闘いとその生活を赤裸々に描く。 同作品は昨年の第86回アカデミー賞にノミネートされ、二人は一躍世界的な有名人となった。
通常は一緒に取材を受けることが多い夫妻だが、今回はそれぞれの内面に切り込むべく、ばらばらに話を聞いた。ギュウちゃんこと有司男は82歳、乃り子は61歳。毎月家賃ぎりぎりの生活を続けて、40と数年が経つ。二人のアート魂は依然として、ぎらついて眩しい。
「なんで続けるかって?絵が売れねえからだよ」
Interview with Ushio Shinohara
HEAPS:(以下、H)映画の人気が相変わらず続いています。映画に出演されてから何か変わりましたか?
有:街を歩けば声かけられるし、地下鉄の中で目が合えば向こうがビックリするし、これまでニューヨークは他人の国だったのに、もう「俺の国」みたいな感じになってきたよ。「あんた俺のこと知らないの?」みたいな。
H:映画の印象は?
有:最初観たときはもう頭きたね。全然、僕じゃないんだもん。ラブストーリー仕立てにしちゃったんだよ。僕のアートには全然切り込んでこないでしょ?「まあ、いいんじゃない」、それで終わりよ。ずっと欲求不満だね。
H:ギュウちゃんのアートはいつも常識に挑戦するというか、反骨精神に貫かれていますが、その源泉はどこに?
有:父は詩人、母は日本画家。両親ともに福岡県生まれ。上京して、アーティストを夢見て闘っていた。九州でしょ、西郷隆盛もそうだけど、反骨精神の塊よ。だから中央や体制なんてぶっ飛ばせっていう血筋なんだよ。あとは生まれつきだね。牛男(本名)なんて名前だから昔からいじめられてさ。そりゃ反骨精神が育つよな。
H:番町小学校、 麻布中学、麻布高校、東京藝術大学と、絵に描いたようなエリートコースを歩まれている。
有:あんなのだってコネで入ったんだよ。疎開から帰って来て親がたまたま麻布中学の校長知ってたから、コネよ。だって無試験だぜ。藝大?藝大はねえ、あれはいろいろあるのよ。
H:藝大在学中から、前衛芸術の運動に積極的に参加されていました。いわゆる洋画とか印象派などフツーの絵も描かれていたのですか?
有:印象派?あんなのお茶の子さいさい。カンタンよ。
H:そちらの方向に行かなかったのはなぜ?
有:やっぱり時代だね。50年代、60年代っていったら世界は「嵐」だもん。現代美術も映画も小説もみんな反骨精神に溢れていた。実存主義とかの影響もあったし、サガンの「悲しみよこんにちは」なんて今読んだら「スケバンの悲しみ」みたいな話だぜ。あとマーシャル・マクルーハン(米のメディア学者)の「世界で一番偉いのは芸術家である。彼らは未知の世界に一人で飛び込んでゴルゴンの首※を切り取ってくる」っていう言葉にも勇気づけられた。岡本太郎の美の三原則「きれいであってはいけない、心地よくあってはいけない、うまくあってはいけない」からも影響受けたよ。
※ギリシア神話に登場する怪物ゴルゴンの三女メデューサの首
H:高度経済成長の恩恵はなかったのですか?
有:60年代のアートは全部「こんちくしょう」だよ。1964年の東京オリンンピックで儲けたのはデザイナーと建築家だけ。僕たち現代美術家は仕事も何もない。ポケットにはノーマネー。絵具代もないから頭剃って一本線にして、これがアートだ!なんて無理ばかりやってたんだね。
H:どうして、その反骨のパワーを今も持続しているんですか?
