あのザ・ビートルズのメンバーみんなから愛された男がいる。彼の名はKlaus Voormann(クラウス・フォアマン)。
ドイツ人アーティストでミュージシャン。そしてビートルズのアルバム『Revolver(リボルバー)』のジャケットデザインを手がけた、ビートルズの下積み時代からの友人だ。
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1962年にマッシュルームカット&スーツ姿でデビュー、女の子たちの金切り声で迎えられたビートルズ。デビューから4年後の66年にリリースしたリボルバーは、いままでのアイドル路線の甘いメロディを裏切るかのような前衛的な新しいサウンドで、ビートルズがアーティストとして成長する過渡期にあったアルバム。
発売からちょうど50周年にあたる8月5日に、ジャケットデザイン誕生秘話をもとにしたグラフィックノベル『Birth of an Icon: Revolver 50(バース・オブ・アン・アイコン:レボルバー50)』(英・独語)を出版した78歳のクラウス。
デザインにまつわる裏話や彼にしか語れないビートルズとの日々。今は故郷ドイツに住むビートルズのサイドマンは、穏やかな声でゆっくりと言葉を選びながら電話口で話してくれた。
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ビートルズのサイドマン、鉛筆でなぞった50年前の追憶
制作期間2年ほどかけて完成させたというグラフィックノベル。
「(リボルバーのジャケットデザイン誕生秘話を)文章という形でなく、当時の様子がどうだったかみんなに視覚的に見てもらいたくてね。あの頃ぼくが仕事場にしていたアパートやビートルズのレコーディングスタジオ、そしてEMI(ビートルズが所属していた英レコード会社)のオフィス。それでグラフィックノベルにしたんだよ」
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コンピューターは一切使わず、すべて鉛筆描き。頭の中にはっきりと残る当時の記憶のままに描き進めた。鉛筆を片手に紙の小さなスペースをビートルズたちとの想い出で埋める。「とてもとても感慨深い2年間だった」
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下積み時代のビートルズに出会ったのは、ドイツにて
ビートルズとの出会いは60年、ドイツのハンブルグにて。当時美大生で商業デザイナーとしてキャリアもスタートしていたクラウスはある日、治安の悪い歓楽街にあるダンスクラブの地下からロックンロールを耳にする。ジャズやクラシックを嗜んでいた青年には衝撃のサウンド。演奏していたのが、ビートルズだった。
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「すぐに仲良くなったよ。そのころぼくは英語は少ししか話さなかったけど、すっかり打ち解けて。フランス映画やアート、カンディンスキー(ロシアの画家)なんかがお互い好きでね」
デビュー前の巡業時代を送っていたビートルズ、ハンブルグに知り合いもいなかった彼らが、一緒に食事したり映画に行ったりビーチにドライブに行ったりする仲間が欲しかったのだろう、とクラウス。
「ビートルズは4人ともみんながみんな揃って愉快でウィットに富んでいて。小生意気で初々しい子たち(boys)だったよ」
ジョンとリンゴよりも2歳、ポールよりも4歳、ジョージにいたっては5歳年上のクラウス。ビートルズメンバーを“ボーイズ”と愛しそうに呼ぶ。
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ビートルズがイギリスに戻った後も親交を深め、クラウスはやがてロンドンへと渡った。
ジョンの電話からすべてははじまった
66年のロンドン。一晩中呑み明かし雨の中ずぶ濡れになりながら帰宅したある朝、バスタブに浸かっていると電話がかかってきた。声の主はジョン・レノンだったという。「電話口でジョンはこう言ったんだ、『次のアルバムジャケットのアイデア、何かある?』って。ビートルズがぼくにデザインを依頼してきたんだよ!あれにはたまげた」
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そのころ、英バンド Manfred Mann(マンフレッド・マン)のベーシストとして音楽活動一本だったクラウス。「長らくペンにも絵筆にも触れていなかったからね。正直グラフィックデザイン制作するのは気が進まなかったよ」。
それでもあのビートルズが頼んでくれたんだから「that was just amazing(それはそれは素晴らしいこと)!」と、オファーを承諾。
「彼らのスタジオに行って、収録曲のテープを聴いたんだ。ただただ驚いたね!だって『I Want To Hold Your Hand(抱きしめたい)』や『Please Please Me(プリーズ・プリーズ・ミー)』みたいな初期の曲とは全く違ったから。シュールで前衛的だった」
