19世紀終わりにはサンバが民にリズムを。20世紀半ばにはボサノヴァが都会人に洗練の調べを。ブラジルという国には、いつの時代も音楽が花咲いていた。
しかし、64年の軍事クーデターで花は萎れる。自由思想を生む芸術は弾圧され、エレキギターは欧米の象徴だと揶揄された。
だが、制約があればそこには創造が生まれるものだ。65年、反逆のカウンターカルチャームーブメント「トロピカリア」の流れで、ロックンロールが産声をあげる。16歳の“恐るべき子どもたち”の手によって。
カート・コバーンもベックも愛した「ブラジル最重要ロックバンド」
トーキングヘッズのデヴィッド・バーンやベックが熱をあげ、カート・コバーンがニルヴァーナのツアーの為に再結成してくれと懇願したバンド。それがブラジルのロックカルトバンド「Os Mutantes(オス・ムタンチス)」だ。
ビートルズが『Help!(ヘルプ!)』をリリースし、ボブ・ディランがアコギをエレキに持ち替えた1965年、サンパウロでセルジオ・ヂアス(Sérgio Dias)・アルナルド・バチスタ(Arnaldo Baptista)兄弟と紅一点のヒタ・リー(Rita Lee)によって結成された。
“サージェント・ペッパー(ビートルズのサイケアルバム)に対する、ブラジルからの返答”と称されるアルバム『Os Mutantes(オス・ムタンチス)』で68年にデビュー。頭がクラクラするほどのサイケデリックサウンドにシアトリカルなアンビアンス、ブラジル伝統リズムをごちゃ混ぜにした独自の音楽路線をとった彼らは、音だけでなく存在自体もラディカルだった。それは、音楽やアートが踏みにじられた軍事独裁政権時代のブラジルで、ロックという“反逆”を体現し、抑制と弾圧に押しつぶされる民に自由という名の尊厳を教えたからだ。
78年に解散後、30年の活動休止を経て2006年に再始動。先月27日にはニューヨーク公演も果たしたムタンチス。今回HEAPSではオリジナルメンバーのセルジオに取材、「時代の異端児が制約の中で鳴らしたロックの音」を探った。
セルジオ・ヂアス
おかっぱ頭の“時代の申し子”、16歳でデビュー
ブラジル・60年代。「ギターも弦もピックもレコードも手に入れるのに困難な時代」にセルジオは育った。楽器は自分の手ですべて組み立てる。「でも、それが楽しかったのさ」。
欧米ではビートルズにストーンズ、ヒッピーバンドたちがロックやフォークで席巻するなか、南半球ブラジルにもその“自由な音”が漏れ聴こえるようになった。
キッズたちはビートルズにエルヴィスを一聴しようと、必死で短波ラジオでBBC放送を探しあてテープに落としたり、やっとこさ手に入れたレコードを抱え友だちの家に集まり耳を傾けたり。
「『Help!』がブラジルで発売される頃には、すでにコードをそらで弾けるようになっていた」ほどのロック少年・セルジオ、意味もわからぬ英語の歌詞を口ずさみながら、13歳にはビートルズに憧れマッシュルームカット。その3年後にはデビュー。恐ろしいぐらいの早咲きだった。
カウンターカルチャームーブメントの中心で
ブラジルはいつの時代も音楽が潤沢な土地だった。サンバやショーロ、民族音楽フォホーにボサノヴァ。
60年代に入ると、ボサノヴァにロックやソウルを入れ込んだポピュラー音楽「MPB(エミ・ぺー・べー)」が流行り、“ブラジル国民の声”と称されるミルトン・ナシメントや文学賞受賞作家でもあったシコ・ブアルキ、国民的歌姫エリス・レジーナなどが登場した。
しかし、64年。「あの事件」が起きる。軍事クーデターだ。軍事独裁政権という暗黒時代に突入したブラジルでは自由主義的な芸術は弾圧され、保守派と急進派は衝突。軍事主義の右翼たちには芸術そのものを否定され、共産主義の左翼からは“ギターを抱えロックを鳴らす者は親米家だ”と批判される、「とにかく、しっちゃかめっちゃかの時代だった」。
カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジル、トン・ゼーなどのミュージシャンたちが、表現の自由が制限された社会に対して起こしたカウンターカルチャー・ムーブメント「トロピカリア(トロピカリズモ)」の中で、“恐れ知らずの子どもたち”ムタンチスもムーブメントの一員として、テレビ出演にコンサートにと勢いに乗った。
「ぼくらは愛されてもいたし、嫌われてもいた。みんな必死でムタンチスにラベルを貼ろうとした。でもね、どんなジャンルにもおさまりきれない。ただの自由な子どもたち、宇宙の支配者(master of universe)だったから」
「ぼくらは右でも左でもなかった。アナーキストだったんだ」
白昼夢のようなサイケロックで登場したムタンチスに、世間の反応は良くも悪くも大きかった。
セルジオが「最も思い出に残る出来事の一つ」としてあげたのが、68年のサンパウロでのコンサート。カエターノとステージに立ったムタンチスは『E Proibido Proibir(エ・プロイビード・プロイビール:禁ずることを禁ずる)』で保守派の観衆からブーイングを浴び、タマゴやトマトを投げつけられる。思わず背を向ければ、それが反政治的だと批判され。「ただ飛んでくるモノから身を守ろうとしただけなのにさ!」
同年にはカエターノやジル、ムタンチスらが集まりオムニバスアルバム『Tropicália(トロピカリア)』を制作。しかし警察の手はもうそこまで来ていた。文化人や知識人は弾圧され、牢獄に入れられる日常。反体制的だったカエターノとジルがついに逮捕され、ロンドンやパリに亡命するミュージシャンが後をたたない状況になる。ムタンチスも、警察が張っているからとホテルの外に出られないこともあった。
「ぼくらは右でも左でもなかった。アナーキスト(無政府主義者)だったんだ」。ただ単に憧れのビートルズのようにロックンロールし、ラブソングを歌い上げ、アートの花を咲かせたかっただけなのだ。
“時代の鏡”という役割
制限だらけの政治に混乱した社会で。ムタンチスが“音楽”で果たしてきた役割はなんだろう。それは「鏡」だとセルジオは答えた。
「その時代のその瞬間、人々の考え、そしてみんなが見落としていることまでをも如実に映し出す鏡とならなければならない。聞かれていない質問の答えまでをも用意してあげるべきなんだ」。
当時その“聞かれてもいない質問”というのが「芸術という存在意義の有無」であって、ムタンチスは「イエス」と答えたのではないか。
60年代、ムタンチスは軍事政権に揺れる社会に自由の雨を降らせ、レインボーの虹をかけた。
あれから50年。先日のコンサートでは、ステージを仰ぐ老若男女のオーディエンスに、どこまでも変幻自在な宇宙のサウンドを浴びさせていた。
Os Mutantes
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Photo Courtesy of Os Mutantes
Text & Concert photos by Risa Akita
Edited by HEAPS