有:そりゃ、絵が売れないからよ。あのまま日本にいたら偉くなっていたかもしれない。ニューヨークに来たのが運の尽きだね。
H:たしか立派な奨学金で1969年に渡米されたと伺ってますが。
有:ロックフェラーの奨学金。とにかく才能よりも「ちょっとイカれててもいいから外国生活に耐えられるようなタフな奴を」ってことで僕が選ばれたわけ。評論家たちも「篠原がいいんじゃないか。あいつ早く日本から追い出しちゃえ」って感じでね。最初の一年は、奨学金貴族だったね。タクシーなんか乗っちゃって、先に来ていた日本人アーティストたちからは白い目で見られたよ。
H:ニューヨークに永住しようと思い立ったのは?
有:やがて奨学金が底をついたら何にもないわけ。(当時の)女房子どもも「こんな汚いところいられない」って日本に帰っちゃう。ロフト代だって一銭もないんだ。そこで、ぐうーっときたね。いいねって。だって当時69セント出せばたまご二つとトースト、それにコーヒー付きの朝飯食えたんだよ。それを食いながら外を見ると雪がしんしんと降っていてさ、その時、もの凄いエネルギーが湧いてきたね。そこで生きたのが、かつて日本でやっていたクリエイティブな発想。既存の画材ではなくゴミを使って作品を作るとか、頭剃ってこれがアートでござい、とかね。
H:そして生まれたのがギュウちゃんのお家芸ともいえるオートバイ彫刻なんですね。
有:そう。道に落ちている段ボール拾って来てね。ヘルスエンジェルスを見てひらめいたオートバイを作ってみたら、これはウケたね。
H:当時はやはり同時代のニューヨークアーティストからの刺激も多かったのですか?
有:刺激を受けたのはニューヨークのアートからじゃないよ。むしろアートなんか世界で最低だと思ったね。ジャクソン・ポロックのアクションペインティングだってちょこちょこやっているだけ。僕の「パカーン」とやるアートに比べたらもう全部「サイテー」よ。で、本当にスゲーと思ったのは、この街、そのものだね。
H:街?というと?
有:というのは、ある日、ブロードウェイの小汚いレストランで飯食ってたわけよ。周りにカワイ子ちゃんとかいてさ。で、窓の外を見るとボロを着た背の高い男が行ったり来たりしているの。すると突然、向かいのアベックの女の子ほうがパッと下向いちゃったの。「おい、どうしたんだ」と思って外の人物を見たら、キン◯マに針金さしてそこに月桂樹の枝をつけて堂々と歩いているじゃない(笑)。それ見たとき、「この国じゃ、(アート)パフォーマンスはできねえな」と思ったね(爆)。すごいすっきりしたよ。あれ見ちゃったらね。「もうやめた」って。
H:その後、1989年に在米20年目にして個展を開かれましたね。
有:あれは当時のJapan Society Galleryの館長の肝入りでね。ちょうどロックフェラー3世基金の大きな予算が余っていたところで何をやるか?という議論になって。お茶とか華道とかいろんな候補があった中で館長が「シノハラの個展を」って白羽の矢を当ててくれたのよ。優等生、劣等生関係なくアートそのものを見てくれるところがアメリカの良さだね。ニューヨーク・タイムズも大見出しで「シノハラは頭からアメリカ文化にぶつかっている」って書き立ててくれた。現地の日本人アーティストからのやっかみや批判もあったよ。特に先輩たちは「苦労してやってきたのに何であの野郎に先を越される?」って地団駄踏んでいたな。ジェラシーだらけだ。イサム・ノグチだって制作のエネルギーはどこから?って聞かれて「ジェラシーだ」って答えてるよ。
H:いまのギュウちゃんにもありますか?ジェラシー。
有:あるとも。ジェラシーだらけだよ。絵が売れて億万長者になった奴なんか見るとぶっ飛ばしてやりたくなる。
H:厳しいニューヨークのアート界に見切りをつけて東京に引き上げようと思ったことはありますか?
有:それはないよ。だって、今の東京、絵具を洗った水さえ捨てられないっていうじゃない。毒性があるからだって。日本画なんか特に絵具の毒が強いんで、日本のアーティストはみんな泣いてるよ。そんなところで俺の絵が描けるわけないじゃん(注:ギュウちゃんが好んで使う蛍光色も毒性が高い)。それはともかく、俺の顔見ただけで、日本のほうでも「こりゃバイ菌だ。出てってくれ」だよ。
H:寂しくないですか?里心みたいなのは?
