楽器運搬、テクニシャン、バンドの世話係。肉体派ライブ職人「ローディー」
1つのバンドが、1人のミュージシャンが、曲をつくりライブをおこなうには実にさまざまな人々が動くことになる。プロデューサーにレコードレーベルの宣伝部、コンサートプロモーター、サウンドエンジニア、広報、グッズ製作会社。
そして忘れてはいけない。“彼ら”がいなければライブは成立しないといわれるのが、〈ローディー〉だ。準備中のライブ会場に早めに着くと、バンから会場に機材を運び出している彼らに遭遇することもある。仕事は、ミュージシャンが使う機材の手配から楽器の運搬、ツアーバンの運転、ライブ会場での機材のセッティング、ギターやベースの弦の張り替えやドラムヘッドの交換、アンプやPA(電子音響装置)の設置、サウンドチェックや楽器のチューニング、ライブ中の楽器交換、ライブ後の撤去作業。時には引っ越し業者並みのブルーカラーワーク、時には舞台セットのテクニシャン、またある時はバンドのセキュリティや世話係・相談係も兼ねるマルチプレーヤーだ。
花形の音楽業界を舞台裏から支える肉体派ライブ職人ローディーだが、そのなかでも“もっともタフなローディー”として名を流したのが、「ザ・オリジナル・キッス・クルー(TOKK)」。厚底ブーツに白塗りの歌舞伎メイクで世界のお茶の間で知られるロックバンド・KISS(キッス)の元祖ロードクルー(ローディーのチームのこと)だ。1973年から76年までロードクルーを務め、キッスがまだ下積みだった前座時代から、ド派手なライブで人気に火をつけアルバムも大ブレイク、黄金期に突入する初期までを支えた。バンド初の全米ツアーに同行し、豪雨も豪雪の日も楽器を積んだバンで各都市をまわり、毎晩一度限りのライブをつくりあげたピーター、J.R.、リック、ミックの4人(当時の道中を綴った本『Out On The Streets』も出版)。
今回は、キッスが国民的ロックバンドになった起爆剤でもある“ド派手なライブ演出(炎や爆発を含む)”をステージにもちこんだロードクルーのピーター・オレキント(66)に、肉体派ライブ職人・ローディーのど根性を回想してもらった。
Poster courtesy of: Martin Dean, Ron Weaver, Photographer, image via “Out On The Streets”
HEAPS(以下、H):こんにちは、ピーター。元気ですか。
ピーター(以下、P):おぅ、元気だ。君からの電話を待っていたぞ。調子はどうだ。
H:あまり元気じゃないです。昨晩マリリン・マンソンのライブに参戦するため会場まで足を運んだのに、まさかの豪雨と落雷で中止。屋外のスタジアムでしたので(※取材は8月)。
P:まあ、そりゃ外なら仕方ないな。ありゃアンプがな。雨でダメになっちまうからな。ギターアンプは高出力で高電圧だから、濡れると文字どうり爆発しちまう。感電の危険もある。バンドの安全第一だからな。
H:えぇ…でも延期公演も結局なし…。チケット払い戻しだけで悲しい。
P:金が返ってくるだけいいじゃないか。俺は昔、マディソンスクエアガーデンにジミ・ヘンドリクスを観に行ったが、ヤツは現れず金は返ってこなかった。スライ&ザ・ファミリー・ストーン(ファンクバンド)もだ。当時チケットは窓口販売だったから、もしバンドが現れなかったら「運が悪かったね」でおしまいさ。
H:ピーターがローディーとして道中を共にしたキッスもドタキャンはあったり?
