文化表現の自由を掴みに走った雑誌『Staffrider』。南ア・アパルトヘイト政権下のクリエイター、アンダーグラウンドの共闘

現代アフリカアートが花咲く、南アフリカ。その40年前、アパルトヘイト政権下。文化を開花しようとともに闘ったクリエイターたちの雑誌がある。
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アフリカ大陸最南端の国・南アフリカでは、いま、現代アフリカアートが活気づいている。ケープタウンに、世界最大の現代アフリカアート美術館がオープン。人種隔離政策(アパルトヘイト)撤廃・黒人政権が樹立した1994年前後生まれの「フリーダムベイビーズ」や「ボーン・フリー」と呼ばれる若い世代がつくるアフリカのクリエイティブシーンも、色鮮やかだ。

一転して半世紀以上前、アパルトヘイトが敷かれた南アフリカは“文化の不毛地帯”だった。反アパルトヘイトを主張する芸術や文学は押しつぶされ、有色人種の表現の自由は奪われる。そんな状況下で15年ものあいだ「先進的な作家や写真家、ミュージシャン、アーティストの発表の場」をつくりあげたのが、雑誌『Staffrider(スタッフライダー)』だ。

今回HEAPSは、その“場”にいた当事者である写真家と電話を繋いだ。アパルトヘイト時代にアンダーグラウンドで繋がっていた〈クリエイティブ共同体の共闘〉を再訪する。

「作品発表の場に飢えていた黒人と白人」が集う。文化雑誌『Staffrider』

 アパルトヘイト。1948年から94年、南アフリカにて、国民党(白人中心の政党)の政権下で施行された人種隔離政策のことだ。南アフリカ人を、「白人」「カラード(主に白人と先住民族との混血)」「アジア人(主にインド系、マレー系)」「黒人(アフリカ大陸の民族)」の4つに分割。選挙権から居住地、教育にいたるまで、白人と非白人(有色人種)の線引きをおこない、非白人への差別が公然とおこなわれていた。公園や海水浴場、教会、レストラン、ホテル、映画館など公共の場も「白人用」「非白人用」だ。そして1960年、パス法(南アフリカに居住する18歳以上の黒人に身分証の携帯を義務づけた法)に反対するアフリカ人群衆に向けて警官隊が発砲、死者を出したシャープビル虐殺が起こってしまう。

 非道なる政策・アパルトヘイトに対し、当然のごとく黒人(非白人全般を指す)の抵抗運動が勃発。人道活動家ネルソン・マンデラを輩出した黒人運動組織のアフリカ民族会議(ANC)や、「黒人であることの誇りと自覚を」と意識の変革を目指した学生中心の黒人意識運動。反アパルトヘイト抵抗運動家のスティーブ・ビコが率いた学生機構や連盟が積極的に活動したほか、マフィカ・グアラやアレックス・ラ・グマ、マジシ・クネーネなど南アフリカの作家や詩人が抵抗のペンをとる。これに対し政府は法の力で弾圧し、表現の自由を検閲で制限。追放・投獄・抹殺・亡命を余儀なくされる活動家や芸術家が相次いだ。



「1960年代後半から70年代前半にかけて、先進的な思想をもつ大学生や作家、詩人、ミュージシャン、青年団体など、新しい世代が出現しました。彼らはみな、規制や検閲なしに作品を“発表できる場”に飢えていたのです」。語り手は、60年代から反アパルトヘイト運動に参加し、アパルトヘイト体制下の社会をドキュメントした南アフリカの写真家オマー・バドシャ (75)。非白人と、アパルトヘイトに反対する白人の“発表の場”となったのが、1978年にヨハネスブルグで創刊した文化雑誌『Staffrider(スタッフライダー)』だ。厳しい状況下でも、アパルトヘイトが撤廃されるまでの15年あいだ、出版を続けていく。人種や文化の抑圧に抵抗する作家や写真家、アーティストの詩や短編、脚本、小説、グラフィック、ファインアート、風刺画、ドキュメンタリー写真などの作品を掲載し、先進的なクリエイターの表現をアンダーグラウンドで発信。オマーも、参画クリエイターの一員として携わった。