有:里心は京都、奈良だね。今年の5月に奈良の興福寺で見た阿修羅には感動した。阿修羅本体のほうではなくて、完成当初の色を再現した阿修羅がよかったね。極彩色で全然印象が違う。当時の人はこれを拝んでいたんだなあ、って。それはずっと俺が思っていたことなんだよ。つまり、国宝の、色がはげ落ちた阿修羅をあがめ奉るのは、学者や歴史家のエゴイズムに過ぎない。美の本質はまったく別のところにあるんだよ。
H:なるほど、名作や古典の新しい見方ですね。
有:そう。見方を変えれば古典って凄く面白いんだ。西洋美術も同じ。たとえば、ミケランジェロのダビデ像。今では、みんなが「あ、教科書で見た」といって通り過ぎるくらいの有名作品だけど、あの彫刻を彫った時に一番難しかったのはどこか、知っているかい?
H:さあ…。
有:キン◯マだよ!あれねえ、当時は公開制作で彫っていたから観衆が見ているわけ。その時に「ミケランジェロ様は、あのキン◯マをいつ彫るのだろうか」っていうのが大変な話題になっていたんだよ。よくみると、あれダビデは若いから包茎なんだよね(笑)。
H:御年82歳。お元気ですが、82歳の実感は?
有:ない。地下鉄の階段をのぼるときのスピードが若い人にかなわないのが悔しいぐらい。
H:日本の前衛アーティスと仲間が次々に他界されてますが、寂しくはないですか?
有:ぜーんぜん!だって、後から若いアーティスとたちがどんどん来るじゃん。
H:落ち込んだり気が滅入ったり暗くなることはないんですか?
有:そんなのまったくない。落ち込んだりしてたら人々に感動を与えることができない。アメリカの現代美術を全部ぶっこわしてやろう、ってくらいの気持ちなんだからさ。
H:制作はほとんど一人でやられてますね。
有:だってアシスタント雇う金がないんだもん。大体、売れっ子アーティストが金にあかせてやっているアシスタント・ワークには意味がない。アートは「てめえの手で作る」もんだよ。そもそも、アシスタントなんていたって、俺の場合、やることないけどね。
H:ギュウちゃんの考えるアートの意義ってどこに?
有:フューチャー(未来)だね。フューチャーを変えて面白い物を起こさせるのが僕のアートなんだ。コレクターのテイストみたいなものにも安住しないで画商と一緒にぶちこわして新しいコレクター層を切り開いていかないとね。
H:世界に対してアートは何ができますか?
有:世界中で紛争やら殺戮やら凄いことが起きているわけだよ。その中にメッセージを突きつけるのが僕らの使命だと思う。そのためにはつねに新しい物を作り続けて行かなくては。いつまでも伝統的な侘び寂びの美学や古典だけでは「喧嘩」は収まらないよ。
H:世界を変えるアート。変えている実感はありますか?
有:実感?実感なんてないよ。絵が売れてないからね。だいたい、「実感」なんて言葉、古いよ。そういうのはお土産のうまい饅頭を食ったときに感じりゃいいんじゃない?