P:数回だけあった。俺たちローディーが会場に5分だけ遅れて到着したら、それでもう門前払い。5分だぞ、5分。キッスは前座だったんだが、演奏する前に終了。ショーをキャンセルされるためだけに1,600キロの道のりを夜通し運転してきたのかって。そのあとカナダまで3,862キロほど北上したのに、またキャンセルを食らったってこともあった。これが道中人生(Life on the Road)ってことよ。
Poster courtesy of: Peter “Moose” Oreckinto, image via “Out On The Streets”
H:ははぁ(脱帽)。ローディーの重要な仕事の一つが、楽器や機材を積んだバンの運転ですね。しかもツアー中は、毎晩違う都市でショーがあるから、夜の移動。
P:俺は生粋のニューヨーク生まれで、大学生のときイエローキャブ運転手もやっていたから、夜道の運転はお安い御用というわけ。
H:イエローキャブの運転手が、どうしてローディーの道に? しかも、国民的ロックバンド・キッスの。
P:オフ・ブロードウェイの音響や舞台装置の仕事をしていた。大学生のときな。ある日、劇場にショーン・デラニー(キッスのロードマネージャー。影の立役者で“5人目のキッス”)が現れて、「いま君がやっているのと同じことを、“新しいバンド”のツアーでやってみないか」と。そのころ大学生で長期休暇が取れたから、じゃあやってみますってな。
H:21歳のローディー坊やが誕生。1973年のことです。そのときは、新生バンド・キッスがここまで大きくなるとは知らなかった。
P:地下でリハーサルをしているボーイズ(キッスのメンバーのこと)を訪ねた。あの頃、キッスはレコード会社から嫌われていたんだ。過激な見てくれのせいで。ワーナーブラザーズなんかキッスは売れないと思っていて、レコードプレス工場に生産ストップをかけやがった。
H:大手レーベルの嫌がらせ。みんなに冷たい目を向けられながら、小さなライブハウスで地道にライブを続けたと。
P:ボーイズがはじめて全米ツアーに出た1974年はバンドとしての土台ができた年で、非常に重要な年だったんだな(メジャーデビューの年でもある)。俺らローディーは、全米のキッズの目の前でキッスをバンドとしてこさえてやったんだ。
左端がピーター、右端がクルーの一員J.R.。Poster courtesy of: Lydia Criss/Sealed With A KISS, Image via “Out On The Streets”
当時、20代前半のピーター。身長189センチ、体重122キロのビッグボーイ。Image via “Out On The Streets”
H:キッスの全米ツアー元年と同時に、ローディー生活もキックオフ。生活はオン・ザ・ロード。夜中に次の都市へ移動して、ホテルにチェックインして…。
P:いや。時間があればホテルに寄ったが、たいていはホテルの部屋を見る前に会場直行だ。
H:長距離運転のあとホテルのベッドに直行とはいかないわけか。夜の開演までにやることだらけ。
P:時計の針は止まってくれないからな。バンに積んだ機材をおろすだろ。会場に機材を運ぶだろ。ドラムやアンプ、サウンドミキサーなんかの楽器や機材をセットアップして、楽屋や衣装部屋を用意するだろ。ローディーは、ただ機材を運ぶだけじゃないんだ。照明係、音響係なんかの会場スタッフ、プロモーター、プロモーター補佐が右往左往している空間で、自分がいまなにをしているのか、自分の役割を見極めなきゃいけない。こうして一日の大半はステージ準備でつぶれる。ショーが終わったら、バンに機材を積み込んで、次の都市までハンドルを握るわけだ。ホテルは数日おあずけだったこともある。
H:ブルーカラー並みの肉体労働。やはりローディーに必要な資格は、体力?
P:そうだな。俺はデカくて力があった。来る日も来る日も何台もの機材を運んで、腰を折り曲げて持ち上げてを繰り返すんだ。マーシャルのアンプなんて、90キロもあるんだぜ。この運搬作業がローディーのエクササイズでもある。
H:日々の作業が肉体強化。それにローディーには機材を取り扱うテクニックも、もちろん必要。
P:俺はずっとバンドをやっていたから機材のセットアップは朝飯前だったが。俺の場合、会場に着いて一番最初にする仕事は「熱湯とドライアイス探し」だった。
H:熱湯とドライアイス?
P:フォグマシン(演出用のスモークマシン)を準備しなければいけなかったからな。ドライアイスに熱湯を注いでスモークをつくるんだ。プロモーターに尋ねるんだ、「ドライアイスはどこにあるのか」って。
H:キッスのローディーならではのステージセットアップ。
P:それに俺はパイロテクニクス(火工術)もできたから、炎や火花を散らすような演出もできたんだ。キッスははじめてステージに爆発の仕掛けをもちこんだバンドだ。コミックから飛び出してきたキャラクターみたいな格好で火を噴き、ドーンと観客にショックをあたえる。
Photo courtesy of: Eric Hunter, image via “Out On The Streets”
Photo courtesy of: “Stormin'” Norman Gray, image via “Out On The Streets”
H:ジーン・シモンズが火を噴き血を吐き(もちろん血糊)、サーカスとホラーショーを足して二で掛けたような〈ド派手なキッスのステージ〉は、ピーターたちローディーがいなければ実現しなかった!ちなみに、ステージに火炎を持ち込むのは誰のアイデア?
P:バンドのマネジメント側だよ。マネージャーかロードマネージャーとかの。彼らのアイデアを実現するのが、俺らローディーの仕事だ。それに、爆発がちんけだとボーイズは不機嫌になるしな。
H:もっとデカい火花を散らせと。一日の労働時間も相当でしょう?