編集員は“寄稿者”。各地のクリエイターコミュニティ参画、民主的な誌面づくり

「スタッフライダーには、決められた“編集部”というものがありませんでした。各地のクリエイティブコミュニティ、たとえば、作家のグループ、アーティストのグループ、写真家のグループなどが、メンバー同士で作品を見せあい、どの作品をスタッフライダーに送るか、みんなで検討するのです。民主的な新しい出版のプロセスといえましたね」

 黒人意識運動やダーバンモーメント(南アフリカ第3の都市ダーバンで70年代初期におこった反アパルトヘイトの闘争)の熱を帯びていた国内には、作家たちが集まる「ライティング・グループ」が多数存在していたという。そのようなグループは黒人専用居住区(タウンシップ)にもあり、他都市のグループと読書会などを開き、各地の作家コミュニティと交流していた。また作家だけでなく、「詩人やアーティスト、パフォーマーなどのクリエイターたちは自分たちのグループを結成し、政治的な議論などもしていました。政治運動のカモフラージュとして、文化を武器に創作活動していた、ともいえるわけです」

 スタッフライダーを運営していた南アフリカの出版社「レイヴァン・プレス」には、寄稿者たちが各々のグループ内で掲載を決めた作品や、メンバーですでに編集を済ませた原稿が送られてくる。「出版社のチームはすごく小さいものでしたよ。3、4人のスタッフとボランティアのみで」。寄稿された作品の編集は最小限にとどめ、掲載する作品を取りまとめて誌面に載せ、出版する。



 のちに出版社チームの裁量が大きくなっていくことになるが、スタッフライダーの土台には「寄稿者主導の出版プロセス」があった。そのおかげで、ナディン・ゴーディマー(アパルトヘイトに対するリアリズム文学としてノーベル文学賞も受賞した女流作家)やダグラス・リビングストンといった有名作家の隣に、駆け出しや無名の作家の作品が載る。民主的な誌面が実現した。

「寄稿者たちはみな若く、文化表現の不自由さに悶々としていました」。その若さと勢いにせかされて、表現の自由のため共闘する雑誌スタッフライダーに「なんらかの形で関わりたい、と自然と集まってきましてね」。なかには詩作や演劇の脚本を書くブルーカラー労働者もいたそうだ。

南アフリカの現実捉える写真に詩。無免許の野菜売りや裁縫師が語る生活

「当時、黒人(有色人種)のアーティストはスタジオを持つことはおろか、アートの授業に通えるわけもない。みな独学でアートを勉強していました」。オマー自身も、自身も独学で写真を学んだという。「愛用フィルムは、コダックトライX。現像は、自宅の風呂場を使って自分でやっていました。現像してくれる業者に頼んでもよかったのですが、自分がなにを撮っているかを他人に知られたくなくて」

 表現の自由を求めていた写真家が撮る写真。それは、スタッフライダーに掲載されている写真を見ればわかる。ストリート写真や、ポートレートなどさまざまで、どれも、南アフリカに生きる人々の日常を捉えたものだ。フェンスをよじ登っている黒人の男の子。オマーが撮った「むっつり顔のスーツをまとった白人男性と、笑顔で隣に立つ黒人男性」、ガラスが破れ枠だけの窓から手を出しこちらを見る子どもたち、タイヤを転がす少年の後ろ姿、越境するかのごとく線路を横切る無数の民、トラックに荷を積む黒人労働者、崩れかけた掘ったて小屋の前で遠くを見つめる黒人女性、伝統的な陶磁器を抱え並ぶ3人の年配女性。