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ビートルズ7枚目のオリジナルアルバムとなったリボルバーは、当時メンバーが傾倒していたインド音楽の要素や実験的なサウンドが特徴の、いままでのアルバムとは一線を画す一枚。
「曲を聴いたあとデザインはどうしたものかと悩んでね、『どんなふうにしてほしいんだ?』とビートルズに聞いたんだ。そうしたらみんな口を揃えてこう言った。『わからないな。クラウスが思いついたものでいいよ。僕たちは音楽担当、クラウスはジャケットデザイン担当さ』」
当時住んでいた小さい小さいアパートの食卓をスタジオにして、デザイン制作に取り掛かった。
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デザインのインスピレーション源になったのは、アルバムの最後を飾る曲『Tomorrow Never Knows(トゥモロー・ネバー・ノウズ)』。
“ビートルズ初のサイケデリックロック”と呼ばれテープの切り貼りや逆回転が多用されているアバンギャルドなナンバーだ。
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「いままでのファンを喜ばせるようなデザインにしたい。同時に、このアルバムはビートルズにとって前進する画期的な作品でもある。だからきっとメンバーの顔がみたいファンのために顔イラストや写真をコラージュ、そして髪の毛がもじゃもじゃっと絡む斬新なモノクロのデザインにしたんだ。サイケデリックでカラフルなアルバムジャケットが多かったあの頃、白黒は珍しかったからね」
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ジョージの顔が一番苦戦したのだとか。彼の写真を雑誌から見つけ、目と口を切り抜いて貼り付けた。こうして3週間が経ったころ、世界中の人々の脳裏に焼付くことになるあのアイコニックなアルバムジャケットが誕生する。
ビートルズ・マネージャーが涙したジャケットデザイン
ビートルズのメンバーとプロデューサーのジョージ・マーティン、マネージャーのブライアン・エプスタインの前で作品をお披露目したクラウス。「ひどく緊張したよ。みんな気に入らないんじゃないかって。口火を切ったのはポールだった、『クラウス、これは冗談だよね?』」
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彼が指差したのは、トイレの便座に座っているポール自身の写真。ビートルズと兄弟のように仲が良かったクラウスだからこそできたジョークだったのだろう。「当然そのコラージュ写真は差し替えたけどね」と笑いを含みながら裏話を口にした。
「(ジャケットデザインを)みんな気に入ってくれた。ブライアンなんて涙を浮かべてこう言ったんだ。『このアルバムはビートルズにとっての大きなステップで今までとは方向性が違うから、世間が受け入れてくれるかどうかすごく不安だったんだ。でも君のデザインがきっとその架け橋になってくれる』」
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結果ジャケットデザインはグラミー賞ベストデザイン賞を受賞、新しいビートルズサウンドを鳴らしたアルバムはロック史に名を残す歴史的な一枚となった。
「あの子たち(boys)は下積み時代とおんなじ人となり。変わったのはライフスタイルだけだよ」
リボルバーが誕生した66年は、ビートルズはツアー続きで寝る間もないくらいの多忙期。最初で最後の来日を果たし、伝説の武道館コンサートをしたのもこの年だった。
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「でもあの子たち(boys)はハンブルクの下積み時代とおんなじ人となりで、いつ会ってもいい子たち。変わったのはライフスタイルだけだよ」
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とりわけ一番年下で甘えん坊のジョージと親交を深めたクラウス。63年ロンドンへ上京してきたばかりのころ、リンゴとともに同居していた。「最初メンバー全員で住んでいたアパートがあって。ポールとジョンが出て行ったあと、ジョージが一緒に住もうよと誘ってくれたんだ」
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そしてビートルズ解散後初となるジョージのソロレコードにもベーシストとして参加。
明け方までスタジオに篭ってレコーディングした帰り、一緒に食事に行き公園まで歩いたこと。お互いの人生について語り明かしたあの日。「彼はとてもとても大切な友だちだった。いつかぼくの後を追いかけてきてこう言ったこともあったけ。『クラウス、もしなにか助けやお金が必要だったら、心置きなく教えてね』」
そう追憶するクラウスの柔和な声は、一歩後ろからボーイズたちを見守っていた暖かい眼差しと同じ温度。ビートルズを愛しビートルズに愛された、サイドマンの声だった。
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Text by Risa Akita