P:俺らは働き蜂。労働時間は24時間だった。眠っているとき以外はな。目を覚ましている時間は、すべてをバンドのために捧げる。バンドがいまどこにいて、なにをやっていて、次のスケジュールはなにかを把握していなきゃいけない。
H:当時はいまのように携帯もなかったけど、ロードクルーやメンバーとのコミュニケーションは?
P:Eメールもショートメッセージもない。何か伝えたきゃ、ホテルの部屋のドアをノックしに行く。ローディー同士のコミュニケーションは、そいつのところまで行ってしゃべるか、ステージの反対側から叫ばなければならなかったさ。
H:当時、バンドメンバーも22、24歳。同年代どうし、仲は良かった?
P:ボーイズとか? もちろんだ。同じツアーバンで旅をして、同じ卓で飯を食って、同じホリデーイン(チェーンホテル)に泊まるんだからな。いまなんかは、ロードクルーの人数も多くて、バンドメンバーと直接顔を突きあわせることなんて滅多にないと聞く。
H:メンバーもまだ若いし、前座バンドとして大変なことも多かったと思います。ローディーはバンドメンバーを精神的にも支えたり?
P:そうでもないな。でも精神的な支えが必要だったのはピーター(・クリス、Dr担当)だな。よくぼやいていた。俺たちローディーは、「有名になるまであともう少しだ。不満たれてねぇで頑張ろうぜ!」っていつも励ますんだ。
H:文字通りバンドのそばにいてあげる存在か。寝起きもともにしていたなら、ロックバンドの十八番、ホテルで大暴れパーティーもした? 窓からプールにテレビを投げ込んだりなんて。
P:正直にいうけどな、パーティーはするのは稀だった。第一みんな、ぼろぼろに疲れ切っている。そりゃ、バーで一杯や二杯ひっかけたり、ドラッグをちょっとやったり、女の子たちとなんやかんやあったが。映画やドラマで描かれるような“ロックンロールなパーティーライフ”ではない。ボーイズはホテルにギターを持ちこんで曲をつくっていたしな。
ローディーたちの仕事分担表。
ステージにセットアップしたサウンドシステム。Photo courtesy of: Jay “Hot Sam” Barth, image via “Out On The Streets”
H:“セックス&ドラッグ&ロックンロール”とは、なかなかいかない。
P:ローディー生活は、「Hard(キツい)&Dirty(汚い)&Dangerous(危険)」だ。ドラッグでトンでなんていたら、肉体的にも精神的にもローディーの仕事はできない。
それに、ローディーは“常に”バンドのボディーガードでもある。バンドといるときは“常に”だ。何度でも言うぞ、“常に”だ。バンドメンバーに怪我をさせては絶対にいけない。彼らのためならローディーは殴り合いのケンカもする。いまのローディーたちの間ではないことかもしれないけどな。
H:殴り合いのケンカは経験済み?
P:いや殴り合いはしなかったが、エアロスミスのロードクルーとは一触即発だった。ステージのセットアップをしているとき、やつらはステージを占領した。俺たちが「君たちのアンプを数十センチ動かしてくれないか」とお願いしたのに「いやだね」の一点張りさ。プロモーターが仲裁にはいって事なきを得たが。殴り合いのケンカをしたら、みんな緊急病棟行きでショーが中止になっちまうわけだから、それだけは避けなければいけない。あぁ、でも一度だけキレて暴れたことはあった。
H:ワットハプン?
P:シアトルかどっかの会場でだな。ローディーのために用意されていた夕食が、チーズとクラッカーだけだったんだ。チーズ。と。クラッカー。ローディーなんて常に会場を動き回っているから座って食べている時間なんてないんだ。マクドナルドへバーガーを買いに行く時間もないし、ちょっくら外で済ませてこようなんて無理だ。そんな仕事熱心な青年たちにチーズとクラッカーだと! 俺は生粋のイタリア系ニューヨーカーだ。いいものだけは食ってきたからな。なんだか、前座バンドのローディーだからと見下されているような気がして怒りが沸点に達した。楽屋のモノをすべて破壊し、シンクを壁から剥ぎ取って3階の窓から放り投げたね。
H:ザ・ロックンロールライフ。
P:それまで人様の所有物を破壊してきたことなんてなかったが、この時ばかりはキレちまってな。
H:他にもザ・ロックンロールライフな出来事は?
P:んんん…アンプが爆発したら、きちんとバックアップはあったしな…。ああ、プロモーターがスモークマシン用のドライアイスを準備し忘れていたことがあった。あれは大惨事だったぜ。大急ぎで開演前にドライアイスをかき集めて。エース(・フレーリー、gt担当)がホテルのバスタブで危うく死にかけたこともあった。あとは、運転中何度かハンドル握ったまま寝落ちしたこととか。
H:生きているのが奇跡ですな。思い出に残るキッスのステージは?