 作家たちの表現も多様だ。アパルトヘイト体制下の南アフリカを題材にした作品で知られ、そのほとんどが発禁処罰されていた黒人女性小説家ミリアム・トラリの連載コラムでは、無免許の野菜売りの男性や裁縫師の女性などさまざまな人々が自らの生活を語る。また、とある一般人が寄稿した詩には、こう自己紹介がある。「ソウェト(南アフリカ最大のタウンシップ)に住む25歳の独身女性です。詩を書くのが好きなのですが、時おり、警察の手に渡ってしまい、問責されてしまいます。これが私の4つの詩です。たのしんでいただければ」。作家モトビ・ムツアーツイが寄稿した新作即興劇の脚本、序文はこうだ。「脚本はたんなる手引きでしかありません。この劇の役者は自分の人生経験をもとに役を演じてください。もちろん、アフリカの男性の人生体験は、日々、悪いものから、さらにもっと悪いものへと変わっていっています」。政府の政策により不法占拠がはびこる治安の悪い地区となってしまったクリップタウン(タウンシップ)の住人のフォトエッセイでは、ある住人はこう話す。「議会や地域開発部は俺らのことを気にしちゃいない。政府だってそうだ。俺らはクリップタウンで誰からの助けもなしに生活しているんだ」。

 写真や文章だけで進むページもあれば、詩やエッセイとともに写真が展開するページもある。写真家の表現と作家の表現が誌面で共闘する鋭利な内容に「望ましくない」との理由から、1号と4号は「刊行して、すぐさま発禁になりました」。


 スタッフライダーは発禁などにビクともしない。より多くの読者に行きわたるようコストを抑えるため、表紙はハードカバーではなく紙にし、「まずは寄稿してくれた各地のクリエイターコミュニティに配り、彼らから拡散してもらうようにしました。いつ発禁になるかわからないので、書店などにはほとんど置きませんでしたね」。クリエイターたちの共闘の場は、誌面を飛びだす。アパルトヘイト体制下の南アフリカ社会をカメラでドキュメントするというコンセプトのもと、スタッフライダーの写真家たちが集まり「アフラピックス」という団体を結成。労働者階級コミュニティにある小さな集会場や、学生たちがたむろす場、アートギャラリーを開催場所に、スタッフライダーと共催で写真展を仕掛けた(第一回目のテーマは「レンズ越しの南アフリカ」)。新しい写真家を教育しようという目的から、国内のクリエイターコミュニティに写真機材を寄付していたとも。


スタッフライダーも共催した写真展の様子。1983年。Photo by Omar Badsha
Chris Van Wake editor of Staffrider and Paul Weinberg editing the first Staffrider photographic exhibition. 1983 pix Omar Badsha

「“文化表現の自由”を勝ち取るための共闘でもあったのです」

「白人層に統制されたメインストリームメディアに対し、スタッフライダーはクリエイターたちの主な媒体となっていました」。創刊当初の発行部数2,000部から7,000部にまで増えた80年代、スタッフライダーの成長とともに、国際社会からアパルトヘイトを弾糾する声が相次ぎ、多くの国が南アフリカとの国交断絶・経済制裁に踏みきった。危機的状況に立った政府は1990年、収監されていたマンデラを解放。1994年、南アフリカ史上初の「全人種が参加する制憲議会選挙」でマンデラが大統領に選出され、アパルトヘイト終結。と同時に、スタッフライダーも15年の刊行歴史に幕を閉じた。

我々クリエイターコミュニティが共闘していたのは、なにも自由や選挙権を獲得するためだけではありませんでした。それは“文化表現の自由”を勝ち取るための共闘でもあったのです。スタッフライダーは、文化そのものや文化交流の重要性を、新たな世代やより多くの人々に伝えることができたのだと思います」

「スタッフライダー」という言葉は、タウンシップで使われていたスラングだ。満杯の電車の屋根や外にしがみついて通勤する人々のことを指す。この人々とは誰なのか。それは、白人居住エリアに住むことを許されず、労働をしに行くため電車で通うタウンシップに住む若者だ。『Staffrider(スタッフライダー)』は、雑誌という乗り物に、文化表現の自由を獲得するためにしがみつく若いクリエイターたちを乗せ、表現が制限された社会を行ったり来たりしていたのだ。

Interview with Omar Badsha


現在のオマー・バドシャ。

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Eyecatch Image via Midori Hongo
All images via sahistory.org
Text by HEAPS and Shimpei Nakagawa
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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