篠原有司男(しのはらうしお) 82歳。東京藝術大学を退学後、前衛藝術運動ネオ・ダダイズムのメンバーとして活躍。1969年に奨学金を得てニューヨークへ。段ボール素材による巨大なオートバイ彫刻やボクシング・ペインティングなどユニークな表現で世界から注目を浴び、高い評価を受けるが作品はなかなか売れず。酒に溺れ、どん底の日々もあった。それでも独自のスタイルを貫き続け、アーティストであり続ける、現役の前衛芸術家。
|
篠原乃り子(しのはらのりこ) 61歳。1972年、19歳でニューヨークに美術留学。その半年後、有司男と出会い、結婚し出産。そこから妻、母として自身のアーティスト人生を犠牲に。アル中の夫と子どもを抱えての貧乏生活、奮闘の日々。しかし、子育ての傍らに自らの表現を開拓。油絵、エッチングなど様々なメディアで作品を発表している。そのカオスの日々を描いた、自らの分身「CUTIE」というキャラクターが登場する『CUTIE AND BULLIE(キューティー・アンド・ブリー)』シリーズで、独自の才能を開花させている。 |
「有司男と結婚したのはね、アートのためなのよ」
Interview with Noriki Shinohara
H:乃り子さんは、子育てやギュウちゃんのお世話のせいでアーティストとしての本領をなかなか発揮できず、悶々とされていたのですか?
乃:私自身、彼のフォロワーだったのね。だから、そんなに悶々とはしていません。だんだん自分の中に目覚めてくるものができてくると、フォローしなくなったの。すると向こうもそれを感じちゃうわけ。自分のフォロワーでないものが周りにいることが我慢できなくなって、そこからは大変な対立でした。
H:ギュウちゃんは、乃り子さんのアートをどのように見ているのでしょう?
乃:彼は他人の作品には興味がない。自分を見てもらいたい人だから。でもこっそり描いていた私の作品がだんだん周りから注目を浴びるようになると気になって初めて見たわけ。
H:現在は、二人とも別々の制作スペースを持っていらっしゃいますね。これにはわけが?
乃:以前は、同じ空間を共有していました。その頃は、私が絵を描いていると15分に一回は覗きにきて助言されましたね。それは私の絵に関心があるのではなく、自分の助言どおりに私に絵を描いて欲しかったからなんです。だから完成した絵には関心がない。
H:でも助言の裏には愛があるのでは?乃り子さんを気にかけているのでは?
乃:ノー。そうじゃないの。相手は誰でもいいの、助言したいだけなんです。あまりにもうるさいので、ある時、私はアトリエを整理して、境界線を引いて「ここからは私の国である」って宣言したんです。そして、この「国」の中にいる私に声をかけてはいけない、話しかけてはいけない、というルールを作ったんです。それからですね、私が自分のアートに没頭できるようになったのは。
H:ギュウちゃんは大変な個性の持ち主ですが、映画にも描かれていた苦労の歴史はかなりあるのでしょうね。何が一番つらかったですか?
乃:彼はアートだけでなく、日常生活でもコントロール・フリーク(仕切りたがり屋)なんです。たとえば、子育てに関しても、自分は前妻との間の子どもを育てた経験があると言って、私の子育てにさまざまな口出しをしてきました。それがことごとく記憶違いで、まったくメチャクチャなんです。本当にひどかった。料理でもそうです。自分が全然知らないくせにちょっかいを出してくる。それで、しょっちゅう喧嘩になりましたね。「いなかったら、どんなに楽か」と思いましたよ。
H:いなかったら今の乃り子さんはないでしょう。
乃:出会わなかったら、私は本当に幸せな人生を送っていたでしょう(笑)。
H:実際に、ご主人を放り出して帰国、あるいは他の国に逃げてしまおうと思ったことはありますか?
乃:勇気がなかったからそれができなかったのだと思います。あと、時代の違いもありますね。私が子どもを産んだのは1974年で、やがて両親の知るところとなったのですが、真っ先に言われたのが「前の奥さんに子どもを渡して、帰ってらっしゃい。帰国したらすぐお見合い結婚させるから」ですよ。だから帰るわけにはいかなかったし、20歳のキャリアもない未婚の母に選択肢はなかったわけですよ。しかも、学校もやめたので学生ビザは剥奪され、モグリ状態。だから働いて自分で稼ぐこともできなかったんですよ。
H:いちばんつらかった時期は?
乃:子どもが3歳までがきつかった。夫はアル中でしかも子育ての一番大事な時に理解をちっとも示してくれなかった。当時はお金がなくて地下鉄にも乗れず、朝起きるとまず考えるのは「今日のミルク代どうしよう」。あの時代が一番暗かったですね。
H:そんなどん底を乗り越えてきた原動力は何なんでしょう?
乃:アートですね。レストランでの仕事とかをしなかったのがよかったのかもしれません。それをやっていたら、すべてを捨てなければいけなかったでしょう。絵描きになる夢も。かろうじて夫婦としてくっついていたから、何とか一緒に乗り切っていかないと、との思いも続いたし、何と言っても、アトリエに落ちている紙の端にでも絵を描くことはできた。別れて仕事につけば、それはそっちのほうが生活面でも精神的にも正しい方向だし、子どももすくすくと育つと思った。けれど、そうしたら私はすべてを諦めなければいけなかった。自分はなぜニューヨークに来たのか?なぜ有司男と一緒になったのか?それはすべてアートのためだったわけでしょう?と、最後にはいつだってそこに思いが至ったわけです。
H:そこまで人生の根幹を占める乃り子さんにとってのアート。アートって何なんですか?
乃:アートはミステリー。あるいはマジックだと思う。アートというのは日常じゃないわけ。宗教でもない。よく分からない謎。だけど何か心をつかんで離さない。そのマジックに虜になると、たとえ生活がボロボロでも続けるしかないわけ。フォスターという音楽家が最後はアル中で、手に25セント玉を握りしめながらバワリー通りのシェルターで死んでいたという逸話があるんだけど、私はそれが芸術家としては大変納得できる死に方だと思う。
H:映画のタイトルになったキューティー、その誕生が乃り子さんのアーティスト人生を大きく変えましたね。
乃:キューティーというおさげのキャラクターが生まれたのは、2002年にNHKの番組の仕事でペルーのクスコを訪ねたのが一つのきっかけです。あの時に現地のインカ族の女性がしていた三つ編みがとてもチャーミングで。その年の夏のある日、いつもはシニョンにしていた髪型を気分を変えてその三つ編みにして、ショートパンツにブルゾンという仕事着のままで近所の食料品店にミルクを買いに行ったら、長身の若者がスーッと寄って来て“Hi, cutie!”って声をかけてきたんです。その時、私、49歳。「この年でもキューティーか!いいな」とひらめき、以来、この髪型が私のトレードマークになったんです。それから5年後、グループ展に出した作品にて、そのおさげ三つ編みをした少女を主人公に「アーティストの夫の横暴に仕返しをする」ストーリーを描いた。それがキューティー・キャラクターの始まりです。その夏に描いたコミックを3年後に見た映画のザック監督が感動して、これをアニメーションにして映画に挿入、さらにタイトルにも使用したというわけです。
H:キューティーで具体的には何が変わりました?
乃:それまでは油絵でもエッチングでも、つねに先達、たとえばミケランジェロとかラファエルとかセザンヌなど西洋絵画の巨匠をどこか意識して描いていたんです。彼らに近づきたいな、まだ下手だな、と。でもキューティーが生まれてからは、もはや、そういう「フォロー」は必要なくなった。これが「自分で作り出したアート」だって自信がついたんです。だから、キューティーで初めて私は自分が絵描きだって恥じることなく言えるようにりました。ちなみに、先週、あるドキュメンタリー映画監督から「ノリコの作風でアニメパートを作りたいので急いで原画を描いてくれないか?」と発注を受けました。キューティーは出てきませんが、私のスタイルが認められたと感じました。
H:最後に、いつも輝いている乃り子さんに、お年の質問。実年齢を意識することがありますか?
乃:ないわね。私の実年齢は、まだ17歳ですよ。もっともパスポートには違う年齢が記されていますが、あれはあくまでもフェイクID※ですから。
※偽の証明書。アメリカではティーンエイジャーが年齢を詐称して酒類を買うときなどによく使う。
ushioshinohara.com
Photographer: Omi Tanaka
Writer: Hideo Nakamura