P:シカゴの野外ライブは覚えている。デトロイトのショーもデカくてよかった。でもな、特別にこのライブってのはない。とにかく毎晩毎晩ライブをこなしていくのが、俺たちの仕事だったから。
Photo courtesy of: “Stormin'” Norman Gray, image via “Out On The Streets”
Photo courtesy of: Kenny Saltzman , image via “Out On The Streets”
H:花形の音楽業界を裏で支える肉体労働者、ローディーの仕事から何を学びましたか。
P:人間の本性だね。俺も当時22歳だったけど、ライブを成功させるには現場に嫌なやつがいても我慢してみんなと仲良くしていかなければいけないんだ。みんながみんな自分と仕事をしたいと思っているわけではないしさ。そりゃ嫉妬や意地悪が渦巻いているからな。でも、そんなんで喧嘩している暇はねえ、俺たちにはそのエネルギーを費やすべき“もっと他の重要なこと”があるって。
H:他の“重要なこと”とは…。
P:ショーを成功させることだ。これが、ローディーのプライドだ。何が何でも最高のショーを実現させなきゃいけない。雨も雪も竜巻もハリケーンも俺たちを止められない。人生で一番悪天候のなかバンを走らせたこともあった。金欠で、バンドメンバーしかホテルに泊まる金がなかったり、バンのガソリン代さえもないときもあった。それでも可能な限り多くのファンにバンドを観せてやる。これが使命だ。
ジーン(・シモンズ、vo&ba担当)も言ってように「5ドル(のチケット)を握りしめてキッスのショーを観に田舎からやって来たキッズがいたら、俺らは5ドルに値するものを返さなきゃいけねえ」。実際、吹雪のなか32キロも歩いて会場まで来たファンもいて、バックステージに入れてあげた。俺たちの望みはな、ただボーイズが成功することだったんだ。
H:バンドの一番のファンにならなきゃいけないと。
P:違う。ファンになってはいけない。バンドに会ったからって写真なんかを撮りはじめる“ファン”になっちゃいけないんだ。もちろんボーイズのことを第一に思っている。だけどな、俺たちはステージワーカーだ。あたえられた仕事をし、次の都市に行き、ライブのためにセットアップする。ファンとかじゃねぇさ。
H:この労働スピリットが過酷なローディーライフの根底にあったと。
P:ポール(・スタンレー、gt担当)がある日俺たちローディーに言ったんだ。「キッスが成功したらな、俺たちがお前たちのめんどうをみる」。約束の誓いだ。だから俺らは、ボーイズが成功したロックバンドになるためにできる限りのことで助けてみせるって。
左がクルーの一員ミック、右がJ.R.。Photo courtesy of: Fin Costello, image via “Out On The Streets”
H:そしてキッスは徐々にスターダムにのし上がった。でも76年にロードクルーたちは散り散りに。なぜ?
P:まずは俺が大怪我をしたんだよ。火炎の仕掛けを準備していたときに事故があって、もう少しで手が吹き飛ぶところだった。その治療もあったし、大学を卒業しなきゃいけなかった。
それにな、キッスはその頃にはもう“ロックスター”になっていた。76年のツアーで、ジーンは生意気な口を利いてきたし。キッスは成功したのに、俺たちのことは顧みなくなったんだ。約束通りにはいかなかったな。クルーのみんなも他のキャリアもあったし、最後の給料だけもらって辞めた。
H:これまたロックンロールな終わり方。その後メンバーとは?
P:5年前、ポールとジーンが書いた本のサイン会で2人には会った。1年前、45年ぶりにピーターに会ったときは、お互いの目に涙が浮かんでいたさ。
H:ローディーは、舞台裏からバンドの土台を支え、一夜限りのライブを血と汗と涙を流して演出する。ローディーなくして、バンドはない。 生まれ変わっても、またローディーになりたいですか?
P:ローディーにはもうなりたくないね、トゥーマッチだ。道中での生活はキツくて汚い、すごくいい生活とはいえない。いまは家があり、清潔な生活があり、いい車に乗り、映画関係のいい仕事もある。定年に一歩足を踏み込んでるけど、まだ年老いている感じはしねえ。ついこの前も、近所のフィットネスジムでジーン夫妻に出くわしたしな。
Interview with Peter Oreckinto, The Original Kiss Krew
現在のピーター(中央)。KISSメンバーのジーン(左)とポール(右)と、2013年ロサンゼルスで開かれたKISS伝記サイン会で再会。
Photo courtesy of: Daniel Siwek, image via “Out On The Streets”
Photo courtesy of: Jay “Hot Sam” Barth, image via “Out On The Streets”
Text by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine